今、シンガポールに住んでいる。国民の八割方は中華系で、残りがマレー系とインド系という構成で皆、英語が喋れる。勤務するテレビ局のCEOは英国人で、副社長らも英国人。旧大英帝国の植民地だったから、英国色は強い。あとはアメリカ人、カナダ人、オランダ人、インドネシア人、韓国人、たった一人の日本人である私と、残りは「ローカル」だ。
私はこの「ローカル」という言葉は嫌いだ。「シンガポール人(Singaporean)」と言えばいいところを「ローカル」と言ってしまうのは無意識の蔑視ではないかと感じる。例えば我々外国人は「ローカル」が余り足を運ばないバーやクラブやレストランに出向く傾向がある。現地の給与体系や物価からすれば非常に高価な場所なので余りシンガポール人は来ない場所なのだが、外国人にとっては自国の東京やロンドンやミラノやNYで遣う額に比べたら安い。外国人は平気で立ち寄る。そういう「ガイジン狙い」で、長い黒髪の女の子達が褐色の肌や肩を露出させて群がり始め、やがて、そういう場所には女の子目当ての現地の男の子達が徐々に増えていく。すると外国人が言い出すのだ。「ここも、もうローカルが増えて、駄目だな」
こうして、そのバーやクラブやレストランから足が遠のいた外国人は、次の場所を見つける。溜まり場が出来た頃には現地の女の子が出没し、やがて現地の男の子が追いかけ、そこは「ローカル」の場所へと「堕落」してしまう。私は「もうローカルが増えて、駄目だな」という倣岸不遜な言葉に怒りを覚える。植民地主義の匂いを感じる。といっても自分はこの国では外国人であり、プールとテニスコートとジムのあるコンドミニアムに住んでいる。「ローカル」ではない事は確かだ。
思い出した。12年ほど前、まだ東京に住んでいた頃、仏人国際ジャーナリストの息子と飲み歩いていたことがある。彼は、植民地主義とはほど遠い感覚で私を「パーティーがあるから来ない?」と知人のパーティーに引き回してくれたものだが、それはどれも六本木や代官山や青山界隈の億ションで繰り広げられており、集まっている者は豊かな駐在員子弟などで一種、デカダンな雰囲気が漂っていた。自分の住んでいる同じ東京にあって、こういう広々とした治外法権の外人居住区と閉じられたコミュニティーが存在することに驚き、私は場違いな感じを覚えたものだ。
あの12前の場違い感を今言葉にすれば「俺はローカルさ」という疎外感かもしれない。治外法権の外人居住区からの現地人へ対する視線は「ローカルか」と見下ろすものだ、ということは不愉快だが認めなければならない。シンガポールの白人男性は群がる「ローカル女」を、シーツを変える回数よりも多く取り替える。それはちょうど、六本木の外人が群がる「ローカル女」つまり大和撫子を毎晩漁るのと同じ現象と視線なのである。不愉快だが、本当だ。
そしてまた、外国に住むなら確かに駐在員待遇で出向くのは「おいしい」が、一方で「ローカル」文化からは切り離された「似非インターナショナル租界」に安住して視野が狭まる危険があることにも自覚的でありたい。世の中は目に見えないいくつもの層にわかれている。
(June.2002 English Network誌より
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