『アジアの路上で』
          文・戸田光太郎
 第3回  「北京のマイルス・デイビス」

 建国門内大街を西へ西へと延々歩いた。常夏のシンガポールから出張している私は久しぶりにトレンチ・コートにスーツだ。耳が千切れるほど寒い。何人か中年女性に呼び止められた。「いいコいるけど、遊んでかない?」という常套句。中には素人の撮影したスナップ写真を見せる遣り手婆までいた。写真を街灯に翳して見る。緑に覆われた建物から微笑んでいる若い女性だ。

 の遣り手婆についていったら、本当に彼女が出てくるのだろうか。その可能性は低い。マクドナルドの理論だ。じゅうじゅう鉄板で跳ねるバンズに瑞々しい玉葱や緑滴るレタスが載るCMイメージを見せられた貴君の実際手にするものは、油でグズグズに潰れた現実である。 私は下手な中国語で彼女の申し出を断り、「BAR」の字にひかれて地下の薄暗いバーに入り、スツールに腰掛けてバーボンを飲んだ。北京の中国人も、こういう西欧酒場を知ってしまった。後戻りはできないだろう。地元の若造にダーツを誘われて賭けた。負ける。ビールを奢り、私はバーカウンターに戻った。


 でビールを飲んでいるスーツ姿の白人と会話する。彼はスコットランド人。北京に数年いるという。水汲みポンプの技師で、中国奥地にもよく行くそうだ。英国にいた頃はベニスに毎年旅行したという。情報交換する。私もベニスは遊びに行く。スコットランドは取材旅行している。グラスゴーの話から、建築家マッキントッシュが皿までデザインしたというカフェの話題になった。彼はモンゴルに何回も出張しているという。ウランバトゥールに「チャーチル」というパブがあって、本格的な英国ビールやフィッシュ&チップスを置いているという。チャーチルを描いたTシャツもあるそうだ。


 て、このスコットランド人は父親と二代に渡ってジャズが好きでマイルス・デイビスのファンだという。九二年に英国ウェンブリー・スタジアムでのコンサートに親子連れ立って行った。その話をしてくれた。大観衆の前でマイルスはよろよろとステージに現れるとスツールに寄り掛かってペットを握った腕をだらりと垂らし、身動きできなくなった。スタジアムを埋め尽くした観衆はその末期的な様子に息をのむ。(こりゃあ、駄目だ)という集合意識がスタジアムを覆い、観衆を緊張させた。若手バックバンドが恐る恐る演奏を開始し、会場をピリピリした空気が覆う。

 、マイルスは自分のパートが来るとペットを構え、すっと立ち上がった。吹いた。空気を裂く音。完璧だった。不安の際にあった観衆から怒涛ごとき歓声があがった。マイルスは自分のパートが終わるとスツールに寄り掛かり、仮死状態に戻る。が、またシャキッと演奏する。「凄まじい二時間だった。普通、おきまりのアンコールがあるけど、彼は演奏が終わるとペットを、こう空に突き上げて、ステージを去った。アンコールなんて必要ない。皆、納得した。で、それからちょうど6週間後だったよ、マイルスが死んだのは」


 京で米国黒人音楽家の英国公演のことをスコットランド人と語っている私はシンガポール在住の日本人である。不思議な状況とマイルスの逸話と酒が、私の腹の底を熱くした。

(23.Apr.2001「星日報」より All right reserved by TODA Kotaro)

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