「地上の酒場に属する者」
戸田光太郎
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- ヴァージン航空で週末アテネに飛び、プラカ地区を歩く。見上げればアクロポリス
が目に入り、酒場でウーゾをしこたま飲むと自然、千鳥足はそちらへ向かう。ドーナ
ツ型の巨大な大理石を重ねて、遠目には一本に見える柱で出来た重厚な入場門を通
り、真正面のパルテノン神殿に相対す。現代の基準からしても広大な建物だ。
荘厳な空間に心奪われる。その左手の典雅な建物、エレクチオンの軒先にはドレー
プをまとった数体の女性像が並び、大理石の軒を支える柱となっている。キリスト生
誕の四百年以上も前に作られた精妙雄大なアクロポリスを一周して平地に住む平民を
睥睨(へいげい)し、しかし風に吹かれて次第に酔いが覚めれば、当時の日本人は縄
文土器しか作っていなかったことに思い当たり、やはり親しみの持てる下界へ心引か
れて降りていくことにした。酒場でウーゾを飲み、地下鉄モナスティラ駅へ歩く。
地下鉄といっても、ここから終点の港町ピレウスまでは地上を走っている。
ピレウスの日曜マーケットに足を運んだのだが、あまりの混み様に閉口した。線路
ぞいに延々と続く露店の間で人の流れが滞留する。市場の入り口の酒場に引き返し
た。行きに一瞥したところ、店先で鶏や蛸を炭火焼きして、良い匂いを放っていた。
ようやく人波から解放され、店に入る。と、薄暗い中では地元民が酒焼けした顔から
好奇の瞳をこの東洋人に向けた。敵意はない。一人の老人が隣の椅子を勧めた。誰も
英語が出来ない。唯一英語の分かる女将にビールと店頭で焼いているものを一通り頼
んだ。酒場中の視線が(ワシラの国のものが食えるかの)と心配していたが、日本人
には馴染みのものばかりでどれも旨い。私が旨いうまいとジェスチャーすると酒場の
連中は(そうだろう)と誇らしげだ。
旅行者の多いプラカ地区でも商売人には節度がある。通りすがりの外人を騙してや
ろうという底意がない。売れなきゃ売れないでいいや、という感じだ。ここの店でも
女将に勘定を頼んで驚いた。ビールはこっちのテーブル一行から、蛸はこっちのテー
ブルから、という具合に、ほとんど奢られていたのだ。この人達は私より豊かなわけ
ではない。返礼として一人に一本ずつウーゾを進呈してくれ、と女将に頼むとそれは
即座に全員から(とんでもない)と却下された。私は彼等の心意気が嬉しく、自分が
アクロポリスではなく下界の酒場に属する人間であることを誇らしく思った。山の手
のプラトンには下町の心意気は分かるメエ。
- (「英国ニュースダイジェスト」コラムより)
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