「歩き去るカシミアコート」
                        戸田光太郎 
  - パリは好きだが、ロンドンからの日帰りは嫌いだ。まあ、仕事だから仕方ない。ブル
 ーのシャツの右袖と左袖にそれぞれ東京とロンドン時間を示すデュアルウォッチ型カ
 フスを留め、濃紺の三つボタンのスーツとちょっと前までお気に入りだったキャメル
 色のカシミアのロングコートを着て、私は早朝のウォータールー駅からユーロスター
 に乗った。
 
 
 最近他界したスタンリー・キューブリック監督「時計じかけのオレンジ」の原作
 はアンソニー・バージェスだ。ユーロスターで読んでいたのは彼のアジア体験の集大
 成「Earthly Powers」。赤ワインを飲みながら英文を読んでいると忍び寄る睡魔の
 足音には無防備で、ほどなく爆睡した。ふと気付くと、もうパリ北駅に到着していた。
- 重い鞄を持ってホームに降りた。 
 寒い。パリの方が寒いのか。いや。タクシー乗り場に急ぐ私の足は止まった。この
 寒さは尋常ではない。
 ああ! と寝覚めの私はスーツ姿の自分を見出した。コートを棚の上に置き忘れ
 てしまったのだ。引き返す。黒人の係官に呼び止められた。列車に引き返すことは出
 来ないと言う。私は事情を話した。係官は理解したが、私の荷物は彼の足元に置き去
 りにしていかなければいけないと言い張った。私は荷物を置いて、車両に引き返した。
- 座席番号を確認する。ここだ! が、網棚にカシミアのコートはなかった。うろう
 ろしながら何度も座席番号を確認した。なかった。盗まれた。
 
 
 私は寒さに身震いしながら北駅のタクシー乗り場で思い出した。昨晩のことだ。
 私は寝室の暗闇で、あのコートのことを考えていた。あれはアムステルダムに住んで
 いた十年ほど前、ニースに旅行した時に買ったのだ。贅沢な雰囲気を醸し出してくれ
 るコートで気に入っていたのだが、最近は、同色の皮手袋などを突っ込んでいたポケ
 ットが飛び出してきて少々くたびれていた。で、私は闇の中で(そろそろ買い替え時
 か)と考えていたのだ。間違いない。寝室のワードローブの中でカシミアの彼は主人
 である私の声を耳にしたのだ。彼はその言葉に深く傷つき、決心し、祖国フランスに
 辿り着いたパリ北駅で、そっと主人から歩き去ったのだ。どこに行ったのか。クリニ
 ャンクールの蚤の市辺りで、彼を本当に溺愛してくれる、そうだな、貧しい移民にで
 も巡り合って欲しいな。「おい、今日、市場でこんな掘り出し物があったぞ」と彼は
 妻に言う。生活は苦しいけれど彼を愛している妻は微笑して言う。「馬鹿よ、あなた、
- また無駄遣いして」。こうして世界は回っていく。
 
  -   (「英国ニュースダイジェスト」コラムより)
  - <表紙に戻る>