戸田光太郎
ロンドンから東京に出張するとカメラマンの友人Kと飲むことにしている。クーラーのビシッと効いた天井の高い青山のバーで待ち合わせていると携帯が鳴った。「悪い。まだスタジオでブツ撮りが長びいてる」
歳若いバーテンの背後の酒棚を見た。一本のボトルに目が止まる。 「その、タリスカーというのを」
「ロックにしますか?」
「いや。そのままで」私はタリスカーの醸造所に行ったことがある。ロンドンから飛行機でスコットランドのインヴァネスに飛んでレンタカーを転がし、スカイ島の醸造所に辿り着いた。工場を見学してウィスキーを試飲しようという時に氷を入れようとしたら、頑固そうなスコットランド人の女性係員に注意された。氷は厳禁ですよ。水で割るのは構いませんが。基本は生で飲むことです。以来、その掟は守っている。
バーテンがチェイサーの隣りにタリスカーを並べ、私はじっくり味わった。喉から胸に広がるピート(泥炭)の味わいで、目の前にスコットランドの光景が広がる。これは大袈裟な話ではない。スカイ島は特にスコットランド的光景の凝縮された場所で、「何もない」。つまり、通常の「観光」要素が一切ない。どこまで運転しても手付かずの荒々しい自然が広がるだけ。ざらっとした岩肌、峻険な谷間、赤紫のヒースの花々と大麦畑と羊。ところが、そのモルト(大麦胚芽)から作った酒に、ヒースが堆積して真っ黒いピート(泥炭)となったものを焼いて味付けしたものが、シングル・モルトなのである。ヒースは見た目には可憐だが、厳しい土地でも育つタフな常緑低木だ。これが堆積して長い年月を経てピートになる。ピュアな水、大麦胚芽、泥炭。スコットランドで目に入る自然をそのまま酒に封じ込めて飲んでいるに等しい。東京のバーでも、封じ込まれた自然が胸の辺りで開封されて私の体はスカイ島の雄大な光景に包まれる。
そこにようやくカメラマンのKが現れた。「おお元気?」隣りのスツールに掛けるなり言う。「来週撮影でロンドン行くんだけど、最後にオフ取るつもりでさ、どこかお勧めあるかい?」
「インヴァネスに飛んでネス湖沿いに運転してスカイ島に行くことを薦めるな。眼目は恐竜じゃないぞ」私はバーテンを呼び寄せ注文した。「彼にも同じ物を」