戸田光太郎
湾岸戦争の頃、アムステルダムに住んでいた。当時、私は頻繁にミラノに出張した。後にイタリアの首相となるメディア王シルビオ・ベルルスコーニの持ち会社「プブリタリア80(オータンタ)」で打ち合わせるためだ。リストランテでの昼食にオフィスを出る時、私がビルの軒下を離れて夏の日差しを歩くと仕事仲間のイタリア女性に注意された。「早く日陰に入りなさい」
これは新鮮だった。アムステルダムはロンドンと同様、いつも天気が悪い。だからオランダ人もイギリス人も太陽さえあればその中に飛び込もうとする。私もオランダでの長い冬を体験していたので太陽を見ると本能的に体を晒すようになっていた。それが同じ欧州でも、南下してイタリアやスペインに行くと、太陽はそれほど歓迎される存在でなくなる。スペインで闘牛に行った方はご存知だろう、夕刻に始まる闘牛場で西日がいつまでも射す座席は安価なのである。とにかく暑い席だ。
だから「太陽のない」欧州北部から来た人間にとって、赤道に近い太陽の国々でのバカンスは夢なのである。
端的に、彼らは太陽の下に生白い裸身を晒し、欠乏する太陽光を手っ取り早く吸収しようとする。
一方、白い裸体を受け入れる現地アジアの庶民側は訝る。どうして白人はマグロのように太陽光の元で寝転がっているのか、と。(きっと白い人々は頭が変なのだろう)
タイ辺りでは色白が美人の条件だが、ヨーロッパでは綺麗に日焼けしているということが金持ちのステイタスである。ビーチでもスキー場でもリゾートで日焼けできるのは富裕層の証だ。東南アジアで日焼けしているのは家にクーラーのない貧乏人の証である。
太陽一つを取っても、これほど各国のコンセプトは異なる。
まだ東京に住んでいた頃、日本出張中のイギリス人ビジネスマンが「いやあ、いい天気だ」と東京の空に感激しているのを訝ったものだ。だって、それは普通の、ちょっと雲のある晴れた日であって、我々日本人が感嘆して言う「ああ、いい天気ねえ」という類の、真っ青な空の日ではなかったのだ。
現在、イギリスの曇天に慣れ親しんでしまった私は日本出張すると「ああ、いい天気だなあ」と感嘆して、周りの日本人から「戸田さん、これ普通の日ですよ」と馬鹿にされるようになった。
極端な話、イギリス人にとっては雨さえ降っていなければ「いい天気」なのである。
そんなイギリス人がバカンスで赤道に近い国に行って晴天の日に「いい天気だ!」と言えば、現地人からは、こういう答えが返ってくるのである。
「何を言うか。最悪だ。太陽に殺意を感じるよ。今日も糞暑くなる最悪の天気じゃないか。冗談じゃないぜ」と。
供給が需要を遥かに上回ると価値は暴落するのである。