戸田光太郎の2000年日記

2000年12月5日〜7日

2000年
12月5日(火)

夜、高島屋4Fの和食レストランで鰻。リエの知り合い、リクルート会社の人が
通りかかり、まあ、そのことからぐしゃぐしゃになる。
悪夢。

12月6日(水)

朝起きてパッキングし、タクシーでタナメラのフェリー乗り場に向かう。
12時発のフェリーでビンタン島に。
途中、多くのインドネシア人男女が芝生に寝転がっているのを目にする。ゴミな
どが転がっていて汚い。リゾートの雰囲気ではない。
チェックインする。
「この手紙、泥棒が出たってこと?」とリエ。
部屋にマネージャーからの手紙があった。
SIT IN(ストライキ)でご迷惑をかけていますが、なんとかお客様にはご迷
惑をかけないように致します。云々。
ぴんときた。あの芝生の男女はストライキ中の従業員だったのだ。僕は「ピケ張っ
てたのか」と呟いた。
「ピケって何?」
「ああ。ストライキってこと」PICKETは労働争議中に裏切り者が出ないよう
監視員を置くことだが、転じてストライキを張る意味でも使われていたと思う。
僕らは自分の上の世代が左翼活動に手を染めていたのを横目で見ていた最後の世
代なのかもしれない。シット・イン、ピケを張る、ハンスト、ロックアウト、ド
ロップアウト、革マル、テト攻勢、モロトフカクテル、エンプラ、モーレツ、佐
世保、ナンセンス、エログロ。どの
単語もここ四半世紀の間、口にしたことがない。死語だ。1974年生まれのリ
エが知っているわけがない。
ミスチル、コムロ、アムロ、ガンクロ、ヤマンバ、この辺も半分死語だ。
死語は握り寿司だから出来立ては旨い。缶詰は保存がきくが不味い。教科書の日
本語がつまらいのはそのためだ。
16時からスパでマッサージを受けた。
「ピケを張るっていうのはストライキから裏切り者が出ないよう見張ることなんだ
よ」と僕は説明した。
「じゃあ、こうやって働いている人は裏切り者なの?」とリエ。
「資本家の側はストライキをそういう裏切り者から切り崩してダムの小さな穴から
決壊させるみたいに一気に取り込んで、首謀者を解雇する」そんな映画がスタロー
ンで作られたのも1970年代の昔だ。
労働争議や左翼運動なんてものは、20世紀の産物で、ほんの1世紀前に始まっ
たことで、もう古びている。
労働者がストライキする権利は認めるし、小林多喜二の死を無駄にはしたくない
とも思うが、僕はセンチメンタルな文化人なんかではないから、自分が払った金
に見合ったサービスが受けられないなら、一介の労働者として面白くない。
バンヤン・トゥリーで夕食。レストランも人手不足。
ウェイターはミュンヘンから来たドイツ人。

12月7日(木)


朝食後、浜辺を散歩。
小さな蟹が多い。良く見るとヤドカリだった。
大きなクラゲが打ち上げられていた。
昼にプールサイドでシャンペンを注文してクラブサンドを食べた。
ブルジョワジーと労働者という図式は21世紀を前に崩れた。僕は労働者だがリ
ゾートでシャンペンを飲む。
酔った。
14時から1時間半のマッサージ。
眺めのいいスパだ。
海側から風が吹き込むと四つの柱を囲むカーテンが揺れて眺望が覗く。
眠ってしまった。
午後のフェリーで帰宅。







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