戸田光太郎の21世紀日記 2001年

2001年7月8日〜7月10日


2001年
7月8日(日)

14:30着。
チャンギ空港からタクシーで帰宅。
部屋に戻ると眠くなった。
近所の大丸で寿司を食べる。
不味い。

7月9日(月)

やたらと忙しいまま時がたち、英国人上級副社長Cとイタリア系イギリス人副社
長Oとでビジューでビールを飲む、というので落ち合った。
「ロンドンはどうだった?」とC。
「はらはらしないでテレビの司会者を正視できた」と僕。
「え?」
「いや、シンガポールのアナウンサーって英語が安定してないでしょ?」
「ああ。イントネーションがね」
店の奥のスクリーンにテニス試合がプロジェクターで写されている。
ウィンブルドンの男子シングルのファイナルだ。
先に来ていた二人は画面に向かってファッキング・グレート・ゲーム!と下品な
賞賛を献じている。
そうか。テニスのウィンブルドン男子シングルス決勝だった。クロアチアのゴラ
ン・イワニセビッチのプレーや仕草や言動が最高だった。6-3、3-6、6-3、
2-6、9-7のフルセットの末、第3シードで昨年準優勝のパトリック・ラフ
ター(豪)を破って初優勝し、賞金50万ポンド(約9000万円)を獲得し
た。
イワニセビッチは4大大会初優勝。ウィンブルドンは、4回目の決勝進出で念願
を果たした。
優勝して男泣きで観客席に飛び込み、父親に抱きついた姿は、過去3回の決勝で
味わった悔しさが、いかに大きかったかを物語っていた4度目のマッチポイント
だった。彼が訛りの強い英語で言った言葉が面白い。語録が出来そうだった。
「何度もマッチポイントがあって、緊張した。この優勝が人生の夢だった」。
「この先の人生で何が起ころうと、私はウィンブルドン王者だ。このまま永久に
センターコートにいたい」。「推薦出場させてくれたことに感謝したい。大会前
はだれも僕を話題にしなかったが、今はこうしてカップを持っている」。「トス
を上げる右手が50ポンド(約23キロ)は重く感じた」。「素晴らしい5セット
だった。苦しかったけど、本当に優勝できてうれしいよ。」
「この勝利を天国にいるペトロビッチにささげたい」
93年に29歳の若さで交通事故のために急死した母国の友人のバスケットボール選
手の名前を挙げた。ドラゼン・ペトロビッチはNBAのネッツなどで活躍した
ガード。92年のバルセロナ五輪ではエースとして銀メダルを獲得したクロアチア
の原動力になったということだ。
試合の後でまだまだ飲んで話す。
英国人上級副社長Cは三人の子供がいるのだが、四人目にアジア人の養子をもら
うことにしたという。「三人が四人になっても大して変化はないし、大体、僕には
それだけの経済的な余力はあるわけだし」
「子供は選べる?」
「いいや。こちらに選択権はない。割り振られた子を育てるだけ」
感心した。全く人種の違う他人の子を育てるのだから、これは英国人のキリスト
教精神なのだろうか、何なのだろうか、子供にとっては高等教育も受けられるだ
ろうし、素晴らしい事だ。彼を見直した。
それからも飲みつづけ、帰宅は午前一時。

7月10日(火)

午後一番で、英国人副社長Cとアプレイザル。つまり、人事考課である。欧米系
企業にはこれがある。直属の上司と双方向で自己審査するのである。
このシンガポールの会社に入社して、もう一年と数ヶ月、正確には14ヶ月経っ
た、というと驚いていた。
用紙を眺めて項目を埋めていく。
難儀な作業だ。
結果主義なのだが、ここ半年で結果は出した。
Cが言う。
働き振りには大変満足しており、雇って良かったと思っている。と、基本的に誉
められ、「エクセレント」と判断される。
これも時の運である。が、ここまで言われると、さすがに嬉しくないわけはな
い。
2000年1月12日(Y2K日記参照)にリストラ宣言されてから1年7ヶ
月。思えば遠くへ来たもんだ。
ロンドンのチームに呼び出され、アジアでも里程標が出来て、何か一つ終えたよ
うな気持ちだ。
これから自分の気持ちをどうやって引き立てていくかが問題だ。
また全く違う国で違うことを始めている、というのも面白い。






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