戸田光太郎の2000年日記

2000年1月12日 「重大発表」第一部 第二部

2000年
1月12日(水)第一部

さて、実は1月11日の「重大発表」は僕の勤務する「極東部」というのが廃止され
ることになったことだった。
つまり、僕はリストラされたのである。
42歳でクビになった。
で、普通はここでガックリくるのだろうが、僕が思ったのは(負けるもんか)と
いうことと(これって、ちょっと楽しいかも!)ということだった。
そもそも2000年1月10日の月曜日に、英国人上司の秘書から電子メール
で、翌日の11日午前10:30に4階の会議室に来るよう言われていたのが、
どうも気になってはいた。普通の会話なら、上司の個室で話して済むことだ。僕
も上司も3階にいる。それが4階の会議室だという。
3階の英国人の上司の部屋はガラス張りだから、見られてはいけない光景が展開
するのかもしれない、と推理するのは正しい。僕もそう考えた。つまり、僕をク
ビにするのかもしれない、と。
ところが我々はこのオックスフォード通りのオフィスから、今週14日の金曜日
にカムデン・タウンに引っ越すと通知されており、僕の元にも新しいオフィスの
配置図が届いていた。つまり、僕も新オフィスに移動するのだから、リストラさ
れるわけでもないだろう、と当然、考えた。では、4階での面談は何だろう?
リストラではないとしたら、2000年の賃金交渉だろうと思った。
と、まあ、その他、色々と考えてはいたのだが、この10日月曜日には「蘭学者」
さんと夕食の約束で、自分のことはまず忘れることにして彼と食事したのだ。
で、その時に彼が人生の危機にあったことを知らされたので、自分のことなど、
ぶっ飛んでしまったのだ。
自分の人生の危機が目の前だったとは知らずに。
で、翌日、1月11日の10:30に4階の会議室に行くと、英国人の上司だけ
ではなくて、HR(ヒューマン・リソース)、つまり、人事部の人間がいたのであ
る。この二人の顔を見た途端、僕はピンときて、「さあ、じゃあ、まあ、さっそ
く、僕の首切りの話に入りましょうか?」と言って二人をどぎまぎさせたのだ。
二人が恐る恐る話したことは、早い話、日本経済の落ち込みで「極東部」を維持で
きなくなったということなのである。
戸田君、あなたはリダンダントされる、という。直訳ではリストラがぴったりと
くるだろう。Made redundantというのは、「余剰人員として削減された」という意
味である。
僕は「余剰人員」だったのだ。
次は、金曜日14日に第二回の話し合いを設けるので本日は帰ってもいい、とい
うのである。「ショックだろうから、今から帰って金曜日の午後三時まで自宅で静
養してて宜しい」という。
それはショックだ。話の運びの唐突さはアングロサクソンの会社特有のものだろ
う。
「自宅で静養」というものは曲者だな、と考えた。
「出社してもいいけど、自宅静養してもいいから」というのだ。出社してもいい、
というのは、自宅静養に対する強制力がないものだと察せられた。自宅よりは会
社の方がコミュニケーション手段は豊富だし、安価だ。
僕は帰らなかった。
ショックではあっても、次のアクションを起こさないといけないと考え、まず、
とにかくたまっていた経費清算しながら、作戦を練った。この際、こうした細か
な経費も生きていく上では大切だ。
年末年始に成田、ロタ島、東京、福岡、熊本、と大名旅行してスッカラカンに
なっていたから深刻だ。これからも雇用が続くという想定のもとに蕩尽したのだ
から、甘かった。
銀行口座の貯金は7ポンド、1千4百円だった。
禁治産者である。
物を書いたり、その他、色々と細かく稼げばなんとかなるだろう、とは思うが、
やはり、中心となる財源がなくなれば干上がる。
悠長に構えてはいられない。
気持ちは暗澹たるものだが、このまま落ち込んで潰される気もなかった。
まず、リクルート会社に連絡し、さっそく明日の午後三時に面接のアポを入れ
た。
そうだ。英国の銀行に勤務していた日本人の友人Tさんも解雇を言い渡されたその
日にディーリング・ルームがロックされ、私物は段ボール箱に入れられ、即刻帰
宅しろと命じられていたことを思い出した。すごい話だと当時は思ったが、僕の
立場も大同小異だ。
早速、リストラを計2回経験しているTさんに電話した。
「え? 戸田さんがリストラ?」とTさんは沈黙し、「出社しなくていいと言われた
なら、明日、昼飯しません?」と、すぐに背中を押してくれた。持つべきものは友
だ。
次にビジネスの繋がりがある東京のNさんに連絡して顛末を話した。
Nさんは驚いた。そして言った。自分の会社でも知り合いの会社でも即刻、紹介す
る、と。有難い言葉だ。持つべきものは友。
経費清算を済ませ、色々と作戦を組んでいたら、定時となって、皆、帰り始め
た。まだ、周りの者は知らされてない。
僕もくやしいので一日ニコニコしていた。
今、僕は大変なんだぞ。お前らは知らないけれど。
なんと言っても、妻に伝えるのが辛かったが、逃げていてもしょうがない。帰っ
て真っ先に事情を説明した。
暫く絶句していたが、理解してくれた。
彼女を不幸にしないように、というのが僕の願いだ。
二人で危機を乗り越えようと誓った。持つべきものは良い妻だ。
僕はワインを二本空けてしまった。強がってはいたが、かなり参っていたよう
だ。一人静かに悪酔いした。
これが昨日、1月11日の顛末だったのだ。あの日は書けずに、ただただ酔っ
払った。
今日12日もまた出社して残務整理をした。平気な顔で仕事しているので、むし
ろ、事情を知っている英国人上司達は訝っていたが、日本の侍はタフなのだ、と
僕は言いたかった。
で、お昼にはシティーに行ってTさんと昼食した。
まず、Tさんは大きな鞄のような物をくれた。
英文だ。
転職キットのようなものだ。
カセット・テープが10本くらい付いたマニュアルだ。リストラされた時の心構
えとか、面接のノウハウなどが項目別に書かれている。
「また今度、僕がクビになった時は返してくださいよ」とTさん。有難い。
僕の状況を客観的に分析して意見してくれた上に、弁護士を紹介してくれ、昼食
のパスタはご馳走してくれた。持つべきものは友だ。実は彼、僕に一昨年のワー
ルドカップの日本ジャマイカ戦のチケットをくれ、二人でリオンに行っている。
いつも僕はお世話になっているばかりだ。
Tさん、ありがとう。感謝している。
Tさんは彼が転職する時世話になった英国人弁護士を紹介してくれた。日本人で唯
一、英国の法廷弁護士の資格を持つ、矢澤豊さんの友人だという。僕はまず矢澤
さんに電話して、その英国人弁護士に事情を説明してくれとお願いしてから、そ
の足でリクルート会社に行った。
英国人を含むそれぞれ分野別の担当者と面談する。アルバイト斡旋者や、英国で
の雇用や、日本での雇用などなど。
いくつか可能性がありそうだ。
少々安心する。
リクルート会社を出ると、携帯に電話があった。矢澤弁護士からだ。彼の知り合
いの英国人弁護士には連絡してくれたと言う。時計を見ると、まだ午後4時過ぎ
だった。
携帯から英国人弁護士に電話する。彼は会議中だと秘書が言ったので、僕は携帯
の番号を残し、「矢澤弁護士の知り合いの戸田という者だが、出来たら、今日、早
急に会いたいから、携帯に連絡して欲しい」と伝言した。
とにかく、その弁護士事務所の近くまで行ってみようと考えて移動していると、
携帯が鳴った。英国人弁護士からだった。事情を話す。アポはないけど、できた
ら今日、会いたい、と言ってみた。
「ユタカ・ヤザワからは聞いている。待ってるから、来てください」
僕はそのまま彼の法律事務所に足を運んだのだ。

つづく。

1月12日(水)第二部


(承前)
僕のオフィスはロンドンのド真ん中、オックスフォード・サーカスにあるので、
金融界や法曹界の固まる東のこちら側に来るのは久しぶりだ。皆スーツを着てい
る。僕も今日は久しぶりにスーツだが、普段はカジュアルなのである。
Tさんの職場もリクルート会社も英国人弁護士の事務所も、ほとんどこの界隈だか
ら、効率よくアクションが起こせた。
弁護士のEさんは顎髭の50歳くらいの人だった。
彼の部屋に通され、ひとしきり、矢澤弁護士のことやTさんのことを話してから事
情を説明した。
で、気づいたのだが、昨日、HR(人事部)から貰ったレターをここに持参してこ
なかったのが残念だった。E弁護士に文面を分析してもらえたろうに。明日、
ファックスすると約束する。
Y2K日記には戦略上、詳しくは書けないが、E弁護士のアドアイスで、誰でも役に
立つことを以下に記しておく。
1) 会社からの通知等々、雇用や給与に関する書類を出来るだけ集めること。そ
れは自分の側の正当性を強化する。
2) 会社側との会話や会社の起こしたアクションは細かい動きまで書き留めてお
くこと。何日に誰が何と言ったか、云々と。人間は忘れる動物だから。
3) 会社にはポジション消滅後には別のポジションを見つけるよう努力する義務
があり、その努力がなされていないようならば、その点を突くことが出来る。
等々。
次は金曜日が会社側との話し合いなのだが、その前後にもう一度連絡して欲しい
とE弁護士は言った。
「リストラされるだけでも精神的に辛いでしょうが、その上にこうやって戦う準備
をするというのは心理的な負担になるでしょう。今日のところはリラックスして
良く眠ることをお勧めします」
と励まされて弁護士事務所を後にした。
弁護士というものは精神科医のようなものだ、と思った。あの暖かみのある豊か
な声と、サンタクロースのような髭と、落ち着いた態度に接すると、(さあ、お
父さんに話してみなさい、光太郎)と言われた感じになるのだ。自分の非常に個
人的な体験だと思っていたものが、あるカテゴリーの中の類型的な体験の一つに
過ぎないと知らされるのも効用で、近視眼的な不安から解き放たれる。
Tさんが僕に弁護士と話すことを強く勧めた理由がここではっきりした。有り難
う、Tさん。
僕はリエと待ち合わせて近所のレストランでシンガポール系の夕食を取った。
まあ、「死刑宣告」の翌日としては、かなり有効に活用できたと思う。
色々な人々の協力のお陰だ。

(文中、矢澤豊弁護士のリンクでは、最初違う人の名前がページトップに出てき
ますが、このページの真ん中あたりに戸田さんのインタービュアーが有ります。)


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