戸田光太郎の2000年日記
- 2000年12月15日〜16日
2000年
12月15日(金)
- 朝9時前のシンガポール航空便で北京へ飛ぶ。
着いたのは15時前。
北京オフィスが手配してくれたハイアーでホテル京倫飯店に向かう。
5月15日に入社してから2度目の北京で前回は中国大飯店に宿泊している。今
回はニッコーが運営している安い方でいい、と北京事務所のスタッフに伝えてお
いたのだ。チェックインしてから建国門内大街を歩いて隣りの中国大飯店に向か
い、隣接する国際貿易センターに入った。
北京オフィスの雰囲気は、パリのオフィスやハンブルグやミュンヘンやアムステ
ルダムやマニラと同じだ。
世界のどこに行っても系列放送局は同じカラーがある。驚きだ。
シンガポール事務所から長期出張している調査部のNが自慢げにコートを見せて
くれた。
「フランス人みたいだろ?」常夏のシンガポールでは着る機会のない冬服に彼は興
奮しているのだ。「それにこのマフラーをするんだ。いいだろ?」
四季のある日本人は自分達の幸福を知らない。
先日シンガポールに一時帰国していたNと喋る機会があった。
「どうだい、北京は?」と僕が聞くと彼は感慨深げに答えたものだ。
「文化が深い。僕はシンガポールのような近代的な国家で育って何でも知っている
と錯覚していた。でも、今は黙って人の会話に耳を傾けるようになったよ」
Nとは改めて時間を過ごしたい。
北京事務所所長の才媛Yを待ってJ社に行く。
中国美女Yはアメリカ英語が流暢である。ニューヨークで教育を受けて国連で働
いていたと初めて知った。
しかも37歳で子持ちだという。ニュヨークで知り合った夫の都合で北京に戻っ
てきたというのだ。彼女に初めて会ったのは去年末のロンドンで、彼女は中国の
国営放送CCTVの連中を引き連れてスタジオ案内していた。
「ロンドンで会った時も27歳くらいだと思っていた」
「この会社に入る前、一昨年はもっと若かったのよ。突然老けたわ」
日系企業のH社長と僕はミラノで会って、ロンドンで再会して、彼が北京に移っ
て上海と東京の三個所を常時移動するようになってからは初めて会う。
Y女史と企画を説明してから、「子供の世話がありから」と帰宅するY女史と別
れ、H社長と中国大飯店で日本料理を食べる。
レストランまでは運転手付きの車で送迎だった。
「いつも車ですか?」と質問する。
「そうなんだよ、戸田さん」とH社長。「中国人はメンツを重んじる。歩いていった
方が早い数百メートルでも、社長たるもの運転手付きでないと部下のメンツが潰
れる。仕方ないんだ」
「なろほど」
「僕が住んでいるのもこの裏手の一等地だし、そうせざるを得ない。人前で部下を
叱るのも御法度だし、メンツの問題は重要だよ」
その他、色々と教わったが、ここには書けない。
H社長と別れてから建国門内大街を西へ西へと延々歩いた。常夏のシンガポール
から出張している僕は久しぶりにトレンチ・コートにスーツだ。耳が千切れるほど
寒い。
何人か中年女性に呼び止められた。
「いいコがいるんだけど、遊んでいかない?」という常套句。
中には素人の撮影したインスタント写真を見せる遣り手婆あまでいた。
写真を街灯に翳して見る。
緑に覆われた建物から微笑んでいる美しい若い女性のスナップ。
この遣り手婆あについていったら、本当に彼女が出てくるのだろうか。
その可能性は低い。
マクドナルドの理論だ。
じゅうじゅう鉄板で跳ねるバンズに瑞々しい玉葱や緑滴るレタスが載るCMイ
メージを見せておいて、実際あなたが手にするものは、油でぐしゅぐしゅでペッ
タンコに潰れた現実である。
美人妻リエに敵うわけがない。
僕は左手の指輪を遣り手婆あに見せて断った。
それで素直に引き下がるのが北京の遣り手婆あの純情である。
でも、自分が仮に古女房と一緒で鬱屈していて、キャピキャピの写真をみせられ
たら、毅然と却下できたかは謎だな、と思った。
「BAR」の字にひかれて地下の薄暗いバーに入り、バーボンを飲んだ。
北京の中国人は、こういうことを知っている。
後戻りはできないだろう。
地元の中国人の若造にダーツを誘われて賭けた。
負ける。
ビールを奢った。
バーカウンターのスーツ姿の白人と会話する。
彼はスコットランド人で北京に数年いる、という。水汲みポンプの技師で、中国
奥地にも良く行くそうだ。
英国にいた時はベニスに毎年旅行したというのでベニス情報交換となる。
僕もスコットランドは取材している。
建築家マッキントッシュが皿までデザインしたカフェの話題になった。
彼はモンゴルには何回も出張しているという。ウランバトゥールに「チャーチル」
というパブがあって、本格的な英国ビールやフィッシュ&チップスを置いている
という。チャーチルを描いたTシャツもあるそうだ。
彼は父親と二代に渡ってJAZZが好きでマイルス・デイビスのファン。1992
年だかに英国はウェンブリーのコンサートに親子連れ立って行ったという。
スタジアムの大観衆の前でマイルスはよろよろとステージに現れるとスツールに
寄り掛かってトランペットを握った腕をだらりと垂らして、身動きできなくなっ
たという。
ウェンブリー・スタジアムを埋め尽くした観衆はその末期的な様子に息をのんだ。
(こりゃあ、駄目だ)という集合意識がスタジアムを覆い、観衆を緊張させた。
だが、彼を尊敬する若手バックバンドは仕方無しに恐る恐る演奏を開始した。
スタジアムを緊張が覆う。
と、マイルスは自分のパートになるとペットを構え、すっと立ち上がって、吹い
た。
音は空気を裂く。完璧だった。
不安の際にあった観衆から怒涛のような歓声があがった。
自分のパートが終わるとスツールに寄り掛かり、仮死状態に戻る。
そしてまたシャキッと演奏する。
「凄まじい2時間だった。普通、おきまりのアンコールがあるじゃないか、彼は演
奏が終わるとペットを空に突き上げて、ステージを去った。アンコールなんて必
要じゃなかった。皆、わかっていた。それからちょうど6週間後だったけど、マ
イルスは死んだ」
我々はぐんぐん飲んだ。「その時の映像は残っているのかな?」
彼は言った。「ウェンブリーのコンサートはないみたいだけど、その時の一連の欧
州コンサートがあってフランスの映像は見た。感動もんさ。オヤジと二人でダフ
屋に何百ポンドも支払って見たんだけど、その価値はあったよ」
マイルスの自叙伝をサカナに、また何杯か飲んだ。
かなり酔った僕は地上に出るとホテルに向かって歩き、また紅灯の巷に吸い寄せ
られた。
ラーメンでも食べたい。
日本の居酒屋があったので入る。
広い座敷だ。日本の居酒屋と同じ。
カウンターに内装デザイナー風の茶髪の三十代後半くらいの日本男性がいて、若
者に偉そうな口を利いていた。
豚骨ラーメンと冷酒を頼んだ。
おカミサンと言葉を交わす。
ラーメンと冷酒を交互に口へ運んでいると茶髪に説教されている風だった若者が
「君に胸キュンて、誰の歌でしたっけ?」と僕に聞いてきた。
「YMOですよ」と僕。
「やっぱそうだったんだ」と若者。「昨日からずっと考えてたもんなあ」
「すっとしたな、お前」茶髪も歓び、長身のヒッピー中年も加わり、よかった、よ
かった、となった。
自己紹介し合う。
若者は商社勤務。茶髪は美容師。ヒッピー中年はおカミサンの夫で、この居酒屋
と隣りのスナックのオーナーだった。
「なにね、うちのカミサンが北京にはまっちまいましてね、おれが後押しする形で
こうなったわけなんですけど」
お酒をご馳走になり、店が閉まってから従業員と一緒に、中国人シェフの作った
焼き飯などを食べ、午前2時まで長居してしまった。
焼き飯が旨い。
「こいつら、自分だけ美味しい物食べようとしてないか?」と長身オーナーが笑っ
て言う。
店を出てから、映画好きの茶髪の美容師と北京を飲み歩いた。
同世代なので、ステシーブ・マックィーン、ジェイソン・ロバーツ、ノーマン・ジェ
イソン、ジョン・スタージェス、なんて話をする。
彼はロンドンにもあった山野愛子の美容院の北京にいて、独立することになった
ようだ。奥さんは中国人である。
ビリヤードをして、二人ともべろべろになっている。
もう午前5時だった。
こんな生活をいつまでもしている。
大学生の頃からこんな感じだ。
北京でも僕は相変わらずの不良だった。
12月16日(土)
朝10時にモーニング・コールを頼んでいた。二日酔い気味。寝不足でもある。で
も、帰りの飛行機で寝れば何とかなると考えたのだ。
朝食ビュッフェで和洋中折衷のわけのわからない、しかも不味い朝食を食べてか
ら建国門内大街を西へ向かった。
タクシーを拾う。
天安門広場へ向かってくれ、と中国語もどきで頼む。
中年女性ドライバーだった。
昨日の晩歩いた通りがすっ飛び、天安門広場に出た。パリのルーヴル美術館から
シャンゼリゼに向かう途中、コンコルドの、だだっぴろい空間を想像して欲し
い。或いはモスクワの、赤の広場。
ここをてくてく歩くのは二日酔いにはキツイ。
女性ドライバーに、「気が変わった。故宮博物院に向かってくれ」と頼んだ。ラス
ト・エンペラーの住居、紫禁城(FORBIDDEN CITY)である。
前回の北京出張では瀟洒なギャラリー・ワイン館の二階から眺めただけの紫禁城を
初めて歩いた。入場料は取るし、凄い人出だ。広い。紫禁城というよりは、英語
の直訳の、「禁じられた街」の方が正しい。
午門、太和門、太和殿、中和殿、保和殿、乾清門、乾清宮、エトセトラ、と、幾
重にも門や殿や宮をくぐり抜けて迷宮を歩いていくことになるのだが、これは一
つの街に匹敵する。門や殿や宮から脇に外れれば宮殿に仕える使用人の住む居住
空間や施設があり、これまた町そのものである。ただし、高い塀に囲まれている
のが、禁じられた街たる由縁である。
最後の神武門まで歩き、土産物屋でパンフレットを買った。若い女の子の販売員
が明るく積極的なのには驚いた。キャピキャピしていて、これではLAのディズ
ニーランドの土産物販売員ノリである。驚いた。
また全ての門や殿や宮をくぐり抜けつつ宮殿に仕えた使用人の住居のあたりも散
策しながら振り出しに戻り、毛沢東の馬鹿でかい肖像画の下をくぐって天安門広
場に出た。
東長安街を東へ歩く。
人々はあけぬけない。田舎者の顔だ。上着にネクタイをしているが、山奥から出
てきた人のファッションである。
天安門詣でに来るのは、洗練されたY女史のような人間はいないのだろう。
天安門に戦車が入ってきた映像をTVで見たのはいつのことだろう?
赤の広場も歩いたし、ベルリンの壁のかけらも手にしたし、プラハのバツラフ広
場も散策した。
だからどうした。
そんな場所にタイムリーにいたいならジャーナリストになるしかない。
それが過ぎれば場所はただの場所だ。
玉府井で北に折れ、歩く。
巨大なデパートやマクドナルドがある。
北京というより、新宿だ。
日本のラーメンを食べてしまったが、その後で北京百貨大楼の裏手に活気ある屋
台街をみつけて、(しまった!)と思った。
美人な売り子のいる屋台で、餃子を食べた。旨い。
タクシーを拾ってホテルに戻り、荷物を積んでハイアーで空港に向かった。
シンガポールに戻ったのは夜。
濃密な北京の2日だった。55日はいられなかった。伊丹十三は何日いたのだろ
う?
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