戸田光太郎の2000年日記

2000年1月13日〜15日 

2000年
1月13日(木)


ゆっくりと目覚める。禁治産者なので持っているあらゆる外貨をポンドにした。
ドルやギルダーやマルクやフラン。一日必要な通勤費だけ抜いて全額リエに渡し
た。事情を知らない彼女は喜んでいる。明日は給料日だから何とかなるでしょ
う。これでは、まるで中南米の人の暮らしである。でも、クビになるとは知らず
に散財が過ぎただけなのだ。出版社に前借りしようか。これでは太宰治である。
E弁護士に会社からの通達をファックスした。
通常の時間に出社した。
残務処理する。
上司から呼び出された。日本側から強いクレームがあったが、手伝ってくれる気
はあるか、とのこと。
「すぐにも辞めてくれ、と言われた後に、また働いてくれ、という打診は、いささ
か奇妙ではありませんか?」
「そうなんだ。君次第だけど、考慮してくれ」
これは吉兆だ。僕の利用価値がまだあると認識させるのは好都合ある。
それにしても、出社しなくてもいい、と言われているのに出てくるのだから僕も
偉い。

1月14日(金)


銀行に行く。給料が振り込まれていた。清算した経費や原稿料などなど。ほっと
する。
地下鉄に乗ろうとすると携帯が鳴った。
ずっと連絡していた昔の英国人上司からだった。バリ島の会議に出席中で、僕は
連絡していた。
「戸田、大変だな」と彼。「例のこっちでの就職の可能性だけど、まあ、当たってい
る。島にいるからまだ確認できないけど、担当がこの携帯に月曜日に連絡する、
そっちの朝だ。で、どのくらい持ちこたえられる金があるんだ?」
「それが、思いっきり遣って、ほとんど文無しなんだ」
「やばいな、それは」
「でも、今日、退職金なんかを人事と上司と話し合う」
「いいか、良く聞け。アイツラは首切りのプロだ。交渉は強面でいけ。ハードなネ
ゴシエーターとして粘るんだ。それが君のビジネスマンとしての交渉力の証明に
もなる」
「わかった。ありがとう」
「俺は日曜日にはロンドンに戻るから、また連絡する」
今日は買い物してから12時頃に出社した。
午後3時から交渉なので、英国人弁護士のEさんに電話した。
「会社からの手紙の内容、どう思います?」
「思ってたほど悪くない」とE弁護士。「誠意を見せようとしている、多少なりと
も」
「そうですか?」
「君は今日、放り出されるわけじゃない。今日は第二回の話し合い、ということに
過ぎない」
「なるほど」
「法的には3カ月の猶予を与えないといけないことになってる」
「3カ月?」
「それは大丈夫だから、君には一応、6カ月と吹っかけてもらった方がいいと思
う」
「そうですか。僕はもう、何だか、ちょっと、いつまでも会社にウロウロしていた
くないので、一旦退職金を受け取ってからコンサルタントとして再雇用してもら
おうと思っていたんですよ。僕の解雇を通知された日本側が猛烈に抗議している
ので」
「その日本側の動きは心強いな。でも、早急に辞めるのは得策ではない。暫くは矜
持を葬っても会社にいることだ。経済的に楽ではない、と君は言ったろう?」
矜持を葬って、というのはPut your pride in your pocketという言い方だった。
プライドはポケットにしまっておけ、というのが直訳だ。
この言葉にはグラっとした。確かにそうだ。禁治産者にプライドはいらない。同
情するなら金をくれ。
「そにかくノートを取ることだ」
「そういえば、今日は小型テープレコーダーを持ってきたんですよ」と僕は言っ
た。坂本龍一をインタビューした時に新たに買ったSONY製だった。「相手には、英
語のヒアリングに100%自信がないから録音する、と言います」
E弁護士は電話の向こうで暫く笑っていた。「それは、いい。でも機械は壊れるか
らメモはとっておくといいでしょう」
「こっちの要求額の書いて印刷してきました。職探しで日本に行くチケット代とか
ホテル宿泊とか食費とか交通費とか現在の家賃とか引越し代金とか。かなりの額
です」
また笑う。「それはいい。でも、まあ、6カ月の猶予、ということは吹っかけてい
い。3カ月は保証されているのだから」
そして交渉に臨んだ。メンバーは一緒。英国人上司と英国人の人事担当の女性
だ。
僕がテープレコーダーをテーブルに置いたら、二人は明らかに驚き、警戒した。
ざまみろ。
「すみませんが、僕は母国語で喋ってるわけじゃないのでヒアリングに自信がない
んです。録音することをお許しください。他意はありませんから」
今回、向こうは何も用意していなかった。つまり、退職金の提示はなかった。
「何か前回から言い足すことはないか?」と人事部の彼女。
「一応こういうものを用意しました」と僕は試算を示した。僕の妻は英国航空のス
チュワーデスを辞めてからロンドンに移住して、少し働いてから、ロンドン大学
でイスラム美術を学んでいる。そのタームが今年の6月末まで続く、とも説明し
た。
人事課の彼女はその額にそれほど驚いてはいなかったので、逆に僕は後悔した。
もっと大きな額を提示しても飲んでいたのではないか、と。
「じゃあ、これを基に、今度は来週水曜日に話し合いましょう」
「即刻追い出されるわけではないのですね?」
「まさか。これが完全に終了するまでは、そういうことはありません」
「その間の給料は?」
「通常通り払われます」
「仕事を取った時のコミッションは?」
「払われます」
なんだ、まだまだ給料はもらえるのだ。出社しなくてももらえる。でも、まあ、
僕は日本側に迷惑をかけたくないから働くけど。
それでお開きとなったのだが、部屋を出てから僕は弁護士の言葉を思い出した。
「法的には3カ月の猶予を与えないといけないことになってる。君には一応、6カ
月と吹っかけてもらった方がいいと思う」
僕は部屋に引き返した。二人は激論中だった。僕をどう料理するか話し合ってい
たのだろう、慌てて口を閉じた。
で、今度は露骨にテープレコーダーを突き出しながら言った。「すみません、僕の
リーガル・アドバイザーから言われたのですが、法的には3カ月の猶予は保証さ
れているそうです。で、その弁護士のうちの一人は6カ月と吹っかけろ、と言っ
たのです。敢えて手に内を明かすと」
二人は驚いてテープレコーダーに目が釘付けになっていた。
「いや、この国の法律では7週間の猶予でいいことになってます」と人事の彼女は
テープレコーダーを見つめながら言った。この録音機が、僕の英語力を助けるた
めだけではなくて、非常に交渉に長けた弁護士の差し金で持たされたものであ
る、というような暗示となったのだと思う。
7週間で追い出せると思っていた東洋人が、リーガル・アドバイザーを後ろ盾に
会話を録音するとまでは予想しなかっただろう。面食らっていた。でも、まあ、
あまり深追いしても向こうだって、イザとなればニューヨーク本社から腕利きの
弁護士を送り込むことができる。ただ、その経費と僕に払う経費との均衡で判断
するだろう。これ以上は薮蛇だ。
僕は再び部屋を出て、E弁護士に顛末を話した。
「それは上出来だ。今出来ることはあまりないな、来週の水曜日まで。今日のとこ
ろは奥さんと出かけて、いいレストランで食事してリラックスすることですね」
僕は礼を言って電話を切った。
確かに疲れた。消耗している。
また来週の水曜日まで宙ぶらりんとなった。

1月15日(土)


ぐだぐだ起きてからリエと散歩。
リトル・ベニスの運河の上にあるカフェ、「CAF? LAVILLE」でブランチ。僕はカル
ボナーラとグリーク・サラダとワインを頼んだ。リエはサーモンとアボカドのパ
スタとグリーク・ヨーグルトと絞りたてのオレンジジュース。
ここはカフェのくせに料理がメチャクチャ旨い。先週も食べたのだが、僕のペン
ネのカルボナーラは、それはそれは美味しい。すごく幸せだ。シェフはどんな人
かと聞くと、アイルランド人だという。日によってシェフが違うそうだが、その
人のカルボナーラは絶品だ。ローマで食べたものより旨い。今週も感動した。多
分、そのアイルランド人は愛情豊かな人だと思う。
来週も食べに来て、挨拶しよう。
幸福感に浸りながらマーケット(市場)まで歩く。果物や野菜を買った。
僕は去年の「このミス」で一位となったスティーブン・ハンターの文庫本を読ん
だ。まあまあ面白い。良く書けている。でも、ローレンス・サンダーの「第一の大
罪」ほど迫力のあるミステリーではない。上巻を読み終えてから、勉強に集中して
いるリエに手早く夕食を作った。
彼女は大学でペルシャ語を専攻していたので、あのクネクネした文字が読める。
知り合った時は英国航空のスチュワーデスだったが、僕と結婚してロンドンに移
住してからは日本のゲームソフト会社で働いて、今はロンドン大学で長年憧れて
いたイスラム美術を学んでいる。
僕はご飯を炊き、長葱が一杯入った納豆と、麻婆豆腐ならぬ、麻婆茄子を作っ
た。そして、サラダと赤ワイン。
「戸田ちゃん、めちゃめちゃ旨い!」と喜ぶリエ。
危機的状況はさておき、幸せな土曜日だった。
正直、多少強がってはいても、会社のことは考えてしまう。
昨日金曜日に僕がタフに出たから、会社側も、ただ指をくわえて待ってるほど馬
鹿ではないと思う。来週水曜日の交渉では、僕が一筋縄ではいかない相手だと警
戒して、秘密兵器を用意するかもしれない。向こうの弁護士っていったら、ま
あ、すごい奴を揃えている。
僕の弁護士はサンタクロースなのだが、そこはまあ、ブルーのボタンダウンの
シャツを着たユダヤ系の切れる弁護士集団が後ろ盾にある、というフリをしても
いい。
とにかく相手の上を行く秘策を考えなければいけないが、当面は水曜日の相手の
出方を見極めるしかない。後は、東京のサポートをパワーアップしてもらうこと
だ。
体を鍛え、原稿を一杯書いて、明日に備えなければ!
Power to the people!



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