戸田光太郎の21世紀的香港日記 2003年

2003年2月1日〜2月3日


2003年
2月1日(土)

昨日からチャイニーズ・ニューイヤー、旧正月で会社は休み、僕らはタイのバンコク
に飛んできた。
リージェントに宿泊している。起きてからバスタブに湯をはり、電話でコーヒーを運
んでもらう。こういう楽しみが一流ホテルの醍醐味だ。
リエは喜んでいる。
ホテルにドイツ人Aから話があった。今回は、ロンドンで同僚だった彼と会うのが楽
しみの一つだ。
Aは今、電気街に寄っているので、20分ほど遅くなりそうだ、とのこと。
バンコックの交通事情は極端に悪い。
また40分後にAから電話があり、20分ほど遅れると言われた。
彼は時間厳守のドイツ人だが、怠惰な英国とタイに住んでいるので時間の感覚が損な
われたのかもしれない。僕らは荷物を纏めてチェックアウトすることにした。
ここで、ちょっと前まで行っていたシンガポールで、シンガポール紙幣を入れた札入
れにメジャーなカードを移していたことに気づいた。カードがない。全て香港の自宅
にシンガポール旅行時の鞄ごと置いてきた。幸い香港でキャッシュをドカッと引き降
ろしてきたので、香港ドルを両替して支払った。
しかし、カードレスというのは現代社会では非常に不安な状況である。
僕に頼りきりのリエにいたっては、現金も財布も空である。
前途多難だ。
Aは来ない。
今度は僕のほうから電話すると「とださん、ごめんね。まだ20分はかかりそうだ」
と言われる。
「じゃあ、ロビー左手にあるホテルのタイ料理屋で食事してるよ」と僕。
「わかった」
小型スーツケースをポーターに預け、軽く食事する。
僕はワンタンスープとビール。リエはビールだけ。
それも終わって13:00を回ってもAは来ない。
リエが「どうして、そんなに前言を翻して遅れてばかりなの、その人」と苛立ってい
るが、バンコクの交通事情を考慮すれば致し方ないのかもしれない。15分で行ける
場所がラッシュアワー時には60分以上かかるのだ。僕の知っているAは仕事や約束は
守る男だった。リエは彼を知らないのだから仕方ないが。
再びこちらから電話してみる。「どうだい?」
「御免! 今、ホテル通りの角まで来てるからホテルの外の車寄せで待ってくれ」
リエにそう伝えてロビーから車寄せに出た。緑と手入れされた池が綺麗だ。制服の
ポーターにスーツケースを運んでもらう。僕は彼らに次から次へチップを手渡した。
と、Aの車が到着した。
「とださん、待たせてごめんよ!」と、あの懐かしい黄金の笑顔で、いすゞの4WD
の運転席から降りてきた。彼はドイツ人なのに身長は175cmの僕より低い。16
5cmくらいしかないだろう。ただし、笑顔は往年のロバート・レッドフォードのよ
うに輝いている。それに魅せられたのか、ちょっと不機嫌だったリエは楽しそうにす
ぐさま助手席に座った。
僕は後部座席だ。
彼の住むチャーム(CHA−AM)までは2時間はかかるという。
「いやあ、参ったよ。娘が今朝ほど病気になって。今日は妻の誕生日だし。ばたばた
だったんだ。許してくれ」
許すも何も、Aが笑顔で出現したら、僕らは何も言えない。
この車中で、初めてAのライフタイム・ストーリーを聞くことが出来た。これほど英
語の上手いドイツ人も珍しいが、15年もロンドンに住んでいたのだから当然かもし
れない。
途中、Aの妻Tが別の車で合流し、やがて山間の小屋に向かい、そこで降りた。
Aの妻Tとは去年のバンコク以来だ。彼女と最初に会ったのはロンドンで、当時、あ
まり英語は出来なかった。次に会ったのはAが会社を去ることになった1998年
で、彼女はハロッズに勤務していて、もう英語は喋れるようになっていた。今、夫婦
の会話は英語だというので、非常に流暢になっていた。娘のSとははじめて会った。
可愛い子だ。
その小屋を作ったタイ人主人から水やウィスキーを振舞われる。この男、バンコクの
電気会社に勤める人で、週末はこの自分の作った掘っ立て小屋で過ごすらしい。この
周辺も彼の買った土地で、隣の小さな小屋にいる使用人たちが土を運んだり、水撒き
して、整地し、作物を作っている。
周辺を彼の説明を受けながらAと一緒に歩く。
まあ、何が何だかよくわからなかったが、彼に別れを告げると、Aと妻Tと娘Sと僕
とリエはいすゞ4WDでそこを離れた。Aは娘Sにはずっとドイツ語で話しかけてい
た。娘はドイツ語で話せる。
18:00過ぎに到着した。チャーム(CHA−AM)はバンコクの南に位置する海
岸の町だった。そこに宿を取ってもらった。家に泊めてもらうとお互いに気兼ねする
からだ。夕食時にまた車で迎えにきてくれるというのでシャワーを浴びた。
リエと辺りを散歩する。彼女は「インドネシアのバタン島みたい」を繰り返してい
る。
ツーリストが多い。引退したような白人も多くいる。屋台が一杯並び、Tシャツや水
着や食べ物を売っていて、もくもく香ばしい煙があがっている。
思っていたよりも賑やかで、ツーリスティックで、長い長いビーチリゾートだった。
ホテルに戻るとAと妻Tが迎えに来てくれていた。子供は両親に預けてきたという。
Aの運転でチャームから少し南西に向かったヒュアヒンの手前の大衆レストランで食
事した。
旨かった。4人ともロンドンに暮らしてからアジアに移住したので英語も似ている
し、経験も近いし、楽しく話した。彼らはタイを畳んでロンドンに行くかもしれな
い、とも言った。リエもTもロンドンが好きだという。
僕はロンドンは8年も住んだので執着はない。
それにしても、Aがいなければチャーム(CHA−AM)なんて場所には一生足を踏
み入れなかったかもしれない。
食後は隣町ヒュアヒンに移動してビアホールで飲んだ。こちらはチャームより大きい
町だ。高級ホテルもある。少しアップグレードされている。ビアホールの客は80%
白人だった。
散策してから車でホテルまで送ってもらう。

2月2日(日)

昼前に夫婦と娘の三人がホテルに迎えに来てくれた。
昨日の4WDは友人から借りたのだという。今日はモペット2台で現れた。
僕はAの荷台に乗り、リエは娘をハンドルの辺りに乗せた妻Tの荷台に乗る三人乗り
で隣の海岸に向かった。いやあ、こんなことは初めてだったので、畑の中を風を切っ
て走るのは、非常に気持ちが良かった。Aも妻Tも運転が安定している。
昨晩行ったヒュアヒンより手前のチャームと中間にある海岸に、いくつか藁葺きの休
憩レストランがあって、そのうちの一つに入っていった。
海を見ながらビールを飲んで、時々海で泳ぎ、Aとだらだら喋った。
昔の同僚のことなど。インターネットの時代だから、地球のあちこちに散らばった彼
らとまだ連絡できるのは素晴らしい。我々の上司だったユダヤ系ドイツ人Bはリスト
ラされてからニューヨークのインターネット会社にいき、やがて、モスクワで系列局
の社長となった。が、やがてリストラされて、今はイスラエルにいるという。僕とほ
とんど同時期にロンドンで入社したドイツ人Pは最近ドイツでリストラされて暇が出
来たので、ここチャームに来ていたという。Aと親しいPはここを離れる時、Aに説
教したそうだ。「こんな田舎に若いうちから引っ込んでしまうと馬鹿になるぞ!」
説教できるのは親しいからだ。
「今、また俺は何かやりたいんだ」とAは言った。「そろそろ時期だと思う」
「わかるよ」と僕。「ちょうど、ロンドンからシンガポールに移った頃、昔から夢見
ていた、物を書くことに専念できる状況にあったんだけど。その3ヶ月の間に一番
願ったのは仕事することだったよ。一日机の前にいるのは飽き飽きしたものさ。とこ
ろで君は、バンコクにある系列局に戻る気はあるか?」
「それは面白いな。どういう手順を踏めばいい?」身を乗り出した。
僕は自分の作戦を述べた。
リエは妻Tとその友人らと話している。
隣の茅葺屋根の下でリエと並んでタイ式マッサージを受けた。気持ちがいい。150
バーツである。
この海岸は人も少なく静かで非常にリラックスできた。
「また明日も来てここでマッサージしてもらおうよ」とリエ。
「明日はバンコクに帰るよ」
夕方、モペットで近所の公園のようなレストランへ移動した。
陽は沈んでいた。
タイ料理を食べてくつろいだ。
僕は娘のSに気に入られて、何度も手を引かれてジャングルジム型滑り台に付き合っ
た。
食後はA家の近所のバーで飲んだ。
「特にむかつくのは、だ」とAは言った。「チャームに住む白人たちが、最低の部類
に属する奴らばかりということさ」
「自国からドロップアウトした奴ら」
「それだ。ドロップアウトばかりだ。ここは『知の砂漠(インテレクチュアル・デ
ザート)』さ」
知の砂漠、とは凄い表現だ。
彼は早晩、ここを出るべきだろう。閑居すれば不善を為すのが人間だ。
彼の自宅に寄った。ワインを頂く。
彼の仕事部屋も見せてもらった。
彼のインターネット・サイトも見せてもらった。
ホテルに戻ってリエと色々話した。
妻Tと話していたリエは彼女側の話を聞いている。
Tさんは友人を通してロンドンに住むドイツ人Aと知り合い、結婚したのだ。白人男
性と結婚してロンドンに住む、と皆に羨まれていたところが、夫はタイの田舎に引っ
込んで「脳味噌をほとんど使っていない生活」をここ二年続けている。そう嘆いてい
たという。彼は彼で「知の砂漠」を呪っていた、と僕はリエに言った。
僕とリエは時々、「南の島でのんびり暮らしてインターネットで仕事する」ことを夢
見て語ったことがあるのだが、そのままの暮らしをしているAの暮らしも天国ではな
さそうだった。
シンガポールだって常夏の平和な国だったが、我々はむしろ猥雑な香港の方が好き
だ。カフェ、レストラン、バー、本屋、レコード屋がある大都会の方が性に合ってい
る。
南の国でのんびり、というのは大都会で忙しく生きているから楽しめるのであって、
南国に生きるのは知の砂漠に生きる覚悟が必要なのかもしれない。

2月3日(月)

朝になるとAとTの夫妻と娘のSがモペットで出迎えに来てくれた。
バンコク行きのバス停まで送ってもらい、お別れした。
Aが「アンクル・トダにお別れしなさい」と言うと娘Sは泣いてしまった。可愛い子
だった。
バスでは飲み水を配ってくれる。
2時間ちょっとでバンコク市内に入った。タクシーでリージェント・ホテルに再び
チェックインする。
レセプションの青年は英語だけでなく流暢に日本語を操るのだが、それはたった3ヶ
月、バンコクの紀伊国屋で買った教科書を読むだけで覚えてしまったのだというから
驚いた。
人間、本気で取り組めば外国語の一つくらい、3ヶ月で仕上げられるのだ。香港に住
んで半年になるのに広東語の出来ない僕は「知の砂漠」である。
と、ロビーでイタリア系オーストラリア人Mとばったり会ってしまった。目の大きな
白人女性と一緒だ。Mより年上かもしれない。
「トダさん!」
握手する。
「何してんの?」と僕。
「リストラされてからシンガポールのスポーツ専門局で働いているよ」
「それは知ってる。バンコクは仕事?」
「まさか。チャイニーズ・ニューイヤーを楽しんでいる。君は?」
「同じく」
やはり都会で働いてリゾートで休む方がいいのかもしれない。
部屋で休んで、サイヤム・スクエアまで歩いてからタクシーを拾ってホテルに戻り、
半屋外レストランで食事していると、「トダさん!」と声を掛けられた。鯉の泳ぐ池
の向こう、橋の辺りを近づいてくる女性がいる。ああ、最近タイの系列局を辞めてし
まった元社長のJ嬢だ。
まったく、色々な人に会うものだ。
リエを紹介する。
「あたし辞めたのよ」
「知ってる。今は?」
「このホテルを経営してるわ」
僕は絶句した。そして、宿泊費をただにしてくれないかな、とセコイことを考えた。
が、それは口にしなかった。
「スイートにいるわ」番号を教えてくれた。
彼女はタイの上流階級の出だと聞いている。このホテルも一族の持ち物なのだろう。
夜、タイの踊りを見ながら夕食。
明日は香港だ。




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