戸田光太郎の2000年日記

2000年1月20日 

2000年
1月20日(木)


雨が降っていなかったので会社まで歩いた。リージェンツ・パークの池に沿って
歩くのが気持ちいい。
あと二日のご奉公である。
昼時に昔の上司だった英国人Sが昼飯に行かないか、と言った。現在の彼は命令
系統的に上下関係にない。
「奢ってくれるなら」と僕。「何を食べたい?」
「ヌードル」彼はアジアに数カ月前まで住んでいた。和食党である。
カーナビー・ストリートの裏手にある「瀬戸」の二階で食事した。
「実はなあ」と彼。「現在の君の上司Cから昨晩聞いたんだけど、提示額に不満
そうだったらしいじゃないか」
「まあね。弁護士は法的には問題ないと言っていた」
「Cは極めてドライな提示だと思ったらしい」
テーブルの向こう側の僕の上司Cはそう思っていたとしても、やはりテーブルの
向こう側の役を演じていたわけだ。Sには本音を出したようだ。「で?」
「君は、もう一度、反論すべきだと思う」
彼はいくつかのポイントを指摘した。なるほど。僕の見過ごしていたところだ。
「反論すれば最初、向こうは強く出てくる可能性もある。でもそれはブラフだろ
う。そこで、もうひと押ししてみて、どう出るか見る。そこで危険信号が出れば
諦めるしかないが、やってみる価値はあるだろう。弁護士から手紙を書かせるん
だ」
「なるほど」
約束どおり彼が支払いを済ませた帰り道、僕は言った。「大いなる借りを作ること
になるけれどお願いしたい…今の複雑なニュアンスを僕の弁護士に英国人同士で
説明してくれないかな?」
「お安い御用だ」持つべき者は良き上司だ。
ランチから帰ってくるとオフィスがなんとなく騒然となっていた。
話を聞いて信じられなかった。
昨日まで、人事担当と一緒に、僕をテーブルの向こうで裁いていた英国人上司の
Cが消えた、というのだ。
どういうことなのか。一緒に食事した元上司Sが現上司Cに電話した。
僕は席を外した。
ドイツ語がバイリンガルな同僚の英国人Gがやってきたので、C蒸発事件を話し
たら驚いていた。
ランチを一緒にした元上司Sが部屋から出てきた。蒸発した現上司Cと話したと
いう。彼は僕を裁いた直後にお偉方に呼び出され、「会社の将来的な方向性に沿わ
ない」と断じられ、即刻、次の人事部とお偉方との話し合いが起きるまで会社に来
なくて宜しい、と言われたらしい。
先週の火曜日の僕と同じではないか。
これはあまりに出来過ぎで、何かの冗談ではないかと思った。
もしこんなプロットが読んでいる小説に出てきたら、嘘くさいと投げ出すだろう
が、バイロン卿の言ったThe truth is stranger than a novel.現実は小説よりも
奇なり、とはこのことだ。人生には何だって起きるのだ。
気を取り直してE弁護士の秘書に電話し、折り返し携帯に連絡を受けてから元上
司Sの個室に移動してコンフェレンス・コールに切り替えて、彼から弁護士に説
明してもらった。
E弁護士はその考えにはあまり賛成ではなかった。その理由を述べ、元上司Sは
納得していた。
電話を切る。
Sは言った。「彼は経験豊かだな。理はある。でも、もう少し戦うという手もあ
る」
僕は自分の席からもう一度弁護士に電話した。
「君の元上司のSはいい人だ。リスクを負ってこういう役割に出てくれたとは見上
げたもんだ。ただし、私はこの前に話した例のプランAの線でいく方がいいと思
う。ああ、それから君を裁決していた現上司のCが今日リストラを言い渡された
件だが、これは後で使えるカードになるかもしれない。Cの連絡先を調べておく
といい」
そして僕は明日で会社を去る。
昨日の処刑人が今日は処刑される。まったく、昨日の敵は今日の味方かもしれな
い。
つくづく、「情」というものが全くないドライな世界だと思う。
貴重な体験だ。
知り合いの出版社の編集者にリストラされたと電子メールしてオフィスを出た。
一旦家に帰ってからリエと連れ立って近くのパブに行き、事の顛末を話した。
村上龍の対談集「最前線」読了。○。教育の現場が荒れていることに驚かされる。



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