戸田光太郎の2000年日記
- 2000年12月29日〜30日
2000年
12月29日(金)
- 朝起きて外に出ると自分の宿泊するヴィラの出入り口に、椰子で編んだような
15cm四方の小さく浅い籠に色とりどりの花と葉を散りばめたものが置かれて
いる。ここへ斜めにバリの長い線香を横たえて炊いていることもある。
住宅や商店の軒先にも毎朝この籠が並んでいて美しい。
毎朝軒先を清めて花篭を飾るなんて、素晴らしい文化ではないか。
感服した。
日本も昔は、そう、僕の祖母なんかはそうだったけど、家の周りを掃き清めて水
を打ったりしていたものだ。
区民が清掃業者を雇って町を綺麗にする、というのも西欧的な分業ではあるが、
自分の住居や自分の町を自分たちの手で清めるというのは、極めて宗教的な行為
なのかもしれない。
道場を拭き掃除する武道家なども、道を極める宗教的な行為である。
掃除を3K労働として移民を導入した西欧的手法は破綻している。
バリの美しさは民心に由来するのだ。
花篭を眺めてそんなことを考えながらリエとホテルのレストランに向かい、緑や
風を感じながら、僕はインドネシア風朝食を、それに飽きたというリエはアメリ
カンの朝食を摂った。
食後はすぐ散歩に出た。ホテルを出て右に折れ、ジャラン・モンキー・フォレスト
を北上して、王宮をジャラン・ラヤ・ウブドゥ通りで左に折れて、また右手に入
り、ジャラン・カジェン散歩コースを散策した。
普通の家並みが、いい。
家々には必ず、ヒンズー教の神々を祭る石造や櫓がある。
途中、普通の民家の祭りごとを覗かせてもらった。おいで、おいで、と言われる
ままに。でも、非常に身内の宗教的な匂いがしたので、そこそこに遠慮して出て
きた。
また歩く。
田園風景になってきた。
田畑は非常に美しく手入れされて輝いている。
ビンタン・バリというホテル・レストランで休憩した。
二階の窓から広々とした田園風景のパノラマが一望できる。素晴らしい。
それはちょうど1978年の公開時に見た「地獄の黙示録」でロバート・デュバル
が爆撃したヴェトナムのような、南国の田園風景であった。もし、そういう、形
容が許されるのならば。
ビンタン・ビールとミーゴレンなどを注文して食べた。隣のテーブルにアメリカ
人一向が来て眺望に感嘆していた。
途中で個人ギャラリーがあって、ピカソ青の時代のような色使いの田園風景の絵
画を画家本人から購入した。
かなり歩いて特にリエがへとへとになった。泣き言が出てきた。そこで、この、
かなり辺鄙な場所にある、これまた茅葺屋根の個人画廊にトヨタのバンが駐車し
てあったので、店に入り、我々をホテルまで送ってくれないかと画家のワヤンさ
んに交渉した。
OKだという。
と、リエが安土桃山時代のような金のバックに蝶が舞っている絵が気に入ったと
言い出した。
確かに綺麗な絵だ。
それを購入することにした。
額縁がないのでキャンバスを剥がして丸めてもらった。
で、ワヤンさんがバンで送ってくれた。
コマネカ・ホテルで親戚が働いているという。
画伯に自家用車で送ってもらうなんて、大袈裟に言えば、モジリアニの絵を買っ
てからモジリアニに運転してもらってパリのホテルに落としてもらうようなもの
だが、ワヤンはモジリアニではないし、バリはパリではない。だから僕でもそう
いうことで出来るのだ。
ワヤンさんは、「明日、近所の神殿で祭りがあるんだけど、参加しない? うちに
衣装はあるから、おいでよ、ホテルまで迎えにくるから」と言ってくれた。彼は小
柄なインドネシア人青年である。ホテルの夜警がちょうど親戚の青年だったので
挨拶して、別れた。
ヴィラにお茶を運んでもらって緑を愛でながら茶菓子を頂いた。
大理石風呂でリラックスしてから着替え、コマネカ・ホテルのギャラリーのレセ
プションに招待されていたので出席した。
CHANG FEE MINGの個展を開いていて、彼の画集を販売もしている。
「ミスター・ミン、うちのかないが大ファンで」と画集を買ってサインしてもらっ
た本を抱えてリエと画伯で写真撮影してもらったが、リエが言うには、ミンさん
でがなくて、チャンさんであって、ミスター・チャンと声を掛けるのが正しく、
「大ファン」というのも大法螺で、それは僕のいる広告業界では通用しても、厳密
さを要求される美術業界では御法度であり、僕はリエの大恥をかかせた、とお灸
を据えられた。
この件で、ずっと責められたが、取り敢えず「ベベ・ベンギル」の2号店で鴨料理
を食べ、ミーゴレンなどを食べてから王宮で芝居を観た。
12月30日(土)
目覚めるとバリ音楽CDをかけ、大理石の風呂にお湯を張り、茅葺屋根天井や庭
を眺めながら入浴する。そういう生活も明日までだというのが信じられない。
風が通り抜ける壁のないレストランで朝食し、散歩して食事して昼寝して、気づ
くともう夕方。
レセプションから電話がある。
小柄なワヤン画伯が4WDで迎えに来たのだ。
昨日歩いたジャラン・カジェン散歩コースを行く。
民家の祭りは宴たけなわで着飾った人々が出入りしていた。
更に先を行くと4WD向きの悪路となる。
昨晩絵を買ったワヤンさんのアトリエに到着した。
奥の縁側で待っているとワヤンさんの小柄な奥さんが僕とリエが着る衣装を持っ
てきてくれた。
何かワヤンさんとは言い合っていたから、多分、「また、あんた、外人連れ込ん
で、観光ガイドでもないのに、人がいいんだから」とでも文句を言われているに違
いない。
夫婦のやりとり以外、この人里はなれたアトリエの縁側には月光と星影と静寂が
あった。
バリの正装である。僕は「サプッ」という腰巻布を巻き、白いシャツのような「サ
ファリ」というものを着て、頭に巻く白布ウドゥンは難しいのでワヤンさんがき
りっと締めてくれた。
奥さんはリエに長いスカートのような「サルン」を着せ、レースの施された上着ピ
ンクの「クバヤ」を帯び「スレダン」で固定した。リエがホテルを出る時に「黒のワン
ピがいいか、オレンジのワンピがいいか」と聞いた時に僕は「絶対、黒」と言った
が、これは間違いだった。ピンクの「クバヤ」の下から黒いワンピースが覗いて、
これは変だ。オレンジが正解だった。もう遅い。
ワヤンさんも正装し、奥さんは家に残り、僕とリエはまた彼の運転する4WDで
ヒンズー寺院の祭りに向かった。
濃い暗闇を走る。
遠くに明かりと人ごみと宗教的な祈りの歌謡が感知された。と思うと、もう畦道
に多くの4WDが駐車されていた。
ワヤンさんも駐車し、我々三人は寺院へ歩いた。
凄い人ごみで皆ワヤンさんのように小柄で正装しているから迷子になりそうだ。
そういうと、「大丈夫、僕は君達を簡単に見つけられるから」とワヤンさんは笑っ
た。「いつでも帰りたくなったら、そう言って」
外国人は僕とリエしかいない。二人とも背が高いから十分目立つのだろう。
正装したバリの人々もちらちらと我々を盗み見ていた。
ヒンズー寺院の階段を登り、しかし、あまり異邦人がうろうろしているのも頂け
ないので上からじっと景色を眺めた。
夜店がある。着飾った子供たちはとても可愛いい。
ガムランを演奏している舞台がある。賭け事をやっている連中もいる。
リエと階下に降りてガムランを聞いた。
夜、ガムラン、正装したバリ人の群集。異次元である。
ワヤンさんは賭け事に夢中になっていたが浮かぬ顔で戻ってきた。「すっちゃっ
た」
ひょっとするとワヤンさんは外国人の客の「接待」という名目で我々をダシにして
本当は賭け事をしに来ただけなのかもしれない。そうリエと話した。「きっとそう
よ。だって、彼、生活力なさそうだし。奥さんもそれが心配なのよ」
僕は彼が昨日の売上を胴元に巻き上げられなかったことを祈ったが、まあ、仕方
ない。彼の筆が稼いだ金だ。
彼が好きなように使えばいい。
ガムラン演奏の総指揮をしている髭オヤジがナベサダみたいだった。
着飾った彼らの子供達が父親たちの演奏中でも膝に乗ったり、ガムランを横から
叩いたりしてもいたが気にせずににこにこ演奏しているのが良かった。
人生リラックスだぜ、ベイビー。そんな感じだ。
リエも祭りを十分堪能したというのでワヤンさんにホテルまで送ってもらった。
「今度、君たちが着たら、車で島中を案内してあげるし、空港まで迎えに行くよ。
連絡してね」
まったくもってワヤンさんもいい人だった。
いい人過ぎて心配だった。きっと奥さんも心配なんだろう。
彼は観光案内の人ではない。画家なのである。画業にも専念して欲しい。
我々としては嬉しかったのだが、こんな体験ができて。
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