戸田光太郎の2000年日記

2000年1月21日 

2000年
1月21日(金)


勤め人としての最終日である。
七年半勤務した。こちらのテレビ業界では、ひとところに七年半もいるというの
は長老である。実際、僕は部門の中では二番目の古株となっていた。
僕が入社した当時からいる人間は七百人のうちの五人くらいだ。まあ、平均三年
で人は動く。
人事部の英国人女性Sが電話してきた。コンピューターと携帯と社員証と入室時に
いる磁気カードを引き上げにくるという。
僕はマッキントッシュのパワーブックとPCのシンクパッドを彼女に返した。「これ
がないと全く仕事は出来そうにないな」 実に我々はコンピューターなしでは何も
出来ない体になっている。
「私、自分の仕事ではこの部分が一番嫌い」と彼女。
「ねえ、教えて欲しいんだけど、もう全ては終わったわけだから。あなたは最後に
Cと連れ立って僕とミーティングした19日、Cまでがリストラされるの知ってい
たの?」
「ええ。あの三日前にお偉方から知らされたわ」
つまり、この月曜日だ。「Cは僕との最後の面談の時、自分の運命を知らされてい
たの?」
「いいえ。Cがお偉方に呼ばれたのは翌朝、つまり木曜日の朝ですもの」
「じゃあ、あの時知っていたのは、あなただけだったのか」
「本当に今週はクタクタだったわ」消耗した顔だ。
僕は彼女から小切手を二枚受け取り、書類を説明され、いつでも帰っていいこと
になった。
腹が減った。外に出てビルディング・ソサエティーに二枚の小切手を入れた。窓
口の男性に聞く。「現金化されるのは?」
「六日後です」
この金には出来るだけ手をつけたくない。「与志野」まで歩いて、「ミニ懐石」を食
べる。カウンターの中で割烹着を着て給仕している金髪女性の存在が面白い。何
人だろう?
オフィスに戻って私物を整理した。東京のNさんから頂いたHITACHIのデスクトッ
プが一番大切である。
と、長身の英国人の局長に呼ばれた。
型通りの挨拶と、「ところで東京のNさんからの強い要望なんだけど、君はまだコ
ンサルタントとしてウチのために働く気はあるか?」
来た、来た。Nさんと仕掛けた通りだ。
「一刻も早く去れ、の次は、また来い、ですか?」
「それはわかってる。これはCを含めて全社的決断だから、早急に動く必要があっ
た。交渉でダラダラ何ヶ月もかければ、いいことはない」
多分、これにも考え抜かれたマニュアルが存在する。リストラは機動部隊が迅速
に動かないといけない。1月12日火曜日の10:30に、「この通知はショック
でしょうから、今日は今すぐ帰っていいですよ」と猫なで声で言ったのも、そうい
うことである。亡霊となったようなリストラ社員がその辺をウロウロしていると
他の社員の士気に関わる。また、逆上したリストラ社員が電子メールで怪文書を
流す恐れもある。それが役員にでも伝わったら、危機管理が出来ていない、とネ
ジ込まれるだろう。鉄則は迅速に当該社員を外し、自宅待機させることだ。いき
なり職場から切り離されると、人間、弱くなるものだ。自宅になければ、コン
ピューターやファックスや携帯というコミュニケーションからも疎外される。そ
して弱っているところに小切手を出し、即刻、追い出す。僕が経営側だったら、
恐らく同じような行動に出るだろう。特に闘争的なアングロサクソンが社員だっ
た場合だが。日本でもリストラはどのようにケアしているのだろう? 執行側も
不慣れだろうに。
僕は局長とコンサルタントの条件を話した。
「どこでやるのがいい? 日本か? ロンドンか?」
「やるとなったら、打ち合わせがあるから、会社がいい」
「それは、まずいな辞めた人間が同じ机で働いていると税務署がうるさい。支払い
にも裏技が必要だ。自宅から電子メールや電話を使って欲しい。通信費は後で請
求してくれ」
そういうフリーランスも経験しておくか。
あくまで冷静なこの男と握手して、部屋を出た。
「あ、それから、戸田君」
「は?」
「来週、皆には正式な発表とお別れパーティーをするので連絡する」
ケッ、お別れパーティーなんて猿芝居だ。とは思うが、世話になった仲間にはキ
チンと挨拶して別れていきたい。
こうして僕は失業者となったのである。
濃密な九日間だった。
さて、これからが問題だ。宮仕えは遊んでいても定収が保証される。フリーラン
スは働いた分だけが換金できる。金を作らなければいけない。コンサルタントと
やらの実態が決まるまでは、日本のテレビ局の調査と、原稿書きと、宙ぶらりん
となっていた本を書くことに専念だ。リストラ体験も、終身雇用に寿命が来てい
る日本の読者に向けて本を書いてみたい。この日記は備忘録にちょうど良かっ
た。
その夜、僕はリエと連れ立って、タイ料理を食べた。




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