戸田光太郎の2000〜2001年日記
- 2000年12月31日〜2001年1月4日
2000年
12月31日(日)
- コマネカで緑に囲まれながら朝食してバリ民族音楽を浴びながら入浴すると、も
う帰国の時間となった。
「帰りたくないよお」とリエは嘆いた。
限りなく楽園に近い暮らしだった。緑の田園。敬虔で親切な人々。深い文化。敷
石やテーブルや床にいつも置いてある南国の鮮やかな花々。
でもな、これ、一ヶ月のコンドミニアム家賃より高いわけだから、永遠に続ける
わけにはいかない。
働かざるものバリに行くべからざる。
そんなことではないけど、とにかく帰るしかない。
旅行代理店の、行きとは違う二人組みの案内で空港へ向かう。
元英国航空勤務のリエも僕も旅なれているわけだけど、ガイドがなんでもやって
くれる「お任せ」状態は、それはそれで楽チンで好きだ。
とはいえ、大晦日の混雑を避けるため、という名目で随分と早く到着してしま
い、時間が余った。
まだチェックインできない。
ビールを飲んだ。
空港でだらだらするのは施設が充実してないと辛い。
読書した。
ようやくチェックインすると日本料理屋が構内にあった。
リエとしゃぶしゃぶなどを食べる。冷酒を飲んだ。こりゃあ暇つぶしにいい。
バリ産ロゼ・ワインや偽ものっぽいヴェルサーチのTシャツを買った。
2001年
1月1日(月)
昨晩バリから帰って二人とも疲れていたようで大掃除もせずにごろごろしてバリ
のロゼ・ワインを飲んだ。
去年2000年のベスト本は白石一文「一瞬の光」、ベスト映画は「季節の中で」に
止めを刺す。
夜、藤原紀香が出ている香港映画『CHINA STRIKE FORCE』を
駅ビル映画館で見る。愉快ではちゃめちゃのアクションもので、紀香は健闘して
いる。香港のショッピング・センターでのジャンプなども本人が怪我をしながら
演じていて驚く。英語も思ったほど悪くないし(英検2級だとのこと)、海外で
これだけ伸び伸びと演じれた根性は誇っていい。ただし、スタイリストが悪い。
彼女の服が最低だった。可哀想に。
アーロン君も可愛い顔に似合わずアクションはスタントなしで、これまた驚き。
だって、バイクで観光バスの垂直後部を登ってしまうなんてのも本人がやってい
たのだ。台湾の王力宏(去年、香港のパーティーで本人に会った)も好演。点は
大甘の◎。藤原紀香はボンド・ガールの座を狙っているそうだけど、これなら間
違いない。浜美恵よりqualifyされている。
シンガポールには日本のような新年気分がない。人々は半ズボンで歩いている。
これが本当に20世紀から21世紀へ橋渡しされる日なのか?
まあ、いいか。
1月2日(火)
初出社。互いにハッピー・ニュー・イヤーと言い合うくらいで特別な日という感
じではない。早速会議だ。
今年は1月24日のチャイニーズ・ニュー・イヤーこそが我々日本人の新年のよ
うな特別な祝い事になると皆は言っていた。おろしたての晴れ着を着て既婚の人
間は未婚の者にお年玉を渡すのだという。
リエの方は「初」学校で、中国語の学校に通い始めた。授業が終わるとギャラリー
で働く、という一日二本立てである。何もしていなかった生活から一挙に二本立
て、である。疲れるだろう。
オーチャード高嶋屋3階の紀伊国屋のカフェで待ち合わせてから久々の「とん吉」
でリエと食事。
僕は体調が悪いので禁酒。リエは思ったほど二本立てには疲れていない。何もし
ないで自宅にいた時の方がずっと辛かった、という。
良かった、社会とコネクトされて。
人間は働いている方がいい。
1月3日(水)
僕はプレゼンテーションの準備。
リエは風邪気味だという。9時近くになってしまったが、急いで食材と薬を買っ
て帰宅。
ご飯を炊く間に、大蒜で野菜を炒め、オーストラリア産の霜降りステーキを焼
く。リエはキッチンの隅のフロアにぺたんと座って、僕が料理するのを見物しな
がら今日一日の話しをする。
風邪気味のリエは野菜を食べ、ベッドに移動して病人用ラップトレイで食事。ご
飯も炊けて明太子と納豆で食べる。
1月4日(木)
リエはダウンした。
僕は出社。
リエは学校は休んだが、ギャラリーには出た。が、体調が悪くて早退したとい
う。僕は仕事を家ですることにして帰りに落ち合い、ノビーナのホテル内にある
神田川で夕食する。これは神戸神田川の支店である。
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