戸田光太郎の21世紀的香港日記 2003年

2003年2月12日〜2月13日


2003年
2月12日(水)

朝から色々とプレゼンテーションやトレーニングが続く。目一杯のメニューなので詰
め込み状態である。
途中、会社に対する甚だしき貢献ということで僕とT社S社長は一緒に表彰されるこ
ととなる。金額的に我々の営業成績はぶっちぎりだろう。もうS社長とはヨーロッパ
時代から10年もやってきたのだが、2002年はまた記録を更新できた。
午後15:00で本日のメニューは終了して、明日の隠し芸大会のために、チームが
振り分けられた。15組ほど出来て、それぞれが或るミュージシャンの担当となり、
そのミュージック・ビデオをMPEGでラップトップにダウンロードされて、その映
像を出来るだけ忠実に明晩ステージの生パフォーマンスで再現するという、大変な課
題である。大きな袋が手渡される。中身はビデオに合わせた仮装用の衣服とヘアスプ
レイなどだった。
僕がチーム・チーム・リーダーになった組は、あの反抗的なラッパー、エミネムをコ
ピーすることが指定されていた。僕は台湾人、インド人、インドネシア人、中華系シ
ンガポール人、フィリピン人という構成のチームに、「これから僕のラップトップに
映像をダウンロードするから、19:00からの食事の席で再びそれを見ながら話し
合おう」と伝えてこの場は、お開きとした。
幹事Kのラップトップから映像をダウンロードする。
早くも熱心に映像を見て打ち合わせに入っているグループもいた。
むむむ。こういう半分遊びのことには燃える人間が多いので困る。本気にならないと
勝てないだろう。
部屋に帰ってエミネムのビデオを見てちょっと気が萎えた。こんな映像、再現できる
わけがない。
何回か見たが、無理だと思った。要所要所、象徴的な部分を押さえるしかないだろ
う。
諦めて最終日にすることになっているプレゼンテーションに手を入れた。
19:00過ぎにイタリア・レストランで食事。
食後にチームメンバーが集まって僕のラップトップでエミネムのビデオを見る。
これは難しい、と皆も悟る。
夜22:30に僕の部屋へ全員集合してもう一度ビデオを見て作戦会議をすることに
して解散。
少々飲む。
さて、部屋に戻ってプレゼンに手を入れていると次々とメンバーが集合した。
互いに改めて自己紹介する。
「誰か、演劇の経験者とか、演出やった人いない?」と聞いたら、
「わたし、ある」とシンガポール本社広報部の中華系シンガポール人のA嬢が手を挙
げたので、
「じゃあ、Aさんを演出家に任命します」と僕はお願いした。「もう一回、皆で見よ
う」しっかり鑑賞した。「というわけで、これを全て再現することは不可能だから
エッセンスに絞る必要があると思う」
「そうね。わたし、場面に区切ってスクリプト書いてみる」と演出のA嬢はビデオを
繰り返して見ながら、さらさらと要点を書き出し、秒数を入れ込んだ。頼もしい。
残りの我々は用意された衣装やヘアスプレーなどを確認して冒頭の看護婦の服や帽子
はどうするか、などと話し合う。
A嬢の肩越しに映像を眺めて踊りや音楽を覚えようとする。が、ラップだから簡単に
覚えられるものではない。
A嬢はスクリプト草稿を書き上げ、役割を振った。
主役のエミネムは戸田と彼女が言ったので、「僕は色々飽きるほどやってきたので若
者に」と反論するとインド人青年Rがエミネムになった。
僕は全アジアでの最初の会合で「イパネマの娘」を演じて(この時は当時の広報部長
に命じられて、オンライン担当の中国女性のブラと腰蓑を付けて踊り、ベスト・パ
フォーマーになったのだが、もうあの二人は会社を去った。今では「ココナッツのブ
ラを付けて戸田は踊った」ということになっているが、会議の最中にエルヴィスに
なった、という噂と同じで、そんな事実はない)から、こんな役回りを平気でこなし
てきたが、ルーツとしては東京の米資系食品会社Bで1980年代、社員旅行の宴会
で若手社員が女装して「セーラー服を脱がさないで」を演じた時にあるだろう。
恥知らずな人生はあの時に始まった。
インド人青年は些かナーバスにエミネムの動きをなぞっていた。
僕は演出のA嬢に、「どうせ皆はいつものように女装したり痴態を演じるだろうか
ら、ここは一つ、最大級のインパクトとして、男子は最後に本物の尻を出してみる
か」と問題発言した。エミネムの映像にはお尻を出して舐めさせようとする映像があ
るのだ。エミネムを演じるインド人青年とインドネシア人青年と僕の三人だ。
彼らは渋々承諾した。
皆でプールサイドのバーで飲みなおす。
がんがん飲む。とうとうバーが閉まってしまった。
台湾の新人の男の子Tと彼の先輩のE嬢とシンガポール在住のアメリカ人と中国人の
ハーフ男性Kとで僕の部屋でウィスキーをだらだら飲む。
皆、酔っ払ってでれでれと喋り、非常に楽しい。
次回、こういうことがあったら、目ぼしい人間を集めて「戸田サロン」としてダラダ
ラ過ごしてもらおう。
明け方に皆は引き上げていった。

2月13日(木)

朝からずっと会議とトレイニングである。
そろそろ皆は疲れている。
僕は明日の朝のプレゼンテーションの打ち合わせを上海から来ているA女史とした。
彼女はちょっと前にボーイフレンドと香港に寄って僕とリエとで食事している。
夕方に真面目な会議が終わると、皆は今夜のために、それぞれのグループに分かれて
集合した。
僕らのグループは僕の部屋に集合した。
と、演出のA嬢が重大発言をした。
主役のエミネム役のインド人青年Rが突然自信を失って降板したいというのだ。
A嬢は突如、配役を僕に代えた。
あと2時間もないというのに。
まあ、僕は本番に弱い方ではないから引き受けたけど。
「じゃあ、3人の男は生尻を出すこと」と僕は言った。「もう特に練習してないから
体を張るしかないんだからな」
自棄である。
我々はてんでに練習したり、A嬢はスクリプトの精度を高めたりしたが、もはや練習
やスクリプトは役に立たない段階になっている。
どれだけ弾けるか、にかかっているだろう。
演劇畑の出身のA嬢が僕のヘアを固め、スプレーで金髪にしてくれた。
さて、我がエミネム・チームで夕食をする。他チームのテーブルの連中も髪を染めた
り、鬘をかぶったり、女装したり男装したりで、異様な雰囲気になっていた。多国籍
が集合して仮装しているのだから、もうカーニバル状態なのである。皆、自分の姿と
他人の姿で興奮状態になっていた。
その点、我がチームはTシャツ姿で極めてノーマルなのである。
食後、最初のパフォーマンスが始まり、これは、いきなり、他の出場者全員に衝撃を
与えた。
英国人の上級副社長が大型バイクのハーレーの後ろに女装して女性歌手になりきった
インド人を乗せて、バリバリバリと轟音で乗り込み、ステージ前に乗り付けたのだ。
これは、もう、なんというか、全員ぶっ飛んだ。
こんなものに勝てるわけがない。
ところが、音楽のタイミングがずれて、そこから先の運びで躓いた。ただし、そこを
除けば、非常に良く練習していて、瞠目すべきパフォーマンスだった。
そこから先の連中も、女装男装も鮮やかで、振り付けもヴィデオから完璧にコピーし
て、群舞もなかなか、恐ろしいほどだ。短期間で良くやった。
その点、我々は徹底した練習はしてないし、突然主役を振られた僕は度胸しかない。
「どうする、皆、凄いよ」と僕は演出のA嬢に言った。
「戸田さんね」と彼女は僕に最後の演出指導をした。「あなたの普段のナイスガイ・
スマイルは捨ててね。エミネムみたいに、憎しみと怒りの塊になるの」
「そうだね。もはや、勢いと、心の底から湧き上がる何かで勝つしかないよ」と口に
しながらも、僕は他のパフォーマーが、ブラや下着姿になっても生尻まで出してない
こと、女装や男装でステージから降りて客席からキャーキャー言われながらも、更に
奥に進んでいく者がいないことに気づいた。
そして、演者達は自分の女装や演じることそのものやステージを降りて客席に接近す
ることばかりに気を取られて、全体のリアクションを計算していないことにも気づい
た。
これらを計算に入れて、尚且つ、「普段のナイスガイ・スマイルは捨ててね。エミネ
ムみたいに、憎しみと怒りの塊になるの」を奔放に実践すれば勝算があるかもしれな
い、と感じた。
それしかないだろう。
音楽が始まった。精神病院のシーンだ。これは、映画「カッコーの巣の上で」のコ
ピーだろう。
ステージには看護婦姿の二人だけ。
やがて精神病者役の残りの者が身体を麻痺させながら客席からステージににじり寄
る。このA嬢の演出は上出来だった。
僕は前に出たパフォーマーに欠けていた「溜め」を考慮して、袖に控えて敢えて出て
いかなかった。
で、精神病者役の残りの者が(戸田はどこだ?)と不安になってきょろきょろし出し
た頃にステージに顔を引き攣らせながらびっこを引いてずるずると現れた。
これだけで客席から「TODA! TODA!」コールが湧き上がったので僕は落ち着いた。
あとは、どれだけ「溜めて」弾けるか、にかかっている。
僕は黒い拘束衣で固めた体を左右させながら顔面麻痺のまま何か怒りを聴衆に投げか
けた。
で、サビに入ったところで黒い拘束衣をとっぱずし、白いTシャツにだぶだぶの半ズ
ボンというエミネムのスタイルで両手の三本指をラッパーのように宙に突き刺し、怒
りをぶつけた。
俺は怒っている、と英語で叫びながらステージを降りると、皆が「オー!」とドヨメ
クのがわかった。
フロアーのステージまで進み、インド人青年を追いかけ、予定通り、ステージで彼を
押し倒し、彼の顔の真上で僕は生尻を出した。
撮影されるといけないので1秒以下のパフォーマンスだったが、これは衝撃だったよ
うだ。
僕らは、他の生真面目に練習した奴らに負けたくなかった。
更に僕はもう一度ステージから客席に降り、ぎゃあぎゃあ叫ぶ観客を尻目に突き進ん
でいき、怒りをぶつけ、テーブルをひっくり返し、椅子を投げた。
場内騒然である。
と、テープの手違いで音楽と映像は中座した。
演者全員がステージにとぼとぼと戻っていく。
と、観客が、「アンコール」と叫んでいる。
でも、僕は全てのエネルギーを使い果たして、とても、もう一度演じることは出来な
い。
大声で「勘弁して。疲れたよ。二度と同じようには演じられない。ハンディキャップ
を考慮して判定してください」と言い残して我々のグループはステージを降りた。
あとは数組のパフォーマンスを残していたけど、僕はある程度の手ごたえはあったの
で、「凄かったよ、君のエミネム」などと賛辞を受けながら自分の部屋に引き返し、
金髪スプレーを落としてシャワーを浴び、着替え、会場に戻った。
シャンペンを飲んでいると発表が始まった。
僕とN社長は表彰された。
英語が喋れないと言う(本当は少々理解でき、喋れるのだが)N社長に耳打ちして、
「Nさん短く何か日本語で言って。僕が面白く訳しますから」と伝えるとN社長は一
言、「ありがとう!」と言った。
で、僕は「今の日本語を訳します。YOU SOCKS!(お前ら、最低!)」と言った。
皆はシーンとした。
「ああ、御免」と僕。「今のは誤訳です。Nさんはこう言いました。YOU ROCK!(君
達は最高だ!)」
これで万雷の拍手となった。
僕らは賞状とシャンペンを英国人の上級福社長から貰った。
僕はアシストしてくれているC(中華系シンガポール人)やMやK(香港のスタッフ)に
お礼を言ってステージ近くまで出てきてもらった。
悪い気分ではない。こうして皆と分かち合えることは。
続いて色々な受賞がある。
で、最優秀男性パフォーマーの発表があり、それは何と、付け焼刃の僕だった。
それには驚いた。
インドネシアの盾みたいなものを英国人の上級福社長から貰った。
一人だけ貰っては、特に演出担当のA嬢に申し訳ないな、と思っていたところ、総合
的なグループ優勝が発表された。
これは、もう、信じられなかった。
競合を打ち破って我々が堂々の第一位だった。
呼び出された我々、シンガポール人、インド人、インドネシア人、フィリピン人、そ
して日本人の僕らはとても信じられなくて抱き合って喜んだ。
僕らはハレーも仮装も振り付けもなく、怒りだけで勝利した。
チーム・リーダーの僕にマイクがわたったのでスピーチした。「君達は僕の生尻は見
たけど、音楽が中座したので、インドネシア男性とインド人男性の生尻は見逃したの
であります!」
皆はげらげらと笑った。
こうして夜は更けた。
デリーから来ていた旧知のインド人Pが大笑いしながら言った。「ひどいじゃない
か。お前、賞を総なめしやがったな。とんでもない野郎だ」
そして僕らは爆弾炸裂も気にせず、バリ島の繁華街に繰り出した。
多国籍軍の中で踊る。踊る。踊る。
今夜も、まあ、気分のいい夜だった。
疲れたのでクラブの外、沿道で休んでからタクシーを拾って地中海クラブに引き返
す。
台湾からのチームと一緒だったので、大いに社内で歌う。
酩酊状態で、へらへら笑いながら到着し、プールサイドで議論したり、歌ったりし
た。
椰子の木に囲まれ、気のいい台湾人や韓国人と歌い、騒ぎ、プールは青くライトアッ
プされて美しい。
多幸症の僕はまた、とてつもなく幸せになった。
世界には色々な人々がいて、でも同じような悩みを抱えていて、人生はなんて悩まし
くも美しいのだろうか。なんて。
皆で歌った。
プールで真夜中に泳いでいる奴らが、仲間に入れ、というのでいったん部屋に戻って
から海パンに着替えて泳いだ。

(この日の画像はここです。)





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