戸田光太郎の21世紀日記 2001年
- 2001年8月29日〜9月6日
2001年
8月29日(水)
- どたばたと忙しい。
昼は中華系香港女性Iとオフィス近くの北インド料理屋で食事。
彼女はMTVヨーロッパに移籍する約束で一度辞めて出戻りしてきた人なのだ。
戻ってきたはいいが、なかなかロンドンに行く辞令が降りないので悩んでいる。
「ロンドンで中国人女性に対する差別はある?」
など、ロンドンでの暮らし方などを色々と質問されて答える。
夜はリエと落ち合って本陣。
リエは豚生姜焼き定食。僕はカレー。
8月30日(木)
- どたばたと忙しい。
今日は調査部の部長のインド人女性と昼。ずっと伸び伸びになっていたランチで
ある。
シンガポールに対するお決まりの批判が出る。
一方で「インド人は才能がある」「非常にフレンドリーな民族である、しかるに
シンガポール人は」云々。
国が狭いので毎週末になると同じ人間と顔を合わせることになる。
インドでならおよそ一緒には週末を過ごすことはなかっただろう人々と一緒に毎
週同席している。
これはリエがシンガポールの日本人に対して言っていることと同じだ。
夕方MAA会議がある。
夜はリエと餃子の店で食事。
8月31日(金)
- 朝にMAA会議。
忙しい。
9月1日(土)
- 一日酔っ払っていた。
9月2日(日)
- 一日酔っ払っていた。
9月3日(月)
- 排水溝事件勃発。
僕は風呂場で吐いて排水溝を詰まらせ、パイプマンで排水溝を通そうと泥酔いの
まま10時間も塩酸の煙を製造する。
リエも呆れている。
9月4日(火)
- 人間が駄目になるかもしれない。
病人だ。
9月5日(水)
- 朝5時半に起きてシャワーして着替えて6時に迎えの白ベンツでチャンギ空港
へ。
成田経由NYC行きUA890便だ。小さなスーツケースを預けて手提げとラッ
プトップでチェックインし、UAのラウンジで待つ。
UAのスチュワーデスは見事なまでの年代物。肥満で白髪の60代が当たり前の
ようにヨロヨロ給仕している姿は泣かせる。
アジアのキャリアは寿退社に追い込まれるプレッシャーが強いので皆若いが、ス
チュワーデスという職業がもはや高齢者事業団を意味するごとき現象は成熟の証
拠かもしれない。
日本のJALやANAは昔ながらの終身雇用組がどんどんこの方向に向かってい
て、何だか、お局(つぼね)が激増している。対して若い契約社員は、この二極
構造の中で怯えながら働いていて痛々しい感じだ。
赤ワインを随分飲んで成田に到着したのは午後3時頃。
キヨスクでダカーポなど雑誌を買い、UAのラウンジに入った。成田はそこら
じゅうに電源と末端が付いたカウンターとスツールが並んでいて、ほとんどのビ
ジネスマンがラップトップを叩いている。
僕もミネラルウォーターを飲みながらキーボードを叩いた。
午後6時過ぎのUA800便でニューヨークに向かう。
この飛行機は長かった。
飯は不味いし、まともな雑誌はないし、スチュワーデスは太ったよろよろの老婆
ばかり。
ラップトップにも飽き、赤ワインも飲みすぎ、雑誌も読み終わり、寝たり起きた
りを繰り返し、隣のニューヨークへ向かうアメリカ人青年と話をする。また寝
る。また起きる。老婆が往来する。
僕は何度も気流に巻き込まれた飛行機で肝を冷やして、これで一巻の終わりか、
と観念したことがあるが、彼女達は明らかに僕より飛行距離も回数も多いはず
だ。それでも生きている。よろよろと働いている。そう簡単に飛行機事故で死ぬ
ことはない、という理屈や統計は良く耳にするが、彼女達は生証人である。
へとへとで午後6時頃JFKに到着して税関を通る。去年ほどの混雑はない。タ
クシーの列も多少は改善されていた。それでも他の国際空港より便利だというこ
とはない。
イエローキャブでマンハッタンに向かう。
運転手はターバンを巻いたシーク派のインド人でパンジャブから出てきて13年
経つというが、驚くほど英語が下手だ。インド人人口は多くなってるようだ。
クイーンズからミッドタウン・トンネルに潜る手前、マンハッタンが目の前に広
がった時に見事な夕陽となり、摩天楼が金色に輝く塊となった。
まもなく46丁目のホテルに到着した。去年と全く同じ状況で、ホテルの前にN
社長が立っていた。
クライアントYさんと広告代理店の青年もいた。
僕の到着が遅くてヤキモキしていたのだという。
チェックインカウンターが込み合っている。
随分待たされてから部屋に荷物を落とし、シャワーも浴びずにすぐロビーへ降り
て、皆さんの意見を取り入れてからコンシェルジュに頼んで夕食のテーブルを
取った。
全員で46丁目を東に歩き、タイムズ・スクエアに出てから北へ。
52丁目の角を左へ入りノボテルの隣のステーキハウス「ギャラがーズ」に入
る。入り口の右側が肉の冷却貯蔵庫になっていて物凄い分量の、しかも新鮮そう
な肉塊が棚に並んでいたり、吊るされたりしている。右手に貯蔵庫の窓を眺めな
がら廊下を進むと中央に円形バーがあり、木造張り内部の広い客席に辿り付く。
シンプルなテーブル・クロスや壁一面に飾られた写真や絵が非常に昔懐かしい暖
かいアメリカンな雰囲気でとてもいい。我々が宿泊している阿呆モダンなホテル
と対極にある。
写真は壁ごとに、ベーブルースやゲーリックや歴代野球選手や競走馬や騎手や役
者というように分類されていてこれを眺めるのも楽しい。
先客は身なりのいいアメリカ人中高年カップルが多い。カジュアルで、しかも一
人で来店している男性客もいた。
いかにもニューヨークなシーザースサラダなどを前菜に四人とも33ドルのサー
ロイン・ステーキに挑戦した。やはり分量があった。
関西から来ているYさんは子供の頃に肉好きの父によく「ニューヨーク・ステー
キ」という有名な店に連れられてステーキを食べるのが子供にとって最高のご馳
走だった、と語ってくれた。
でも、当時の日本では誰でもステーキは大ご馳走だったわけだから、しょっちゅ
う「ニューヨーク・ステーキ」で外食した彼の家は裕福だったのだろう。
ウェイターが気をきかせてキッコーマンを出してくれた。バターをサーロインに
載せて醤油を掛けると俄然、味が引き立った。骨付きのゴツいステーキをこれと
カルフォル二ア赤ワインで「完走」した。
この店は当たりだ。カルフォル二アのローリーズほど気取ってないところもい
い。会計して外へ。
ビレッジ・バンガードに行きましょう、と僕は皆を誘い、少々タイムズ・スクエ
ア近辺を散歩して心地よい夜風と聳えるビルの電飾を眺め、やがてイエロー・
キャブを拾って7番街178番地、庇の伸びたビレッジ・バンガードの入り口で
降り立った。
扉を押して地下へ。中へ入るとちょうど前のセッションが終わったところで、外
で五分ほど待ってくれ、と言われた。
去年の今ごろも同じ仕事でニューヨークに出張してここに来てトミー・フラナガ
ン老のピアノを聞いた。良かったのでタイムズスクエアのヴァージン・レコード
でCDを買った。
地上へ出て煙草を吸う。
出てきた先客ニューヨーカーが、
「良かった」
「そうかな。俺は最初の二・三曲はノれなかったな」
などと言っている。
なんだか非常にニューヨークに居る気分になってきて嬉しい。
見上げた先にはワールド・トレードセンターのシルエットも浮かぶ。
入り口脇の手書き告知には「レジーナ・カーターとケニー・バロンのデュオ」と
書いてあるが、我々は恥ずかしながら、誰も知らなかった。
煙草を歩道に落とし、靴の踵で踏み、また店内に入る。
ワン・ドリンク込みのチャージが25ドル。
ステージに近いテーブルを占領し、僕はワインを注文した。
まだ10時半を過ぎたばかりで、次のセッションは11時半だという。
だらだら喋っていると時間となった。
レジーナ・カーターは細腕にバイオリンを抱えた、まだ若い黒人女性だった。
典型的なジャズからラテン、スタンダード、コンテンポラリーと、様様なバイオ
リン演奏をした。
特に僕はジャズのバラード曲が良くて、他の三人には気付かれなかったと思う
が、涙を流してしまった。彼女の弦は人間の声音のように表情豊かで変幻自在
だった。
疲れた三人はタクシーを拾って帰り、分厚いステーキのせいか、どんどん元気に
なった僕はビレッジ・バンガードから延々と深夜のマンハッタンを歩いた。
ビレッジにはこの時間でも賑うオープン・スペースのレストランがある。
ニューヨーカーというのは本当にカッコつける人間が多くて面白い。
皆、見得を切るのが得意だ。店員から役人まで、言葉の端々、動作の端々にそれ
が表れる。
足早に歩く青年。
街角でイエロー・キャブを拾う身なりのいい白人カップル。
左手にマディソン・スクエア・ガーデンが現われる。
深夜のデリで働く眠そうな店員。
犬を散歩させている若い女性。
バー。そうだ、このバーには去年、飲んだ。
メイシーズが現れた。これを東に進めば32丁目の韓国人街になる。
更に北上すると、もうタイムズ・スクエアのケバケバしい電飾が頭上から降り注
いできた。
こうしてマンハッタン初日の長い一日に、ようやく(ああ、これだよ、これ、こ
れがニューヨークだよなあ)という気分になってきた。
ホテルに戻って無人のビジネス・センターに入ってEメールのやりとりをした。
9月6日(木)
- 早起きしてしまう。
6時前だ。
タイムズ・スクエア近辺を歩き、ハンバーガーにビールという不健康な「朝食」
を購入してホテルの部屋でMTVを見ながら食べる。MTVは今夜のイベント、
VMA(ヴィデオ・ミュージック・アワード)一色の番組編成となっていた。
9:30にN社長と落ち合い、タイムズ・スクエアの本社ビルに出向いた。
28階で今晩のチケット8枚を10:30には入手できた。
続いてアメリカ人Cと会議。アメリカ青年Wも加わる。
アメリカ人Hとも会って、我々は、薮蛇、飛んで火に居る夏の虫、という状態に
なった。
ホテルに戻ってN社長とコーヒーを中二階で摂って総括。
指定されたアメリカ人にチケットを4枚手渡す。
日本人二人にもチケットを渡し、夜17:15集合と決めて解散
僕はコンシェルジュでレストランを予約する。
N社長と僕は近くの小さな日本料理屋「リトル・横浜」で、天麩羅蕎麦を食べ
た。
帰りに二人でタイムズ・スクエアのヴァージン・レコードに入り、僕は昨晩見た
レジーナ・カーターのCD「SOMETHING FOR GRACE」を買っ
た。
部屋で少々休んでいると、先ほどのアメリカ青年Wより電話。不愉快な展開だ。
無視する。
17:15に全員でロビーに集合してイエロー・キャブでセントラルパーク
W67番外「タバーン・オン・ザ・グリーン」に向かった。
ヨーロッパにはよくあるタイプの、公園内のオープンスペースのレストランで、
給仕が長テーブルのようなところに食材や食器や飲み物を並べて応対している。
大掛かりなピクニックのような気分になる。テーブル・クロスや家具はちゃちな
ものでゴージャス感には欠けるが、天気があまりにいいので、こうして青空の下
で食べるのは気持ちがいい。
「今晩が最後ですから」と僕はシャンペンを抜いてもらった。
僕はサラダと、またステーキを頼んだ。
ステーキとハンバーガーの日々。不健康だが、僅か二泊三日のニューヨーク滞在
中だけだから、よしとしよう。
ブロードウェイをリンカーン・センターに向けて歩くが、凄い人込み。
NYPDの制服警官に「今、ブロードウェイを横切ることは出来ない。60丁目
まで下がって」と指示される。67丁目から来た我々は延々7ブロック、人並み
の中を歩いた。暑くなってくる。
ブロードウェイの西側の歩道は完全にブロックされ、制服警官が警備している。
ようやく60丁目で向こうに渡って、警官にチケットを見せてブロックされた側
の歩道に入り込んだ。
これをまたリンカーン・センターまで北上していくのだ。
着飾った人々が、リンカーン・センター目指して流れていく。
18:30会場で19:30にライブ放映のためにドアを閉める、と説明されて
いたのだが、もはや19:20になってしまったので急いだ。
リンカーン・センターの向かいに人で溢れていて、黒塗り巨大リムジーンが到着
してスターが赤絨毯を歩いていくたびに黄色い歓声で沸き立った。
そうして入場してくるスターを屋外ステージのレポーターが捕まえてインタ
ビューしている。
その姿が巨大モニターに映る。ダークなスーツに真っ赤なシャツを着たミック・
ジャガーだった。
リンカーン・センターの広大な空間とヘリコプターやNYPDの制服警官や赤絨
毯の醸し出す、メディアの巨大な司祭的儀式が、ここにきて、どっと迫ってきて
迫力だ。
イタリアはボローニャのアレーナでアイーダをやる時でも、これだけの空間は作
れないかもしれない。
いや。僕はまだアイーダをあのアレーナで観たことはないので偉そうなことは何
一つ言えない。
会場のメトロポリタン・オペラハウスに入る。
ロビーは着飾った人で溢れ返っていた。
ライブのショーはなかなか楽しめた。
圧巻はNシンクの舞台で、リヒテンシュタインみたいな1960年代のポップ絵
画のごとき背景で彼らが「POP」のビデオと同じ展開で歌い踊るのだった。そ
してSMAPのように踊る彼らの背後から登場したのが特別ゲスト、マイケル・
ジャクソンだった。
僅か30秒くらいの踊りに全員総立ちとなった。
拍手の嵐。
結局、Nシンクはいくつかの賞を総なめにした
他にパフォームしたのはジェ二ファー・ロペスやU2やブリトニー・スピアー
ズ。
ブリトニーは、ほとんど半裸で生蛇を体に巻きつけていた。
色物に走る彼女の未来が心配だ。
プレゼンターにはミック・ジャガーにボン・ジョビがいた。
こういう大御所は、ブリトニーの知らぬ修羅場を生き抜いてきたわけだ。
23:30くらいにようやく終わる。
皆でブロードウェイを歩いて帰り、途中で僕だけドラッグ・ストアに寄った。
メラトニンを買おうと思ったのだが、売っていなかった。
部屋に帰ってテレビでまたVMA(ヴィデオ・ミュージック・アワード)を見
る。
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