戸田光太郎の21世紀日記 2001年

2001年8月12日〜14日


2001年
8月12日(日)

7時起床。
リエも僕が起こすと割にすんなり起きてエクスカーションに出る。
バンがホテルから我々を拾い、次のホテルで白人の老婆と少年と姉妹の四人が加
わる。祖母に連れられた孫達だろうか。
町を走ると日本料理屋「さしみ」というのが目に入った。竹で骨組みを作って茣
蓙で囲んだような安普請の店。
9時ごろBOAT LAGOON到着。
小さな船着場の店に人が集まっていた。
白人が多い。スペイン語だ。大声で喋っている。
日本人カップルもいた。
艀を渡って二つのスピード・ボートに分かれて乗る。
最大20人乗りのボートだ。37フィートあり、時速は60ノットで重量は
3000キロと解説されている。
舳先のビニール・クッション席にリエと腰掛けた。
愛想のいいタイ人ガイドが、「非常に揺れるので背骨に問題のある人は気を付け
てください」と笑いながら注意したが、これは軽いジョークだと思っていた。
が、違った。
大きな波が来るとドッカーンと舳先は遥か前方に打ち上げられて、放物線の頂点
を越えた次の瞬間、舳先の我々は薄気味悪くヒュインと底なし沼へとどこまでも
降下しながら、腰の浮き上がる不安の中で遂にズンっと波の谷間に落ち込んでド
ドバシャッと海面に叩かれ、椎間板が圧縮される苦痛の中で、また次の波にドッ
カーンと突き上げられて、と、延々繰り返し、この過激この上ない重力ゲームが
非常に体に堪えた。拷問だ。
舳先には、ごく平均的な英国人らしい夫婦とアメリカ人らしき中年女性一人旅と
先ほどバンで一緒だった中学生のような少年と不良美少女姉妹だったが、1時間
もドッカーンと揺られているうちにカムコーダーを振り回して元気だったこの少
年が船酔いにやられてしまった。顔面蒼白だ。
船が切り立つ資色っぽい崖に囲まれたマヤ湾に舫い、我々は足ヒレと水中眼鏡で
真っ青な海でシュノーケルした。
珊瑚は美しく、非常に多くの熱帯魚が生息している。
これはなかなかの場所だ。
しかし、水面に顔を出すと、辺りには何隻ものボートから多くの観光客がプカプ
カとシュノーケリングしていて、この名物入り江はさながら船団が撃沈されて乗
組員が吐き出された海上のような騒然たる光景になっていた。まるで戦争だ。観
光戦争だ。
船に戻り、再び走り出す。
ピピ・レ島まで行き、浜辺に乗り上げる。
この辺はデ・カプリオの主演映画「ビーチ」で着目されたところなので、これま
た大型船から小型ボートまでが浜の端から橋までを埋め尽くし、まるでノルマン
ディー上陸作戦のような光景なのである。人口は増え、情報は世界を飛び交い、
交通機関は便利で廉価になったから、もはや静かなリゾートなんてものはお金で
買うしかないのかもしれない。セイシェル諸島のバード島みたいな場所に行くに
は、やはり金はかかる。
また船に乗り、今度はピピ・ドン島のトン・サイ湾で昼食。
リエが言うにはガイドが巧みに白人と有色人種を別のテーブルにした、というこ
とだが、そうかもしれない。我々のテーブルは若い中華系タイ人カップルとアラ
ブ人男二人組みだった。ご飯は中華系タイ料理。
また移動する。
今度はカイ島に舫い、浜辺でビールを飲み、ビーチチェアから海を眺める。
中華系アメリカ人の若い男女が典型的なアメリカ英語で、浜でじゃれていた。
ガイドが洞窟で大海蛇を見せてくれた。
船に戻ると雨が降ってきた。雨合羽が配られる。
船酔いした子供を連れてきた老婆と話すと、なんと彼女はロンドンから来てい
て、シェファーズ・ブッシュ在住だという。
僕は数年前までその近所のシンクレア・ロード95番に住んでいたので、そうい
うと「知ってるわ。ご近所ね」ということになった。彼女は祖母ではなくて子供
達の歴とした母親であり、勉強中の身で、やがて精神科医になるとのこと。
ほどなくして雨は止み、BOAT LAGOONに帰還し、我々はホテルに送り
帰された。
ぐったりする。
リエは部屋を出て食事するのさえシンドイというのでルームサービスを頼んだ。
キャラフェの赤ワイン、クラブサンド、パド・タイ、バナナフリッターとココナ
ツなどがバンガローに運ばれてくる。
MTVを観ながら食事した。

8月13日(月)

起きる。七時だ。リエも珍しく七時半には起きてきた。
お茶を飲んで散歩。
プールサイドでタオルを受け取って浜辺でリラックス。
僕はレセプションで18:00に車を手配した。
バンガローでシャワーしてからまた浜に戻ってビールを飲む。
11:30に部屋に戻ってリエと荷造りし、電話でポーターを呼んで荷物を預
け、浜へ出た。
ペーパーバックの「POSTSHOT」をちょうど読了する。なんだか尻つぼみ
の「七人の侍」で、戦闘シーンに迫力がなく、結末も緩い。著者ロバート・B・
パーカーは確か「レイチェル・ウォレスを探せ」の末尾のガンファイトでボガー
トの「キー・ラーゴ」のラスト、エドワード・G・ロビンソンとの絡みをパクっ
ていたが、あっちはうまくいっていた。これは駄目だ。
リエと海の見えるレストランでトムヤムクンとスープヌードルと白ワインとミネ
ラルウォーター。
また浜でリラックスするが、13:30頃に雨模様になった。
レストランに避難すると大雨となった。
更にインドア・レストランに避難する。
コーヒーと紅茶とJ&Bのロック。
やがて雨が小降りになってからプールサイドのカウンターからタオルを数枚借り
てビーチへ降りていく。
雨がぱらぱら降る中、僕は浜辺のおばちゃんからマッサージを受ける。気持ちい
い。
リエと隣のホテルに行き、図書室で読書し、またホテルTHE CHEDIに
戻って食事。
僕は、ほうれん草パスタのカルボナ−ラと白ワイン。リエはフルーツサラダとラ
イムジュース。
さて、タイムアップ、リゾート生活も終焉に近づいた。
僕は勘定書きにサインし、レセプションで全ての会計を済ませてから309号バ
ンガローを借りてシャワーを浴びて着替え、リエと車に乗り込んで空港へ向かっ
た。
シンガポール空港のラウンジがない。ラウンジ使用券を見せるとタイ・レストラ
ンでパド・タイと春巻きとシンハー・ビール大瓶とシェリーが出てきた。
制服姿の長身のタイ美人が忙しく立ち働いていた。
客の出入りは激しいし、守備範囲のテーブルは多いし、激務である。頑張ってい
る。
19:15には一人頭500バーツの税金を納めてゲートに向かう。
小さな構内にナイキの店や真珠店やタイシルクの店がある。
本屋でタイ料理の本を買った。
デューティーフリーでウィスキーとセブンスターのスーパーライトを買い、
20:15発のシンガポール航空機の人となる。真ん前の1Aと1Bの席で、
シャンペンとオードブルが出る。
二人とも満腹で、せっかくのメインは食べずにキャンセルした。

8月14日(火)

プーケットから帰ってきて、いくら仕事をしても片付かない。
しかも明日からマニラとバンコクへ出張である。
プーケットを含めてタイに行く機会が異様に増えた。
と、英国人副社長から火曜日にバンコクへ飛んでくれ、と頼まれた。しかも、
プーケット島に関する仕事なので驚く。
明日からマニラとバンコクを回って次の土曜日にバンコクから戻ると、また火曜
日に日帰りでバンコクである。
8月だけで4回もタイ国に入るとは因縁だ。
23時半まで働いて帰る。
リエは食あたりでギャラリーを休んだ。
セブン・イレブンで買い物して帰ると彼女はぐったりしていた。
彼女を慰め、荷造りして、休む。
午前1時を回った。






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