戸田光太郎の2000年日記
- 2000年1月24日
2000年
1月24日(月)
某出版編集長に次に書く本の目次だけ作って送った。
さっそく本文に取り掛かる。辞めた会社の思い出が噴出してくる。これはいい。
絶妙のタイミングだ。
電話が来た。
日本のAからだった。Aとは「某外資系食品会社」で一緒だった。当時、彼は突
然辞職して僕を驚かせた。半年ほどベルリッツで英会話の個人レッスンを受けて
から、カルフォルニアで語学を続け、最後にはクリーブランド州立大学でマーケ
ティングのMBAを取得した。僕は彼の影響で辞職し、欧州旅行してからオラン
ダに住み、イギリスに住むようになっていて、一度クリーブランドに行った。何
もない町だった。勉強にはもってこいだ。あの時は二人でレンタカーして、アメ
リカとカナダを縦断した。もう9年前になる。
Aは今、コンピューター会社の営業本部長か何かだ。
「おい、聞いたぜ」と彼。
「そうかい」
「ホームページも読んだ。アテはあるのか?」
「はっきりしたものは、ない」
「欧州にこだわってるのか?」
「別に。久々の東京もいいかなと思うし、シンガポールなんて考え方もありだ」
「物書きで食う、ってのは?」
「コストパフォーマンスが悪すぎるんだ、物書きは。儲からない。趣味にとどめ
ておく」
「本を出したじゃないか」
「いかに儲からないか話してやろう。時間はいいのか?」
「ああ。残業してるだけだ」
「まず、日本で毎日発売される本は何タイトルあるか知ってるか?」
「知らん」
「250タイトル。いいか、250冊じゃない」
「すごいな」
「だから年間に返本されて潰される本は1億冊にのぼる」
「なんていうか、それはまあ、日本人の知的水準の高さでもあるな」
「一部のタレント本や便乗本を除いては、一冊の本を作るのには、恐ろしいほど
の人間の汗が流されている。例えば俺のチンケなコラムを集めた新書だって、
1992年から1998年まで、7年間書いたものの集大成だ。二晩徹夜して書
いて出版したような代物ではない。元手はかけた。でも、定価880円の10%
が著者に入るんだけど、刷ったのは5000部で、印税は45万円くらいだ。こ
の出版の打ち合わせでは自腹で日本に飛んだし、ちょっと友人と東京で遊んだだ
けで、すぐ消えた」
「なるほど。今時の45万なら一晩で消えるな」
「だろ? が、筆でこれを稼ぐとなると辛い。だから、まだ、趣味の領域にしてお
くんだ」まあ、生活コストが極端に安い南方に移動して毎日海で泳ぎながらイン
ターネット作家として暮らせばなんとかなるだろうが、まだまだ僕は生臭い仕事
に関わっていたかった。
「わかった。まあ、電話したのは、何人かヘッドハンターを知ってるんだけど
さ、お前だったら、例えば、どっかの外国企業の支社長とかもアリかなと思って
さ」
「そうかな」僕の貧しい想像力はドタバタと動いた。西麻布のガラス張りのオ
フィス。涼しい顔つきの美人秘書。バイリンガルだ。「いやあ、無理だろうぜ」
「欧州企業に十年いて、っていうのはレファレンスとしては悪くないよ」
「そうかな。有り難い言葉だ。履歴書はメールで送るよ」
口調はぶっきらぼうな東京人だが、Aの義侠心がありがたい。嬉しかった。
昼にリエが大英博物館での講義から帰ってきたので、近くのパブでフィッシュ&
チップスを食べた。
彼女、中国は遼の陶器に関して論文を書いた。当時、文弱だった宗は北方の遼に
貢ぎ物をして攻め込まれないようにしていたという。宗は栄え、首都には無数の
外国文化が流入して、女性も男性もお洒落してお茶に興じていたのだ。やがて滅
びるのだが。金をばら撒いている日本に似ていて気になる。
彼女の講義の話を聞いていて、大学生の頃に講演に行った、エジプトのマルクス
哲学者サミール・アミンのことを思い出した。下部構造がどうのこうのという難
しい講演だったが、彼の著作の翻訳者でもある通訳の老人が、感極まって泣き出
したことを良く覚えている。で、前列に陣取っていた眼鏡が可愛いい長い髪の女
の子が質疑応答で立ち上がってマイクを握った。「質問です。早稲田大学政経の
**です。アミンさんの講義は東京で魅了されて京都までついてきました。さ
て、西欧帝国主義諸国の従属、つまり、下部構造としてのアジア・アフリカが
…」
単なる野次馬阿呆学生だった僕は、延々と続く早稲田の女子大生の知性に圧倒さ
れた。あんな女の子は20年後の今、何をやっているのだろう?
まず、下部構造を解放しようとしているとは思えないな。
講演の後でアミンの難しい著作を買った僕も、それは未だに読了していない。
サミール・アミンの名も、とんと耳にしない。
時は無慈悲な忘却炉だ。
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