7時に目覚ましが鳴る。
起きて部屋を点検。
飛ぶ鳥、跡を濁してはいけない。
プールの見える居間が、やはり美しい。ブルーな水と緑の椰子の木、そして南国の
花々。
スーツケースの中を探したらカメラが出てきたので写しておいた。次のマンションに
もプールはあるけれど、シンガポールのような、椰子の木の茂る南国環境は期待でき
ない。寝室や客室や書斎や女中部屋も撮影する。
オーナーが来た。おっかない中華系のオバサンを想像していたら、割と若い感じの美
人だった。
「最後の日にようやくお会いできましたね」と僕。
「本当に」と彼女もニコニコ嬉しそうにしている。「私もここに来るのは二年ぶりで
すわ。いつも色々な国から小切手を送って頂いて」
そうなのだ。家賃を小切手で送る時、僕は大抵、国外にいた。
「特に、テロリストのアタックがあった去年、ニューヨークから小切手が届いた時に
は驚愕しました」
「ああ。そういえば、僕は九月の七日までマンハッタンに居て、シンガポールには帰
らず、台風の渦中、日本に出張した時にあの事件の映像をライブで見ました」
彼女は南妙法蓮経教関係で何回も日本に行っているという。
「でも、創価学会ではありませんよ」とのこと。「シンガポールにいらっしゃる時は
是非御立ち寄りください」と笑顔で言われた。
コンドミニアムの車寄せまで彼女に手伝ってもらいながら、二つの大きなスーツケー
スとオーバーナイトの小さなスーツケースと、手提げ鞄とコンピューターと書類を入
れたスポーツバッグの六つを、よたよたと、待機していたメルセデツに積んだ。
初めて会った女性家主に早くも暇を告げる。
軽装で旅行するので有名な僕(特に真冬のシカゴへ小さなリュック一つでロンドンか
ら飛んできた時に友人Aは呆れていた)が、これほど重装備で移動するのは初めての
ことだ。
運転手がファンキーだった。
「トダさん、電話切ったでしょ? 携帯も不通で、やきもきしたね。この前も連絡つ
かない人がいて、そのまま部屋に行っても連絡取れなくて飛び立ってしまった人がい
てボク空振りだったのよ、だから今日も心配だったね」
彼は日本人贔屓で半年日本語を勉強したという。英語で会話している言葉の端々に日
本語を挿入する。日本の演歌も好きだという。二人で「北国の春」や「星影のワル
ツ」を唸った。彼は本当に歌が好きなのだ、ということが、しみじみとわかった。
切々と歌う。
「テレサ・テンは、本当にいい歌い手だったね。他にいないよ。それでね、テレサ・
テンはシンガポールにきたのよ。僕はまだ当時、一日に、シンガポール・ドルで2ド
ルしか稼いでなかったけど、その屋外コンサートが14ドル、ボクの一週間の稼ぎ
よ。でも行った。良かった。彼女は凄かった」
深い心をもった稀有な歌手がいて、中華圏の多くの人、特に彼のような労働者階級の
人の心を癒したのだな、と知った。
彼は建国の父、リー・クワン・ユーに関しても言及した。
「トダさん(彼は予約していた僕の名前をすぐ覚えた)、建国記念日に出席したこと
は?」
「生憎いつも出張で行きそびれています」
「あれは凄いよ。首相(PM=プライム・ミニスター)のゴー・チョク・トンさんが
現われるとやんやの喝采でしょ。でも、首相が退いて、いよいよSPM(シニア・プ
ライム・ミニスター。上級首相)のリーさんが出てきたら、もう、会場は割れんばか
りでしょ。桁違いですよ。彼はまだ影の首相だし、というか、彼こそが首相の中の首
相だし、彼がノーと言えば誰もイエスと言えないし、彼がイエスと言えば、誰もノー
とは言えないでしょう。彼が他界した時が、この国のピンチでしょう」
この運転手の言葉に、僕が2年間住んだシンガポールは凝縮されているような気がす
る。
僕も思う。リー・クワン・ユーなくしては、この近代国家はなかった。
この国に二年間も住めて良かった。英語が通じるのが良かったが、香港ではそうはい
かない。
機内でトキオの長瀬君主演の「SEOUL」を見た。
感動してしまった。涙が止まらなかった。
長瀬君は、こんな立派な映画に出演できて幸せ者だ。
何でこんなに感動したのかというと、最近、こういう映画が作られていなかったから
だ。
1960年代から70年代の警察映画やフィルム・ノワール(暗黒街映画)にはこう
したテイストのものが山ほどあった。
口下手な男達の友情、というのは懐かしいテーマだ。
韓国人刑事を演じた俳優は渋い。仲代達也、あるいは天地茂の路線だ。
カッコ良すぎる。
監督は日本人だが、アラン・ドロンとチャ-ルス・ブロンソン主演の「さらば友よ」
をちゃんと学習していたようで、煙草に火を点けるシーンを援用していた。
韓国文化の紹介も無理なく配置されていたし、通訳をやっていた韓国人女性警察官は
控えめにコケットで良かった。
とにく、この監督は「わかっている」人なのである。僕は監督を知らないけど、それ
はわかる。
長瀬君は自分のコミカルな役回りを熟知して、それだけに爽快でカッコいい。
この映画、◎です。
ワインを飲んで酔っ払っているうちに香港に着いた。
空港特急で香港島に出て、タクシーに六つの荷物を積んでセントラルはミッド・レベ
ル(半山、と表示されている)の新居に入った。
綺麗だ。が、明らかに、シンガポールよりも狭い。
トイレットペーパーとシャンプーとハンガーが必要なので買出しに出た。
ここはちょっと降りるとバーやカフェが目白押しで、東京ならば、麻布に住んで六本
木に飲みに行く、という感じに近い。
香港上海銀行に口座を作った。
UFJに口座を作るより遥かに簡単だし、インターネット・バンキングも示唆され
た。
日本は遅れているのではないか?
ラン・カイ・フォンなどを散策し、飲み歩く。
シンガポールより、美人は多い。
薄着の携帯美人がラン・カイ・フォンのパブなどに集結している姿を目にした。
街が生きている。
公衆電話から、福岡にいるリエに国際電話した。一日目の感想を語る。
「ねえ、ここって、凄いところかもしれないよ!」
「いやあ、早く行きたいよお」とリエ。
帰宅した。
これは僕にぴったりの街ではないか。
ボジョレーワインを飲みつづけてこれを書いた。
新しい国での、長い一日の終わりに。
ちょっと二日酔いである。
どこの国でも僕の朝はこうやって始まる。
学習効果のない低劣な人間なのである。
自宅から坂道を下るとすぐ、濃厚な中華街もある。
色とりどりの看板の下で、カラフルな野菜や魚屋や肉が並び、ランニング姿の兄さん
が大鉈で肉を切ったり、ホースで水を撒いたり、大型トラックが狭い路地を占領して
搬入したり、中華的なカオスが展開する坂道なのである。これがご近所だとは凄い。
しかも西洋風の居酒屋や喫茶店も隣り合っている。これぞ香港、高い家賃では、こう
したアトラクションも含まれているのだ。
中華屋の一つで朝食を食べたが不味い。インチキ西洋風ブレックファストだった。途
中下車。
隣り合ったアイリッシュパブで迎え酒する。
中環(セントラル)駅まで歩き、シュミレーションで九龍のオフィスまで出向く。
チム・サー・チョイ駅で降りてオフィスに行くも、鍵が掛かっていた。ピン・ナン
バーは知っていて空いたのだが、物理的な鍵も掛かっていた。
諦めて長州の麺料理を食べた。まあまあ。物足りないので韓国料理を食す。これは旨
かった。
早起きしてオーバーナイトのスーツケースに荷物を詰め込み、バッグ二個と一緒に香
港島はセントラルの自宅から、がらがらと延々と続くエスカレーターを降りてMTR
(地下鉄)セントラル駅からチム・サー・チョイ駅まで行く。ガラガラ引き摺って4
5分、オフィスに辿り付いた。タクシーで着ても良かったのだが、エスカレーターと
MTRを体感したかったのだ。
金曜日に発生したトラブルを解決するために午後、東京に飛ばなければならない。
香港のアシスタントK嬢にチケット手配を頼む。ついでにキャセイのメンバーになっ
た。シンガポール航空を使う機会は減るだろう。
シンガポール本社からIS局のPが出張してきて僕のPCを接続し、シンガポールの
データーを香港に移行している。かなり時間がかかると思う。
定例のテレビ会議でシンガポールと話し合う。
英国人の上級副社長Cともテレビ電話で話す。明日、互いにシンガポールと香港から
東京で落ち合ってトラブル・シューティング活動をする件だ。
その後も同じテレビ会議画面で会議。
お昼までかかった。
IS局のPや香港の支社長秘書SとアシスタントK嬢とで飲茶(ヤムチャ)した。
戻って準備して空港に向かう。
タクシーで空港エクスプレス線の九龍駅へ行き、列車で空港入り。16:00のキャ
セイで成田に向かった。
夜の9時半には到着するが、都内に入ってチェックインして着替えてT社に行くと1
1時をまわっていた。
N社長とN副社長と事態収拾の方策を相談していると午前1時になってしまった。
東京。
上級副社長の英国人Cから携帯に電話。京成スカイライナーからだ。
「駅に迎えに行く」
「助かる」
N社長とCを出迎えてT社の会議室に詰める。今回はプロの通訳がいないので僕がや
るしかない。
ホワイトボードに今までの経緯を図解して対策も話す。それを受けてCはシンガポー
ルやマニラの関係者に電話していくつか確認する。それが終わって広告代理店と落ち
合って打ち合わせ、広告主と面談。
要は英国人の上級副社長がシンガポール本社から謝罪に駆けつけるという企業の姿勢
である。
事後の打ち合わせと別件の商談などを経て、Cはシンガポールにトンボかえりする。
「7時間飛行機に乗って7時間日本に居て7時間飛行機に乗ってシンガポールに戻る
のさ」と彼は自嘲していた。気の毒だが仕方ない。
業務終了後、僕はホテルでシャワーを浴び、カジュアルに着替えて酒屋で大量にビー
ルを購入し、T社視聴覚室の大画面テレビでW杯サッカーの日本VSベルギーを観戦
した。
前半、日本が押され気味で、いらいらした僕は「君達は、小人の国の幼稚園児か!」
と罵倒してしまった。非常に動きが鈍くてドテドテ走っている。数日前のトルコとイ
タリアのような冴えた動きとは段違いだ。
特に、ベルギーが日本のゴール前に並ぶと、その身長の違いから、非常に冷や冷やす
る。ヘッディングではとても敵わない。
しかし、罵倒して御免、後半の日本は素晴らしかった。
一点先取された時はもう僕は、もう1998年と同じなのかと絶望した。三敗だろ
う、と。あの時、ジャマイカにだけは勝てると言われ、僕はロンドンの友人Tさんが
手配してくれたチケットでフランスのリヨンまで足を伸ばして観戦したのだ。反対側
のゴール裏から中山のシュートは見たが、試合は負けた。あの失望感が蘇った。
が、今回はまず、鈴木のシュート!
T社員一同と飛び上がって喜んだ。僕もくるくる回って踊った。
そして稲本の豪快なシュート!
逆転だ。こんなカッコいいことが日本に出来るなんて。目が覚めた。
日本中が揺れていた。
が、また巨人ベルギーがろくでもないぽてんぽてんボールをゴールに入れた。
時間がない。
が、最後に稲本が鮮やかに数人抜いてゴールした。信じられないほどの冴えを見せ
て。が、これにはホイッスルが鳴って得点とならず、結局同点で終了した。
残念だったが、嬉しかった。
1998年の日本とは明らかに違う。積極性がいい。
この後の韓国の対ポーランド戦はもっと強烈だった。韓国が揺れている。
2002年のワールドカップはようやく面白くなってきた。
東京。
立ち食い蕎麦で掻揚げ蕎麦を食べて9時出社。
残務処理の後に広告主と再面談。
最近は携帯とインターネットがあれば地球の何処にいても仕事は出来る時代だ。シン
ガポールにいるのと香港にいるのと東京にいるのと特に何も変わらない。
明日は休みを取ってリエの実家、福岡に行くことにする。インターネットでスカイ
マートを購入。
今日は東京から福岡への往復だ。
朝5時半に起きる。
シャワーを浴びてスーツに着替えてホテルを6時には出る。
JR御徒町駅から品川に出て京急で羽田へ(400円)。
京急から出る時にモノレールの料金を確認すると470円だった。
どちらの方が早いのか。値段は70円しか変わらない。帰りはモノレールで帰ろう。
7:50発の福岡行きに乗る。
スカイマークのスチュワーデスは若くて初々しくてJALやANAの、ふてぶてしい
オバサン軍団よりよほどいい。マックと変わらない時給で働いているだのなんだのと
言われているが、乗客には感じの良いサービスで運賃が安ければそっちの方がいい。
往復で3万1500円である。
9:40には福岡に着いた。リエは迎えに来ると言っていたが、寝坊なので無理だと
思う。案の定、ゲートの外には誰もいない。
地下鉄でリエの実家に出向く。
彼女はパジャマで出てきた。すっかりリラックスした顔だ。
義母が刺身や豆腐を出してくれて朝からビールで雑談。
もう12時に近くなる。
リエが見たい映画があるというので天神に出る。
フランスの記録映画「エトワール」を見た。
引越しなどが続いた連日の疲れからちょっと眠りに落ちたが、面白い映画だった。
ちょうど日本の歌舞伎の世界のように、パリのオペラ座には厳格な練習と格式と序列
があって、バレエ学校新卒のカドリーユから団員(所属するダンサーは150人もい
る)となり、コリフエ、スジェ(ソリスト)、プレミエール・ダンズール(プリンシ
パル)と登っていった頂点にこの「エトワール(星)」という存在、スターがいるの
である。しかも、このスターになるには、試験だけではなくて、芸術監督の推薦とオ
ペラ座総裁の任命が必要なのだ。
しかし、そのスターも女性は40歳、男性は45歳で引退し、年金受給者となる。こ
こで練習を一気に止めると、筋肉が収縮し、体を支えられなくなるのだ、と出演した
元女性バレリーナは証言していた。引退する女性エトワールの姿も映し出される。競
争の中で友達もなく、パートナーもいない彼女、「これからどうしたらいいのかし
ら」と途方に暮れていた。
さて、映画館を出ると2時過ぎ。恒例の「一蘭」でラーメンを食べた。
リエによると、福岡の老舗百貨店が次々に潰れたという。
僕が以前足を運んだ「ニュー・ブランド・ビルディング」も潰れたようだ。
2000年1月の日記(http://toda.rengo.net/y2k-diari/1-3jan2000.html)から
引用してみよう。
「福岡滞在中に、ニュー・ブランド・ビルディングとかいう冗談のようなものがあっ
た。グッチ、ヴィトン、フェラガモとかブランド店が大きなビルに詰まっているのだ
が、これ当然、客がいない。店員の方が多い。上階にレストランがあるのだが、これ
もガラガラ。近所の床屋で髪を切ってもらって話を聞くと、このビル企画、お役所主
導で初期投下された300億円さえ回収できてないという。ブランド側も遊びでやっ
てるわけではないから次々引き上げていくだろう。或いは居ついてもらおうと、テナ
ント料を棒引きしているのかもしれない。 詳しい事は知らないが、一目見ただけで
異常なビルだ。県民よ怒れ。日本中、バブルの名残のこんな建物や駅ビルや会議場や
博物館ばかりあるが、金融機関への公的資金投入共々、最後は国民が払う。小渕首相
が組んだ84兆円の国債もそう。国民は厳しくチェックすべし」
食後はすぐ隣の喫茶店で僕はモカ、リエはウィーンナ・コーヒーを飲む。大して旨く
ない。
丸善で書籍を渉猟。
地下鉄で帰って、リエの母の手料理を堪能。義父も加わり、酒宴となるも、20:0
0でタイムアウト。
地下鉄で福岡空港に向かい、リエに手を振って別れてから、スカイマークの21:0
0発の便で羽田へ向かう。何だか毎日どこかへ飛んでいる。慌しい。時々、朝、起き
て、(さあ、早く空港に向かって次の国に向かわなくては!)と寝ぼけて起き上が
り、実は自宅のベッドの週末だったりするのだ。
22:30には羽田に着き、今度はモノレールで浜松町に行き、JRで御徒町へ、そ
してT社に23:30にお邪魔して午前1時まで打ち合わせた。
彼らはまだ残業していたが、僕はホテルに引き上げた。
明日はまた次の国だ。
今日は東京から香港だ。
午前6時には起きて準備し、7時にチェックインしてホテルを出る。タクシーで京成
上野に行き、7:18発スカイライナーで成田へ。
チェックインして本屋を覗き、寿司を食べて酒を飲み、キャセイで香港へ飛んだ。
ワインを飲んで読書して眠る。機内で村上龍と中田英寿の「文体とパスの精度」を読
了。〇。中田の魅力で読ませる。
香港に着陸。空港エクスプレスで九龍駅まで行き、タクシーを拾って香港オフィスに
出社。
一つ成約があることをシンガポールに報告。
アメリカ人と中国人のハーフで、外見は全くの白人男性である新人Kが挨拶に来る。
マーケティング担当、中華系マレーシア人のC嬢も挨拶に来る。彼女の夫は英国人。
今、北海道に行ってW杯のイングランドを応援しているという。と聞くと労働者階級
かと思うだろうが、印ハウスの弁護士だという。
事務所長の香港チャイニーズCも来た。「6時に飲みに行こう」とのこと。彼はマッ
キンゼーに在籍していた時に大前研一とマレーシアの電脳プロジェクトに関わってい
た。
どたばたしているうちにタイムアウト、C嬢とKとC所長と四人で近くのパブに行く
が、超満員。イングランドVSアルゼンチンという遺恨試合があるからだ、数件目に
入った。
ここも試合前には一杯となった。ベッカムのPKが決まった。
やがて三々五々に散る。
僕はオフィスに戻って整理してからスーツケースを持って地下鉄とエスカレーターを
利用して帰宅した。いつもいつも移動している。
ジプシーのようだ。
ベッドで読書。
Y2K 2000年日記 月別インデックス