戸田光太郎の21世紀的香港日記 2002年

2002年6月28日〜30日


2002年
6月28日(金)

7時半には起きてとジョギング・スタイルで8時に家を出る。延々とエスカレー
ターを降りてMTR駅に潜り、地下鉄で出勤し、自室でスーツに着替える。
午前中、タイクーシン当たりの会社でミーティング。
昼はその辺りの日本食屋で豚カツを食べた。日本人の客が多い。カジュアルな格
好とシャツにネクタイの勤め人集団や子供連れの主婦。
「あたしはねえ、自分の子供は可愛いわよ、亭主だって、自分のは別と思いたいわ
けじゃない? でもね、それじゃいけないと思うのよ」
「そうそうそう。あたしね、子供が、あれが欲しいとか、お友達に突き飛ばされた
りしても、それは見て見ぬふりで、そのくらいわいいと思うのよ。それを目くじ
らたてて暴力だとか言うのは変でしょ」
なんてことを、動き回る子供を片目で見ながら延々と喋っている。
リエは、こういう奥様の世界に入るのはカッタルイだろうな、と思う。
食後はオフィスに戻って残務処理。シンガポール本部から英国人のボスから連絡
が入っている。折り返したが今度は彼がいない。
東京と来週の日本出張の件などをやりとりしているうちにリエから電話。ガスが
入ってようやくお湯が出るようになったという。キャセイのチケットを拾いに九
龍島側に来るという。
18:00過ぎにリエが到着したので会社の近くで落ち合って中華料理を食べ
た。鱶鰭スープ、とカシューナッツとチキンの炒め物、と蟹肉トロミのアスパラ
と餅米ご飯。旨い。満腹で何も入らないと言いながら、リエは昨日食べた亀の甲
羅のゼリーを注文しようとする。この店にはなかった。フルーツの盛り合わせを
注文し、結局、彼女はたいらげた。
僕はオフィスに戻り、残務処理をした。オフィスには誰もいない。その間、リエ
にはジャスミン・ティーを煎れて待ってもらった。
ファッション・ビルを通り抜けてスター・フェリー乗り場に向かう。途中、リエ
がサマー・ドレスに夢中になって、せがむ。スーラの点描画みたいな模様のドレ
スだ。シンガポールから香港に引っ越す時に我々がどれだけ衣類を捨てたか彼女
に念押ししてから、それでも欲しいというので買う。
ファッション・ビルの冷房の外に出ると、九龍島の突端から香港島の摩天楼が輝
いていて、やはり、これは美しい。フェリー乗り場までの古風な建物が旅情をか
きたてる。
フェリーが到着すると香港側からの乗客が、我々の待機しているのとは逆側から
下船し、それが終了する間際に我々の側の鉄紋が開き、乗船できるようになる。
リエと僕はまだまだツーリスト気分なのでフェリー先端の席に陣取る。
「あの辺が」と僕は香港島のきらめくビル群の上方を指差した。「ミッド・レベル、
半山、の、僕の家」
「そうよね。不思議ねえ」
全く不思議だ。
彼女が英国航空の制服を着ている時にロンドンと大阪を飛ぶ飛行機の中で会って
から、色々修羅場をくぐって結婚し、ロンドンのカムデン・タウンというワイル
ドな街で生活を始め、メーダ・ヴェイルという小洒落た街に引越し、どたばたと
シンガポールに移り、あっという間の2年間が過ぎて、この香港という大都会に
住んでいる。
僕は自分の親が外交官でも企業の駐在員でもなかったから、この流れは容易では
なかったけれど、父親は英語教師だったこともある新聞社務めの人間で、彼は東
京外語卒で英語もスペイン語も学んだし、母は、大学は出ていないものの、日米
外語学院で著名な五十嵐先生の薫陶を受けているし、中国語を学んで貿易会社に
勤めて天津に3年間駐在していたので、英語と中国語は流暢だ。
それを考慮すると、決して恵まれていない環境ではない。
父はスペイン語と英語、母は中国語と英語、妻のリエはペルシャ語と英語が出来
るのだから、英語だけの僕は、いかにも分が悪い。
摩天楼の輝き、180度のパノラマが近付き、我々のフェリーは香港島に着い
た。
下船してまっすぐ歩いてまら右に折れて階段を登り、渡り廊下を歩いて国際金融
中心(中心というのは英語のセンターなので、インターナショナル・フィナン
シャル・センター、IFC)のビルを抜けて世界最長エスカレーターに乗る。
途中、今まで行きつけだったバー「BARCO」にリエを同伴した。
僕はベルギーの白ビールを飲み、リエはブラディー・マリーを飲む。
帰宅。
僕はワインを飲みながら本を整理する。

6月29日(土)

起きてから、「スタンレー(赤柱)に行こうよ」とリエに言う。
「え?」とリエ。「いいわねえ」
着替えてからエスカレーターを降り、途中スターバックスでコーヒー・オブ・
ザ・デイを飲んで、再びエスカレーターを降りて国際金融中心(インター・ナ
ショナル・フィナンシャル・センター)向かいのバス停からスタンレー行きに
乗った。ロンドンと同じ二階建てバスの二階の正面にリエと並び、オノボリさん
状態である。香港島を横切るバスツアーは楽しかった。
長身の摩天楼から突き出す巨大でケバケバしい袖看板を潜るようにバスは突き進
んでいく。
やがて海沿いの道になり、巨木の大きな枝を潜るこの光景は南仏に近いものがあ
る。なかなかのものだ。「慕情」の舞台となったというレベルスベイもいい。
スタンレーに到着する。少々歩き回った。2年前に来てから随分と様子が変わっ
た。
スタンレー・プラザ前に植民地時代の立派な建物が出来ていた。美術館とレスト
ランになっている。二階の海側に「エル・シド」というスペイン料理店があるの
で、そこのバルコニーで潮風に吹かれながら昼食した。チェーン店のようだが、
なかなか本格的なタパスを出す。サングリアもスペインで飲んだものと一緒。
シンガポールのイーストコーストと違ってタンカー群がない海なので、リゾート
気分に浸れる。
リエもご機嫌だった。
コーヒーを飲んで、ツーリスティックな店をひやかしてからバスで帰途につく。
帰りは30分でセントラルに着いた。
ザ・ランドマークというショッピングモールの「マックス・マーラー」でリエに
トップスを買ってあげる。
エスカレーターで帰る。
夕方、行きつけのBARCOでリエはブラディー・マリー、僕はベルギーの白
ビールを飲み、W杯の韓国戦をそこそこ見てから店を出てタクシーを拾い、ス
ターフェリーの船着場まで行き、九龍島へ向かった。
リエがショッピングしている間、僕はオフィスに出て明日からの東京出張の準備
をして戻ってくる。
大衆中華食堂で軽く夕食してスターフェリーで香港島に戻った。こちらからの夜
景は特に美しい。
船着場でタクシーを拾って帰宅。
動き回ったので疲れたが、楽しく盛り沢山の一日だった。
僕は明日の荷造りを終えるが、リエは明日の朝やると言って就寝した。

6月30日(日)

6時半にはリエを起こす。パッキングしろ、と。
僕は少々うとうとしてから身支度し、自宅前からタクシーを拾って空港エクスプ
レスの香港島駅でバッグをチェックインして列車に乗った。
20分ほどで空港に着く。
スターバックスでコーヒーを飲んでから彼女はシンガポールへ、僕は東京へ向
かって飛んだ。
赤ワインを飲んでうとうとすると東京だった。
14:45になっていた。
JRエクスプレスの接続が悪くて、このまま小さいながらもスーツケースを引き
摺って向かうにしても次の列車では16:37に新宿着となってしまう。新宿の
ホテルでカクテルの集いには間に合わず、横浜行きのチャターバスは16:30
に出てしまうはずだ。
W杯ファイナルに招待してくださったシンガポール在住のTさんの、東京の携帯
に電話する。
「新宿が16:37ですか。じゃあ、運転手さんと打ち合わせて戸田さんを拾うよ
うにしますから、新宿に近付いたらまた電話ください」
東京を抜けて新宿に着く前にまたTさんの携帯に電話する。
「もうすぐ新宿です」
「あのですね、京王デパートの前にリムジン・バス乗り場があるので、その辺で
待っていてください」
「了解です」
僕は人ごみの中スーツケースを引き摺って、無事、京王デパート前でミニバスに
拾われた。
Tさんの他にはスポーツ専門局のオーストラリア人二人とシンガポール人二人が
乗っていた。
延々と横浜まで走り、バスを駐車してからも横浜スタジアムはすぐそこに見える
のというのに、いくら歩いても到着できない。道端には黄色いブラジルのユニ
フォームを着たサポーターで埋め尽くされており、彼らの叩く太鼓や笛、歓声
で、気分はどんどん盛り上がっていく。小一時間は歩いてスタジアムに着いたの
が、キックオフの1時間前くらいだ。巨大なスタジアムの観衆に、とりわけシン
ガポールから来た二人は圧倒され、大喜びだった。
僕は長蛇の列から「一人一杯まで」という紙コップのビールを飲んだ。
天皇皇后と金大中大統領夫妻が貴賓席に来て、小泉首相がフィールドで選手と握
手をした。
アナスターシャが派手に歌った。
ホイッスル。試合開始。観客がどよめく。横浜スタジアムの巨大な空間が揺れる
感じの音響だ。
9割がブラジルのサポーターで、観客席は黄色に染まっている。
後に約7万人だと表示された。
試合は全世界の人が見た通り、2対0でドイツの負け。
前半、ドイツの動きのシャープなことには舌を巻いた。テレビで観るのとはリア
ルな距離感が違う。ボールの行方や選手の肉体の揺れが総合的に感じられる。
ロナウドのプレーは鮮やかだったが、カーンの悲嘆振り、その背中が印象的だっ
た。僕は途中からTさんとドイツを応援していた。
試合終了。
空から銀の紙片、そして色々な色の折鶴が無数に降ってきた。両手を広げるとす
ぐ折鶴のカラフルな山が出来てしまう。これがスタジオ全体に降っている光景は
圧巻だった。
花火がなかったのは残念だ。折鶴に引火するから危険だったのか。
僕は袋一杯折鶴をお土産とした。折り紙にはFIFAのロゴが入っているし、子
供達が折った、と聞いたからだ。
スタジアムから脱出するのは非常に骨が折れ、時間が掛かった。雨が降ってき
た。
夜道は混んでいて長い。我々はへとへとになった。
ようやくバスに辿り付き、池之端のホテルにチェックイン出来たのが真夜中の
12時半だった。
僕はレセプションでサインだけして、荷物は部屋に運ぶよう頼み、Tさんと一緒
に上野駅に出来た博多名物「一蘭」のラーメンを食べた。
「美味しいですね、これ」とTさん。
もう午前一時を回っていたが、僕は彼とフィリピン・クラブ「サイドカーA」に
行ってみた。日曜日なので閉店だ。そこで客引きの青年に誘われるまま、その店
で午前四時まで飲んだ。Tさんは明日シンガポールに帰国するだけだが、僕は朝
9時から仕事なので、ようやく部屋に入ってバスタブに浸かってテレビを見なが
ら寝た。午前五時だった。長い一日である。





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