戸田光太郎の2000年日記
- 2000年3月11日
2000年
3月11日(土)
- まただ。自業自得。変則的な時間に寝たのでずっと眠れず、起きだして6時に日
の出を見た。
見事に真っ赤だった。椰子の木の上に登ってくる。
浜の端まで歩いて隣りのリゾート施設を歩く。
隣りの立派なリゾート・ホテルまでの道が開発の余波で汚濁している。隣りのホテ
ルの正面から見る光景は立派なプールとその向こうの椰子の木と浜と海という
ゴージャスな光景だが、その舞台裏がこの汚濁なのだな、と思う。
散歩して戻ってもまだ6:40。
朝食のスタートする7:30にはまだほど遠い。
バンガローに戻り、テレビを見る。
ニュースチャンネル・アジアというのがやはり面白い。欧州で見るニュースとセレ
クションが全く違うのだ。
シンガポールの英字新聞「The Straits Times」を読む。この新聞記事によると、タ
イでは質の良い英語教師が払底していて社会問題となっているそうだ。教師は給
料が低く、なり手が少ない。英語の出来る人間は教師にならず、もっと割の良い
仕事に就くからだ。タイ政府は、インターネットなど、グローバル化に乗り遅れ
ることを危惧している、云々。
この新聞はタイやマレーシアなど周辺諸国の国情を報道していてためになる。
邦人新聞を経営するNさんの言うように、自国のことを書く時だけは検閲される
のだろうが。
おっと7:30を過ぎた。バー・レストランに行く。
おやおや。西洋風の朝食だった。それは宿泊料に組み込まれているというが、食
べる気になれない。キャンセルしてインドネシア風焼き蕎麦とオリエンタル・オム
レツを注文してビールをジョッキで2杯飲んだ。
いい気分だ。
バンガローに戻って歯を磨いていると眠くなった。
食べて、眠る。
これでは動物園の虎である。鬣の艶が失われていく。でも眠い。シャワーを浴び
て、寝た。
起きると午後一時半である。何という生活。勤勉な日本人として、こんなダラダ
ラした南国生活を送っていいのだろうか?
それで、いいのだ。(TM.赤塚不二雄)。
バンガローを出て、寝ぼけ顔のまま、クラブハウスに行って皆に挨拶したら、
(寝てたの?)と笑われた。
ほっとけ。
浜に出ると海が輝いている。
デスクでボディー・ボードを借り、ロープの先のリストバンドを左手首に巻いて波
を待った。
浜の感じはちょうど中学高校と過ごした逗子海岸に似ている。
あの頃はうまかったのに(記憶の中では。真実は謎だ)、もう、てんで駄目であ
る。いくつもの良い波に乗り損ねた。
まだ3月だが、4月から9月にかけては海も澄んでシュノーケリングに適してく
るという。次回はシュノーケル・フリークのリエと4月に来よう。
浜に上がると屋台が来ていた。
インドネシアのラーメン、「ソト・アヤム」を食べた。鶏肉と様々な香草。味わい深
いスープ。これは旨い。今回、色々と食べたアジア飯の中ではピカ一だった。こ
れでS$5。約300円だが、インドネシアの物価から言ったら高い。次回は僕
にだけ負けてくれ、と頼む。
すっかり腹が暖まる。
バンガローに戻って水着を洗ってバルコニーの手すりに干していて、二人の小さ
な娘を連れた隣りのバンガローに滞在している黒髪ショートヘアの白人女性と挨
拶して言葉を交わした。発音で、すぐイギリス人と察しが付いた。「英国人です
ね?」
「ええ。でも、シンガポールの住人ですわ、今は。あなたは?」
「僕は日本人だけどロンドンに住んでいて、シンガポールに移住しようと考えてい
ます。シンガポールにはどれくらいいらっしゃるのですか?」
「まだ1年ほどです。もう、そろそろいいかな、って感じ」
「なるほど。退屈なところ、っていう人も多いですね」
「退屈っていうのもそうかもしれないけど、私達、もう英国を離れて8年になるの
ね。シンガポールに移る前は、ずっとジャワにいたの。ジャカルタは汚くて、シ
ンガポールみたいではないんだけど…なんていうか……」
「Lively(活気がある)?」
「そうそう。そうなの」
シンガポールは清潔なのでアジアのスイスとも呼ばれるし、イスラム教徒の国に
囲まれていることからもアジアのイスラエルと呼ばれることを今回の旅で知っ
た。「確かにイギリスはスイスに比べれば汚い国ですが、活気はある」
「そうなの。ロンドンには色々と楽しみがあるし。独身?」
「いや」と僕は左手の薬指を見せた。
「独身か若いカップルならロンドンは最高ね」
「香港とシンガポールではどちらが好きです?」上級副社長Cは最初に赴任した香
港は刺激的で大好きだと言っていた。副社長Sは子供がいるのでシンガポールが
望ましい、と言った。
「香港は駄目ね。子供たちがいるから。あそこは忙し過ぎるわ」
「僕も今、ロンドンからシンガポールに移る話があって生活コストが問題なんで
す」
「税引き後ポケットにいくら残るかが問題ね」
「シンガポールは映画などの検閲が厳しいと聞いていますが?」
「映画などもズタズタ」
「CNNなどの衛星放送は大丈夫でしょう?」
「いいえ。衛星からの直接受信ではないの。ケーブルだから放映するまで時差が
あって、そこで編集されるわけ」
なるほど。
彼女に挨拶して、バー・レストランに行く。
近所のクラブ・メッドのスタッフが数名遊びに来ていた。言葉を交わす。
僕はクラブ・メッドをタイのプーケット島とフランスのアルプスとポルトガルの
ファロで利用したことがある。
日本人女性とインドネシア人女性とインドネシア人男性の三人が僕のテーブルに
移ってきて話した。
彼女が日本語で話したがっているので僕は日英チャンポンの逐語訳で話す。
世界各国のクラブ・メッドで移動は1年くらいで常時起きているのだという。希望
地というのは基本的に受け入れられない。スタッフは常時募集されている。もう
十年以上も続けている家族者や夫婦者もいる。老後はどうなるのだろう?
ボスの「引き」で赴任地が決まることもあるそうだ。
日本人の彼女はプーケットのクラブ・メッドに93年に顧客として行ったのがきっ
かけだったという。エアロビの先生をやっていたのが、東京のクラブ・メッドの面
接を受けて入り、今に至る。「今晩のパーティーに来ませんか?」と誘われる。
毎年世界のリゾートを渡り歩く、というのは凄い人生だ。
行く先々で恋に落ちて、毎日がパーティーで。僕も20代だったら、やってもよ
かったかもしれない。性格的には非常に適していると思う。
バンガローで午睡する。
目覚めるとマナマナでもパーティーが始まっていた。
バーカウンターで隣りになった白人青年と話す。彼らは三人組みだ。アイルラン
ド人ギャビンとマイクと、イギリス人のニール。
眼鏡で痩身のギャビンはシンガポールに6カ月いて、数週間前に少々太目のマイ
クが加わった。二人とも船会社の管理者トレーニング部門にいる。ニールは二人
の友人で、たまたまこちらに旅行してきて三人でビンタン島にリゾートに来たの
だった。
シンガポールの長いギャビンに検閲について聞いてみた。
「検閲がどうのと騒ぐ輩が多いけど、主に編集されているのは裸とかセックスとか
変態とか、別に見たいとは思わないものだけだし、特別の変態でセックスなしで
はいられない人には都合が悪いだろうけど、そんな人を除いて、普通の人には痛
くも痒くもない範囲だよ」
「なるほど、過剰な暴力や性描写には辟易しているのだな、先進国の民としては」
「あとさ、シンガポールと聞くだけで普通の英国人は、『ああ、チューインガムが
販売禁止の、あの不自由な後進国ね』みたいな言い方をするけど、あのイギリス
の旧弊な木製の地下鉄の床についている我慢ならないチューインガムと、シンガ
ポールのピカピカに綺麗で近代的な地下鉄を比べてごらんよ、どっちが後進国だ
い?」
ギャビンに船会社の概要を説明してもらった。
本社はスコットランドでアジアの各地に支店がある。日本には支店が四つある。
が、日本だけには英国人マネージャーがいない。
オペレーションが余りに上手くいっているので必要なにのだという。数年前に英
国人マネージャーが送られてきたが、半年ほどブラブラしていて何もする事がな
くて、それでも日本人だけでビジネスはスムーズに展開したので、帰国してしま
い、以来、やはり日本は独自のやり方に委ねているというのだ。その他のアジア
各支店に赴任するマネージャーを即位戦力として教育するのがギャビンやマイク
の仕事だ。
ギャビンが言うにはシッピング業界は下降している。昔は大いに栄えてスコット
ランド本社は何隻もの貿易船を保有していた。今は一隻もない。シッピング業務
管理だけに特化しているのだ。
ただしこの業界は人が移動しない。勤続25年という人はざらだという。同じ英
国でもテレビ業界とは違うな。テレビや他のメディアや広告業界では平均3年ほ
どで皆移動する。
僕はまたバンガローに戻って休んだ。
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