朝6時半には起きて7時には部屋を出てタクシーで空港エクスプレス香港島駅へ。荷
物をチェックインしようとするが、7時を過ぎたので駅からのチェックインでは間に
合わないと言われた。そのままゲートまでオーバーナイト小型スーツケースをガタガ
タ引き摺り、機内へ。
住んでいたコンドミニアムから空港まで30分で行けたシンガポールに比べると簡単
ではなくなったが、それでも成田や関空よりはずっと楽だ。
睡眠不足なので機内では寝ていた。
香港からの台北は、ロンドンから飛ぶパリ、という感覚だ。近い。
10:15には台北に着く。
空港のトイレでスーツに着替え、空港ハイアーをチャーターして台北市松江の会社で
11:30にはミーティング。
その後で定宿のファー・イースタン・プラザ・ホテルにチェックイン。
素早くシャワーを浴び、コンシェルジュにてアルファベットで書いてあった僕の予定
表の住所を全て漢字に直してもらう。漢字表記でないと台湾のタクシー運転手は理解
してくれないのだ。
系列テレビ局の台湾オフィスに出向く。
が、誰も居ない。明日の音楽祭でどたばたと出払っているのだろう。
今回のアレンジメントを頼んでいるV女史の席に行き、彼女の携帯に電話する。
「戸田さん、VIPチケットは5枚用意しておいたの。御免、机の上、ぐちゃぐちゃ
でしょ。忙しくて。ちょっと近くの誰か捕まえてくれない」
英語と日本語しか喋れない僕らの会話は英語だ。僕は自分の携帯を制作部らしい台湾
女性に渡してV女史と直接話してもらった。
僕の携帯を持った女性は台湾語を喋りながらV女史の席に行って、携帯を切って机の
上を物色しながら僕に携帯を返した。V女史の机の電話が鳴った。物色女性が電話を
取るとV女史からなのだろう、台湾語で喋りながら机の上を渉猟して、ようやく封筒
を見つけた。
「TODA−SAN」と書いてあり、VIPチケットが5枚入っていた。
オフィスの外でタクシーを拾って13:30の台北市中山北路でミーティング。
相手は日本語と英語の出来る台湾女性Cで、英語と日本語チャンポンで説明。
明日のコンサートには行きたい、とのことでVIPチケットを一枚あげる。
ウェスティン・ホテルの某社コンフェレンスに駆けつける。
残りのチケットは台湾在のTさんに渡す。
17:00にはもう一つのミーティング。
夜は林森で明け方まで飲んだ。
遅くまで寝ていた。二日酔いになるほど飲まなかったのは幸いだ。
昼にホテルの近所を歩いていてカフェのような店の一つに近付いた。イタリアンを出
すようだ。
席について英語でメニューを頼もうとしていると従業員の一人が日本語で、
「メニューにないものもいろいろあります」と言った。台湾には日本語が旨い人が多
い。英語は駄目だが日本語はOKという人も多い。
「日本語うまいですね」と僕は言った。
「一応、パスポートは赤いの持ってますから」と彼女。
なんと、日本人だったのだ。水前寺清子のようなボーイッシュなタイプの女性で、僕
が高校生の時に好きになったボーイッシュな女の子に似ていた。名前は忘れた彼女、
我が母校、追浜高校に横須賀から通っていて、一度、横須賀のディスコに誘ってくれ
た。
「今エンプラがいないから空いてるよ」と彼女は言った。多分、1974年だと思
う。ヴェトナム戦争が終わったのが、1975年だから、その直前だ。エンプラは天
麩羅ではない。エンター・プライズという軍艦の略称で、これが横須賀に寄航してい
ないということは米兵が少なくて、「溝板(どぶいた)」通りのディスコも空いてい
るだろう、と横須賀っ子の彼女は言ったのだ。そして彼女は飲み物を注文した。「バ
イオレット・フィズ」
当時は、酒もろくに飲んだことがなかったから、彼女の自然な注文の仕方には驚い
た。バイオレット・フィズ、という謎めいたカクテルも柔らかい脳細胞に刻印され
た。今や海千山千となってしまった僕には、バイオレット・フィズのような子供向け
のジュースは飲めないが。あれから四半世紀の時が流れ、僕はまだ酒と薔薇の日々
だ。
「取り敢えず、グラスできりっと冷えた白をください」と2002年に戻った僕は水
前寺清子に言った。
「シャルドネと…」彼女は色々な銘柄を立て板に水で口にした。
僕はシャルドネを頼んだ。
「前菜は何が宜しいですか? 今お召し上がりになりたいものがありましたら、おっ
しゃってください。魚介類がいいのか、生ハム系か」
「特にこれが、というのはないので、旨いところをちょろちょろとお願いします」
「かしこまりました」彼女は空調を修理にきていたエンジニアに中国語で話し、厨房
に中国語で注文し、日本人女性オーナーに日本語で話し掛けていた。対したものだ。
アペリチフはトマトにフェタチーズとバジルを載せたサラダ、蛤と香草、イタリア
ン・オムレツ、パンに香ばしいチーズが溶け焦げたもので、これだけでお腹一杯に
なったが、彼女が「パスタはどうなさいます?」と聞いた時には、
「カルボナーラをください」と答えていた。僕はカルボナーラ評論家である。
「カルボナーラは普通のベーコンのものがいいですか、それとも帆立とアスパラのも
のがいいですか?」
「帆立とアスパラのカルボナーラなんて初めてだな」そもそもカルボナーラというイ
タリア語はどういう意味なのだろう? 確か乳製品をソースにすればカルボナーラな
ので、ベーコンでなくてもいいのだ。「それにします。で、ガーリックは多目に」
水前寺清子はにこやかに注文を厨房に伝えた。
帆立とアスパラのカルボナーラは旨かった。これを食べた僕にはもうドルチェ(甘
味。デザート)の余地はなく、ダブル・エスプレッソで仕上げてホテルに帰った。
と、スーツ以外にカジュアルで気の利いたものを持っていなかったので、ホテルと繋
がっている隣のモールで長袖TシャツみたいなものをJOYCEで買った。バーゲン
だが少々高い。
少し休んでから買ったばかりのTシャツを着てCITY HALL(台北市庁舎)へ
向かう。ワーナー・ヴィレッジや三越のある立派な区域だ。CITY HALLの真
ん前にはステージが設えられ、若者が三々五々集まっている。だけど、まだまだ陽射
しは強く、蒸し暑い。
CITY HALL前のテントで台湾の姉妹局で働く顔見知りのスタッフ数名に会っ
た。
こちらの社長、Sがいた。彼とは去年、テロ攻撃前のニューヨークで苦労した仲間で
もある。
「TODAさん、皆、ステージ裏の台北市庁舎にいますよ」
「スタッフ・パスをください」僕は「工作員(=スタッフ。スパイではない)」と書
かれたパスを首から下げて楽屋となっている台北市庁舎に回った。市庁の職員が警備
に当たっている。スターや若者の集まるイベントなので、年配の職員もなんとなく嬉
しそうな顔付きだ。
台北市を巻き込むというのはなかなかのアイディアだと思った。
市庁舎の高い天井のロビーにはいくつも長テーブルが並び、その上にはペットボトル
の飲料水や弁当が並び、我らの若きスタッフ達が忙しく立ち働いていた。
「TODAさあああん!」と暖かく迎えてくれて、女子社員が抱きついてくる。この
台湾流歓待はいつも驚きだ。でも、彼らと知り合って二年も経つ。サイクルの早いこ
の業界では旧知の仲、である。
新メンバーと挨拶してから立地を理解するために周辺を歩いた。暑い。水を補給しな
ければ歩けない。
18:00には現場に戻り、V女史がスタッフに檄を飛ばす姿を眺めた。退社したS
女史に取って代わるのがVなのだろうか? 彼女はSと違ってほとんど英語を話さな
いので、この姿は新鮮だった。
ステージ前に繰り出す。ここが貴賓席だ。
昨日会ってVIPチケットを渡したCさんから携帯に電話。ハイアットの前の交差点
まで来ているという。ステージを正面に右手の交差点まで歩く。
交差点で彼女の携帯に掛けて互いに所在を確かめながら、ようやく見つける。彼女は
高校時代の友人だという台湾人の若い女の子三人とやってきた。新たに入手したチ
ケットを渡してVIP席に案内する。
また電話でやりとりして、もう一つの会社の人々を貴賓席に案内した。これで職責は
果たしたことになる。
19:00にコンサート開始。
スーツ姿の若き台北市長がクローズアップされて、皆がきゃあきゃあ言う。弊社の台
湾局の司会者が全員登場して司会する。オープニングの踊りには市長が混じっていた
のだろうか、スーツとは打って変わってラッパー・スタイルで野球帽を後ろ前に被っ
ている。彼は若くてハンサムで、現大統領にして前台北市長の陳さんとは全然違うタ
イプのようだ。
アイドル歌手が出てきたが、彼女ではこの大きなコンサートは支えきれなかった。空
振りだ。
去年のクリスマスのコンサートにも出ていたBADが出た。男三人のコーラスで、メ
ロディーはビージーズそのままであるから狙いは明らかだ。
短躯の陳小春が登場。バブルガムブラザーズの小柳トム(アフロの警官のコントを
昔、単独でやっていた人)じゃないほう、相方に似ている。
陳小春はブルースとラップを歌い、喝采を受けていた。それほど上手くはないが。大
御所らしい。
梁静茄がバラードを歌う。歌唱力はある。
カレン・モックが迫り出し舞台の真っ赤なカウチで舞台に出てきた。僕は昨日、台北
市内で、衣料メーカーの巨大屋外看板で彼女の広告を目にしていた。
「カレンズ・チョイス」というコピーだった。カレンの選択。だからどうした。看板
の彼女は、老けていた。ただの中国人のオバサンだった。どうしてこんな人をモデル
にしたのだろう? と僕は訝った。きっと、[森光子]みたいなブランドなのだろう。
で、彼女が炸裂するロック・サウンドで歌った。下手だった。が、ホット・パンツ姿
のアクションは長年鍛えられたものだろう、キマッていた。カッコいい。若い台湾の
女の子達はキャアキャア大騒ぎしていた。人気があるのだ。
彼女、森光子というよりは、オーストラリアのカーリー・ミノーグみたいな存在なの
だろう。
カレンの二曲目が退屈なバラードだったので楽屋の市庁舎のトイレに行く。
引き上げると、ちょうどステージを降りてきたカレンとその取り巻きに出くわし、鼻
先を通り過ぎた。彼女は舞台を降りてもニコニコしていていい感じだった。
婆あ呼ばわりして悪かった。あなたにはスターのオーラがある。
次が日本からの特別客演、HYDEだった。ハイドと読むらしい。僕は知らなかった
が、台北では、それはもう物凄い人気だ。聴衆は(主に女の子)HYDEと書いた
ボードを振りかざし、花火を炊いてキャーキャー大騒ぎだ。数万人いる会場が揺れる
ほどの人気。
で、ハイドがステージに出てきた。
小柄なニューハーフみたいな男の子で、ギターの弾き語りを英語でした。
下手だ。英語も歌も下手だが、聴衆にはそんなことは関係ないらしく、キャーキャー
の頂点となる。VIP席の貴賓客はその反応に驚いて後ろの聴衆を振り返っていた。
大騒ぎ。
二曲目までのトークを彼は中国語で通した。(数フレーズだったけど)
大喝采で降りていく彼の腰つきはくねくねして、細い体と太い声は往年のピーターを
彷彿とさせる。
ガクトもそうだけど、珍奇な日本人がメインストリームに増えて、僕は嬉しい。
成熟した日本社会から出てくるモヤシみたいな連中は新鮮だろうな。
やがて香港から、四天王に続く大スター、二コラス・ツェイが登場。シャツ(半分は
ズボンに突っ込み、半分は外に垂らして、風が吹くと臍が出る。ファッションらし
い)にネクタイにグラサンというわけのわからないスタイルだけど、これは僕がオジ
サンだから理解できないのだろう。僕がこの格好で出社したら、寝惚けて出てきたと
思われるだろう。
彼が出てくるとカメラのフラッシュがまたたいた。
あとはキンキキッズを真似たWeWeが出て、もう一人、年老いた沢田研二のような
大御所が出てからVJ(ビデオ・ジョッキー)全員登場でお開きとなった。
招待客に挨拶し、楽屋の皆に挨拶してからタクシーを拾って帰った。
健康に悪いと知りながら、ルームサービスでクラブサンドイッチと台湾ビールを注文
して飲む。
ラップトップで来週水曜日のクアラルンプールでのプレゼンテーションを組み立て
る。
明日はシンガポールに移動だ。
ゆっくり09:00に起きる。チェックアウトして車を手配してもらい、空港に向か
う。
また、あの空港に向かうのか、と思う。マニラやジャカルタは国力に相応しいボロい
空港を持っているが、台湾のような優等生がそうした二カ国と同じようなショボイ空
港なのには少々失望していた。
一方でマレーシアのクアラルンプールの空港のように身の丈以上の空港施設を持つの
も「威信をかけて」という感じで不健全だと思っていた。
が、シンガポール航空はターミナル2に移っていて、ここは見事にモダンなビルと
なっていた。
どこの空港にも引けを取らない。
となると、ちょっと昔のショボイ空港が懐かしくなったのも事実だ。
しかし、シンガポール航空のラウンジには感心した。今まで、あのショボイ空港ビル
の侘しく狭いラウンジにいたのが不思議なほど広々とした明るいラウンジとなってい
た。
やはり、これは悪くないな。
僕は白ワインを飲み、焼き飯を食べ、機上の人となった。
ラップトップを打ち、新聞を読み、うとうとしているとシンガポールのチャンギ国際
空港に着いた。
一ヶ月ぶりのシンガポールだ。
タクシーでコンラッド・インターナショナルに行く。期間限定の特別な計らいでエグ
ゼクティブ扱いで31階のエグゼクティブ・ラウンジで静かにチェックインできた。
ラウンジでは飲み物をサービスしてくれるし、扱いは丁寧だし、気分がいい。
通された部屋もキングサイズのベッドで、眺めは抜群、バスルームも広い。
ウェルカム・フルーツもある。嬉しい。やっぱり忙しく出張している中で、こうした
扱いを受けるといい気持ちだ。
バスタブに浸かってのんびりNHKのBS教育番組で導入された「総合教育」に関し
ての特集を見た。普通に映る教師の顔付きを見ていると、立派な先生もいるけれど、
セコイ顔した奴が多い。あまり給料を払っていなければセコセコするのは当然だ。結
局、先生はその人の人間力にかかっていると思う。それを育てるのは管理だけではな
いだろう。金をかけて先生を育て、駄目な人はどんどん退いて頂いて、平均値を嵩上
げしなければいけないな、というのが素人である僕の意見。
電話が鳴る。香港の同僚R嬢からだ。
「ちょっと飲まない? 今ロビーにいるわ。何してるの?」
「今は真っ裸でビールを飲んでいた。すぐ降りていくよ」
服を着てグラウンド・フロアに行く。バーにR嬢と恋人の英国人がいた。
ウィスキーをがんがん飲みながら歓談した。
彼と僕はほとんど同年代だった。
サッカーの話し、ビジネスの話し、シンガポールと香港の違い、英国のテレビの話
し、台北の中正し空港が見違えた話し(二人は知らなかった)、などなど色々と話し
て楽しかった。
今、全裸でこれを書いていて(誰も興奮しないのが残念だ)、そろそろ寝ようと思
う。
シンガポール本社に一ヶ月ぶりに出社まだ僕の旧個室は空いていたのでそこに入る。
10時からの定例会議には久し振りにテレビでなく生身で出席する。
11:30のミーティングに駆けつけ、相手とそのまま昼食。
14:30にまた別の会社とミーティング。プロジェクターで説明。
時間が空いたのでイタリア料理を摂る。
15:30にはまた別の会社でミーティング。
16:00には社に引き返して日本から出張してきたクライアントと3階の会議室で
プロデューサーらを交えて今後のスポンサー番組の内容に関してディスカッション。
夜はその方と二人で「タンドール」で夕食。
09:00にオーチャードの広告代理店でミーティング。
社に行って色々懸案事項を片付けて13:30にはまたオーチャードまで出てミー
ティング。非常にいい情報を得られる。
15:00にミーティング。三人ばらばらに登場してきたので説明に疲れる。
16:00にこの秋に決まっているプロジェクトのミーティング。
17:30にはホテルに戻ってシャワーを浴び、スーツからカジュアルに着替えて社
に戻り、23:30くらいまで働いた。
13:20のマレーシア空港便でKL(クアラルンプール)へ入る。
タクシーで市内のホテルへ。マンダリン・オリエンタルという、なかなか立派なホテ
ルでツイン・タワーの隣に位置する。このホテルで本日、最重要クライアントの巨大
コンフェレンスが展開している。
チェックインしてスーツに着替えてから二階の会議場に出向いた。
数名に挨拶してからラップトップに作ってきたパワーポイントのプレゼンテーション
を、今目にしたばかりのスローガンなどを織り込んで作り直した。
100人ほどいるマレーシア人の来賓の前でプレゼンテーションするわけだげ、これ
はロンドンに住んでいた頃にアムステルダムに飛んで、各国の欧州人が集合する会議
でプレゼンテーションして依頼の規模だな、と思う。当時使ったフレーズを思い出し
て使おうと思う。そういうものはメモしたりするとスピーチの勢いを殺すことになる
ので頭の中だけで纏めておいた。
KLを探索していると携帯が鳴った。
記者会見の時間のようだ。
マンダリン・オリエンタルに引き返す。
三階の記者会見室に行く。まだ記者が集まっていない。
記者会見のデスクには僕の名前も書いてあった。
やばい。僕も質疑応答するのか。
ジャーナリストが集まり、始まってみると、「切り返し」の得意な英国人の間で揉ま
れたおかげで誰から何と質問されようと答えが口から出てきた。
質問は無事かわした。
またコンフェレンスの会場に戻る。今度はテーブルの会食形式に組み直されていた。
僕のプレゼンテーションがデスクトップに載っているラップトップも現地スタッフに
よってセットされていた。また少し編集する。できるだけスライドを少なくした。会
食歓談しながらだから難しい話しはできるだけ削ぎ落とす。
席に着いて中華料理のフルコースを食べた。大皿で持ち込まれる料理をボーイが取り
分ける例の形式だ。
プロの女性が司会進行をしている。クールな美女で英語がナチュラルだ。表彰やら賞
品の授与やらがあった。
で、僕のプレゼンとなり、この、アジアから音楽的な才能を発掘してスカラシップを
授けるという企画を説明した。
その後で去年のスカラシップ受賞者、中華系マレーシア人のLさんが登場して歌っ
た。Lさんの歌は今年の四月くらいに東京のスタジオで録音されて、名物プロデュー
サーMさんが気に入り、アジアで発売しようじゃないか、という話しになっている。
Lさんの歌は非常に受けて、アンコールとなった。
ステージの後、色々な人々が人気のLさんと一緒に写真を撮っていた。
中華系マレーシア人達は乾杯する時「わあああああああああああああああー」と長く
長く声を張り上げてから飲み干す。各テーブルでこれが次々に起きている。日本の
イッキみたいなものだ。
カーニバルみたいなものが出てきたり、マイケル・ジャクソンの物真似が出てきたり
で賑わっているうちに全ては終了した。
12時近かったが、僕はシンガポールから出張しているTさんとKLの街に繰り出し
て、もう一遊びしてから帰った。
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