戸田光太郎の21世紀的香港日記 2003年

2003年4月18日


2003年
4月18日(金)


朝6時には目覚めてしまう。香港時間では朝8:15である。
昨晩リエが残したタルカリ(野菜のおかず)の、ジャガイモ、カリフラワー、青菜、
がお腹に残っているようだ。
リエは寝ている。
僕は早いとこ土地勘を養っておこうと散歩に出た。
我々のホテルはタメル地区にある。ヒッピーが多い。
ホテルの前の道を 南下してレストランKCのある通り(Tridevi Marg)を東へ行くと
大通りのカンティ・パトゥ (Kanti Path) まで出てきた。カトマンドゥ市内を南北
に、ダルバール・マルグと平行して通る広々とした通りで通勤通学する普通の人々を
見ることが出来た。交通量が多い。通学する子供達は可愛い制服姿も多い。ラニー・
ポカリという池に浮かんだ小寺みたいなものが眺められる歩道橋からぐるりと辺りを
見渡す。車と人が眠りから覚めて大移動している。民族衣装を着たインド系の女性が
多く、俄か市場のようなものをその辺の地面でやっている。
その辺から歩道橋を降りて、路上探索してみた。斜めに北上するアサン・チョーク
(広場)までの道が人でごったがえしていた。敢えてそちらに向かった。
インド系だけではなく女性は民族衣装が多い。
タヒチ・チョーク(広場)方面まで歩き、ホテルの部屋に戻ると7時になっていた。
しばらくしてリエが起きた。彼女としては例外的に早い8:30に行動開始となっ
た。
ぶらぶら歩いて洋風の「ヘレンの店」というビルの屋上まで行き、眺めを楽しみなが
ら、ステーキサンドイッチやソーセージと生ジュースとコーヒーというような、たっ
ぷりした朝食を摂った。
ここの客は白人が多い。
遥か西側の向こう、山の中腹に大きな建物が見える。ソーエンブナートだ。あそこに
行こう、ということになる。
ルーフトップから降りて、満腹で散歩。人出が多い。排気ガスはひどい。耐え難い。
車を拾う。100ルピーと言われて断り、次の車にメーターで乗る。この運転手、何だ
か遠回りしやがって、結局、ソーエンブナートに着いた時点で100ルピーを越え
た。
仏教寺院ソーエンブナートには、金盥を伏せた形の、小高い丘のごとき白い半球、ス
トゥーパ(仏塔)があり、そこをぐるりと土産物屋が囲んでいて、線香が焚かれてい
る。川崎大師と同じ雰囲気だ。全く神秘的ではない。僕とリエはストゥーパ(仏塔)
の周りを歩きながら、煩悩がひとつひとつ消していく効能があるという、算盤の玉の
ようにくるくる軸を回る飾りをひとつひとつ手で触れて回しながら一周した。
排気ガスのせいなのか、眺望は良くない。
タクシーを拾って、今度は200ルピーで街中に戻った。
と、なかなか壮麗な建築物が並んでいる。しかも、恐ろしい交通地獄のカトマンズに
して、ほとんど車がない。交通規制しているのだ。王宮建築群の並ぶ旧王宮地帯だっ
たのだ。これらは、マッラ王朝歴代のパタン王たちによって14世紀から17世紀に
かけて完成したものだという。
僕らは旧王宮の広場が眺められるルーフトップのレストランでTUBORGビールを飲ん
だ。
で、旧王宮地区から出ると、ひどい排気ガスなのでハンカチを購入して、リエも僕も
鼻と口を塞いでアサン・チョーク(広場)まで歩いた。この空気は地獄だ。ハノイよ
りひどい。
地元の人間もマスクしていた。
ホテルまで引き返してからスーツケースを拾い、タクシーに乗って、ドゥワリカとい
うホテルに移った。ここはリエ情報によると頗るいいホテルだというのだ。立地的に
も明日移動する空港に近い。
大通りの喧騒は相変わらずで、歩道には庶民が歩いている。道は排気ガスを吐き出す
ボロ車で溢れている。歩道も茶褐色の砂埃に覆われている。
それが一歩ドゥワリカ・ホテルに入ると別世界だった。
緑に溢れ、庭は綺麗に整えられ、民族衣装系制服に身を包んだホテル従業員が典雅に
出迎え、笑顔で挨拶する。
金のレースを首にかけられ、ジュースが出される。粉ジュースで不味い。
電話で格安な値段を強引に引き出したので、その値段を口にしたレセプションの若者
が先輩らに叱られていたが、仕方ない。その金額で宿泊させてもらった。
部屋はゆったりしていた。
優雅な木彫り細工が施された黒塗りの家具調度と壁など重厚で、モダンな赤いクッ
ションなどがいいコントラストになっている。
バスルームも広い。ここだけで日本のホテルのツインより広い。大理石で凝ったアメ
ニティーが配置されている。部屋に置いてあったコピー英文を読むと、数年前に他界
したドゥワリカ氏の記述があった。旅行代理店を営んで設けていた氏が1970年代
にジョギングをしていたところ(1970年代にジョギングしてるというのは優雅な
身分ではないか?)、道端で古い家が解体されていた。職人不足が深刻で失われてい
く手作業技術を保存するために、氏はその解体された材料を買い取ったという。そう
いうことを何回も続けているうちに、彼の家の庭は材木だらけになり、とうとうその
材木を利用してホテルを造ろうと考えた。何回も増築と改築を重ねて出来上がったの
がこのホテルだ。
きちんとした思い入れがあるのだ。
リエと中庭に出て散歩した。レンガ造りの図書館やバーやプールもあり、窓枠は木彫
りで、ちょっとしたコミュニティーの体を成している。
半地下にあるレストランを予約した。「クリシュナルパン KRISHNARPAN」という。
リエは近所の商店で布地を選び、寸法を取り、民族衣装を仕立てて貰った。
ホテルで昼寝をすると、もう衣装は仕上がっていた。南方系の濃い顔をしているリエ
にはこういう衣装が似合う。
バスタブに浸かって着替えてクリシュナルパンで食事した。
階段を降りていくと民族衣装の従業員に迎えられ、靴を脱ぐ。
板張りの廊下を渡り、低いテーブルに掘り炬燵に座るように腰掛ける。
ここも内装や調度に凝っている。
真っ赤なメニューが出てきた。
「本日の6コース。2003年4月18日。戸田幸太郎様へ」と中の紙にコンピュー
ター印刷されたもので、リエもフルネーム入りのメニューを手渡されていた。カトマ
ンズでこのような技を使われるとは驚きだ。
最初のメニューはSAMAYA BAJEEというもので宗教的な祭事に使う食物を小さく持っ
たもので、それを食べながら、目の前の小皿に一部を盛らなければいけないと教えら
れた。小皿の分は神様に捧げる分なのだそうだ。非常に心憎い発想で、可愛らしい。
赤い民族衣装のウエイトレスはそんなことを説明しながら、土で作ったばかりのよう
なシンプルな茶褐色のお猪口に、度数の高いネパールの焼酎ロキシーを、アラビアン
ナイトにでも出てきそうな黄金のランプのごとき金属容器の細い首からヒューっと長
い糸のごときロキシーを垂らし、これがピタリと小さなお猪口に収まる。素晴らしい
手際に、というか、ただ酒だと言われたこともあり、次から次へと注がれるたびに飲
み干した。
次はCHYAU KO SEKUWAというマッシュルームのクリーム。そして、ネパールのそこ
ら中で売っているらしき、ROTI。ロティとはネパール風のパンである。次は
ALOO,CHANA KO TARKARI。ジャガイモとネパール風カレー。MOMOCHA。ネパール風餃
子。旨い。JARKARI KO JHOL。ネパールのハーブと絡めた野菜ピューレ。SADA 
BHUIYA。ヒマラヤ産の長い米。DAL JHANEKO。ヒマラヤ産ハーブと絡めたレンズ豆の
天麩羅。KUKHURA KO MASU。ネパール風味スパイスを加えたチキンカレー。KAULI,
 ALOO KO TARKARI。ネパール風味スパイスによるカリフラワーとジャガイモ。こ
のタルカリというのは街中のレストランでもダールバート(豆カレーご飯)と一緒に
付け合せで出てくる。美味しい。PALUNGO KO SAAG JHANEKO。ホウレン草のサテー
とネパール風マサラカレー。LAPSEE KO ACHAR。家庭料理風プラムの漬物。
MIS-MAS。野菜の漬物。PANCHAMRIT。五つの果汁ミックス。CHIYA。そしてとりはネ
パール紅茶。
非常に繊細典雅な宮廷料理で、これがそのまま全ネパールを代表するものではないだ
ろうが、極めて堪能した。満腹。ロキシーで酔ってもいる。
中庭を散策して部屋に戻る。






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