戸田光太郎の2000年日記
- 2000年3月12日其の1
2000年
3月12日(日)其の1
- 目覚める。まだ暗い。午前3時に近い。
遠くで音楽が鳴っている。まだ土曜のパーティーは続いているのだ。暫くベッド
にいたが諦めて起きた。
バンガローを出る。星空。雲がある。椰子の木の根方、砂を蹴って歩いてクラ
ブ・ハウスを抜け、右手のバー・レストランへ向かう。屋台はまだやっていた。焼
き鳥、ホットドッグ、麺類。
僕は昨日の昼間に食べた「ソト・アヤム」が旨かったので食べた。非常に旨い。
バーで飲んでいるとアロハを着た目の大きな東洋人の中年男性から声を掛けられ
た。次々と彼の仲間に紹介される。
なんと彼Pはこのリゾートのマネージャーだった。他の二人も過去数年Pと共に
ビンタン島の観光業に携わっていた人達でKはカナダ人、もう一人の酔っ払いは
イギリス人だった。まず、イギリス人は千鳥足で自分のバンガローに引き返して
いった。そこから、ほとんどシンガポール出身の中国人Pとカナダ人Kの英語で
のやりとりとなるのだが、これは他人事ながら、非常に興味深いものだった。
まず、言葉づかい。中国人Pは非常に丁寧で複雑な言い回しをするのだが、内容
は真実を抉る辛辣なものだった。一方、カナダ人Kはアメリカ語的な直裁さで喋
るが、意外に脆い。
会話の流れから次第に明らかになってきたのだが、シンガポールに住むカナダ人
Kは後数日でカナダに帰ろうとしている。彼はシンガポールでタイ人女性と知り
合った。彼女の実齢は、40歳。でも、見た目は26歳だとKは言う。娘がいて
これが20歳。そのタイ人女性とKはタイで結婚してしまった。ところが、「妻」
はカナダへ来る意志はない。Kは単独で帰国しようというのだ。
「Pよ」と中国人に向かってKが言う。「タイの彼女のことだってお前だけは話した
だろう。お前だけだぜ」横にいる僕にも聞こえているが、いわば僕はイギリスから
旅行に来た透明人間なのだった。
このカナダ人Kを中国人Pがじりじりと糾弾していた。こんな風な口調で。
「K、僕はこれから君の耳には痛いことを言うよ。友人として。僕を殴りたかった
ら殴っていい。ほら」と、体格のいいKの座るバーカウンターのスツールへ一歩進
み出るP。「いいかい。僕はタイで働いていたこともあるんだ。タイ語も少し出来
るし、タイ社会の内情にはかなり通じている。そういう僕からの助言だ。いいか
い?」中国人Pは馬鹿丁寧に遠慮してみせたり、図々しく指摘したりと硬軟取り混
ぜた口調で淀みない。カナダKはその口舌には昔から慣れている様子だった。「い
いかい、K、僕の友人にイギリス人のライターがいるんだ。僕がタイで働いてい
る頃知り合った。彼はずっと歓楽街パッポン通りに通って物を書いていた。イギ
リスで本も出している。彼はパッポン通りの裏も表も知っているし、あそこで働
く女たちの思考回路まで理解しているような奴だ。そんなタフな野郎がある女の
子に興味を持った。彼は頭の何処かでは覚醒していて、彼女は自分が好きなので
はなくて、自分の代表するステイタスに興味があるだけだと言い聞かせていた」
「おいおい」とKが口を挟む。「そんなパッポン通りと俺の話をごっちゃにしないで
くれ。俺はシンガポールで彼女に会ったんだぞ。タイじゃない」
「シンガポールの何処だよ?」
「バーだ」
「だろ?」
「いやあ、健全なバーだ」
「彼女がタイでは何処で働いていたのか知っているのか?」
Kは憮然とする。「知らない。でも、俺は彼女とシンガポールのまともなバーで知
り合ったし、タイの彼女の故郷にも行ってみたし、両親にも会った。結婚もし
た」
「タイでか? 何か書面にサインしてしまったのか?」とP。
「タイでだ。サインはした」Kの表情が暗くなる。
「まあ、聞けよ。そのイギリス人ライターは意識しながらも彼女が好きになって、
商売から抜け出すように金をやったし、家も借りてやった。出版のためにイギリ
スとを往復しながら。ところがどうも妙な感じが残ったので私立探偵を雇って留
守中に彼女を見張らせたんだ。それでわかった。彼女は留守中はパッポン通りで
働いていた。彼が渡した金は全て故郷に送金していた。そして故郷には男がいて
その金をアテにしていたし、イギリス人のパトロンの話も承知の上だった」
僕はKの表情を見ていた。ここのマネージャーのPが、バーから次々とビールを
奢ってくれるので次第に三人とも酔ってきた。
「そんな話は知ってるさ」とKは首を振った。「俺の場合は違う」
「違ってくれればいいよ」とP。「それなら君は正しい女を選んだわけだし、万歳
だ。でも、何で君はタイ女性と結婚したことを他の友人には黙っていて僕にだけ
話したんだい? 何か心の中で引っかかることがあったんじゃないか?」
Kは黙り込む。
「僕はタイでずっと同じことを繰り返し見てきたし、わかるんだ。君が例外だとい
いけど、パッポン通りの女の子たちは白人男の懐に群がってくるんだ」
「パッポン通りじゃない。シンガポールだった。しかも俺は金なんてない」
「いや。彼女たちから見れば君は大金持さ。君の妻がそうじゃないことを願ってい
るけど、40歳の女だろ」
「でも26歳くらいにしか見えない」
「だとしても20歳の娘がいるんだろ?」
「いる」
「彼女は色々と見てきた人間だと思う。君なんか騙すのはわけないさ。騙されてい
ないことを願っているが」
僕はPの口調が面白くて聞き惚れてしまった。中国語の訛りはあるのだが、ネイ
ティブとよく話して鍛えられているから、生きの良いストリート英語が混じって
パンチが効いている。表現は自由自在だ。
我々がパーティーの最後の人間となっていた。彼らに暇を告げる。Pは名刺を出
してEメールを送って欲しいと言い置いた。
僕は浜辺に出た。少し空が明るくなってきた。
波音に耳を傾ける。潮の香りが鼻を打つ。振り向くとバー・レストランを従業員が
片付けている。空には雲が多い。
どうして自分はここにいるんだろう?
2000年の1月からの動きはなかなか刺激に満ちていた。
僕はバンガローに戻ってテレビを見ながらうとうとした。
再び起きると午前10時半。雨音がした。稲光があった。落雷が続く。
僕はバンガローのバルコニーに出た。土砂降りだ。椰子の木の根元にスコールが
叩き付けている。砂地が雨に覆われ、飛沫でぼうっと霞む。大きな雨の塊が激し
く数件のバンガローを等しく叩き、ジャングルが雨音の交響曲で包まれていた。
バルコニーの木椅子に腰掛けて眺めていると、バンガローの住人たちが次々それ
ぞれのバルコニーに現れて、ボーっとスコールを眺め始めた。
向こうに昨晩パーティーで知り合ったギャビン、マイク、ニールの3人がいてこ
ちらに手を振った。
その向こうのバンガローでは東洋人の女の子二人が雨を見ながら煙草を吹かして
いた。
雨足が飛沫き、煙るようなスコールを見たのは1983年のインド旅行以来かも
しれない。あれから17年か。
これからスコールを見る機会は増えるだろう。
僕は空腹に堪えかね、ビーチタオルを頭上に掲げてカフェで昼食しながらシンガ
ポールの英字新聞を読み、バンガローに戻って荷造りするとビーチタオルを掲げ
てクラブハウスで支払いを済ませ、車を手配してもらってビンタン島のフェリー
乗り場へ向かった。運転手は優しい顔の口髭インドネシア人で、「青葉城恋歌」を
歌った佐藤宗幸だかなんだかというシンガーソングライターにそっくりだった。
しかし、このフェリー乗り場には何もない。カフェで久々に紅茶を飲んで一気に
この日記のメモをした。特に昨晩、というか今朝の中国人Pとカナダ人Kの会話
は凄かった。
待合室に進んで、おやおやと思った。
行きのフェリーで一緒で、浜で石蹴りのような遊びをしていた例の可愛いタイ人
の娘二人組みが白人青年二人とイチャイチャしていた。青年の首っ玉にぶらさ
がってキス。青年は周囲の視線があるので少々遠慮しているが、二人の娘は堂々
たるものだ。娘たちは行きのフェリーではブランドに身を固めて化粧もしっかり
していたが,今はドレスダウンしているようだし、顔もスッピンに近い。こうし
てみると華やいだ雰囲気がないと普通のタイ人娘である。なんだかはしゃいで下
品な感じにさえ思える。
しかし、まあ、これは出来過ぎだ。中国人Pの話で僕は少々カナダ人Kを気の毒
に思っていたし、青木保の「タイの僧院にて」を読んできたこともあって、敬謙な
仏教徒であるタイ人の皆が皆そうだとは思わなかったし、パッポン通りにだっ
て、ドストエフスキーの「罪と罰」の娼婦ソーニャみたいな女性がいるに違いない
と思っていたのだが、二人連れのタイ娘が絵に描いたように二人の白人青年を島
で拾ってくるとは、やはり、出来過ぎだと思う。案外この二人の白人青年は割り
切った顔付きなので楽しんだら綺麗に別れることが出来るだろう。
今どきの初心な日本人の若い男が捕まったら、もう逃げられないかもしれない。
それまた人生勉強だから平穏無事なサラリーマン生活よりいいだろう。
フェリーは13:30に出て、1時間時差のあるシンガポールに着いたのは
14:45だった。入国すると16:00。
バスの35番でMRT駅まで行き、ブギス駅で降りた。
時間を逆算するとこうだった。
今晩の成田行きのJALは23:00にチャンギ国際空港を出発する。2時間前
の21:00にチェックインするとして町からは1時間若で来れる。ホテルを
20:00に出ればいいわけだからマレーシア側に足を伸ばしても19:30ま
でに戻っていればいい。まだ5時間以上ある。
僕は長距離バス乗り場でジョホール・バル行きバスに乗った。
40分ほどで「ウッドランズ・トレイン・チェックポイント」と書かれた巨大で冷や
やかな、要塞のようなビルに到着した。皆、我勝ちに建物の中に走っていく。
立派な建物だ。ここでシンガポールからの出国手続きをした。割に簡単だった。
要塞の向こう側へ降りていくとマレーシア側、ジョホール・バルの岸に繋がる長い
陸橋があった。数キロm以上ある。再び別のバスで移動。
向こう岸が近づいてくる。ネオンや看板だらけでゴチャゴチャしている。シンガ
ポールではそれらが規制されていたのだな、と気付いた。交通量も凄い。トラッ
ク、乗用車、バイク、スクーター。排気ガスが煙っている。別世界だ。
反対斜線のシンガポールに向かう側が非常に混雑しているのが気になった。帰り
は行きほどスムーズではないかもしれない。が、23:00発のJALを逃すわ
けにはいかない。このまま町も見ずに引き返すわけにもいかない。
今度はマレーシア側のイミグレーションで入国手続きがあった。こちらは混乱し
ている。入国用紙に記入。僕の前、インド系のような家族が足止めされていてよ
うやく僕の番になった。思いっきり英国風の発音で「グッド・アフタヌーン」と言っ
てみる。あれほどネチネチと家族者を詰問していた係官がほとんど何も見ずに通
した。
ジャラン・ウォン・ア・フック通りを歩く。人間も多い。シンガポールより顔付きが
田舎くさいような気がする。
- (つづく)
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