戸田光太郎の21世紀的香港日記 2003年

2003年4月19日〜4月22日


2003年
4月19日(土)

ホテル中庭、プールサイドのハンモックにリエが横たわり、僕が揺すってあげている
と最初は気持ち良かったようだが、次第に目が回ってきたという。止める。
ホテルは12時に出た。
13:10発の飛行機が遅れて14:40になるという。ぼろい飛行場の二階にある
小汚いレストランで僕はMOMOを食べた。ビールを飲む。
時間になって下に降りてもまだ出ない。あと10分と言われる。いつか出るさ、とも
言われる。
何が起きているのかわからないのは発展途上国の常である。
居合わせた白人男性と東洋人女性のカップルと状況を話す。
男はロシア人で、女は日本人。二人ともハーバードにいる。彼は教えていて、彼女は
生徒。
いよいよ「ブッダ・エア(仏陀航空)」の飛行機が出るという。そのまま成仏しそう
で怖い。
搭乗口からバスに乗る。
ロシア男性が、「バスからすぐ降りられる位置について飛行機には一番乗りする」と
息巻いている。機体の右側の席だとヒマラヤを一望できるのだという。6000m級
の山々を見下ろすことになる。
二人のパイロットの操行姿が見える小さな飛行機で客席は左右に二列。十数人しか乗
れない。
一応スチュワーデスがいてコーラをプラスチックのコップに注いでくれた。
右手の雲間からヒマラヤが見えて、機体が右手に激しく傾くと、もう着陸態勢で、茶
と緑の山間を撫でるように高度を低くしていきながら、小さな飛行場に舞い降りた。
「あのロシアの人、飛行機の窓に張り付いて夢中でヒマラヤをビデオ撮影してたわ
よ」とリエが教えてくれた。
ホテルからの迎えの車に乗る。
白人女性が同乗したので彼女と話すと、ロンドン在住のイタリア人だった。
彼女は6日間にわたるトレッキングを計画していて、現地シェルパも雇っているのだ
という。
車が川の前で止まった。これは川ではなく、ペワ湖の一部だった。
ホテルは中ノ島のようなところに位置する。で、そこまでの移動は筏だ。両端を両岸
に繋がれた縄で筏全体を引っ張って渡るのだ。これは湖だから可能で、流れのある川
ではできない。
カーキ色の制服を着た筏職員がホテル側の岸に繋がった縄を手繰っていき、筏の上に
とぐろ巻きして重ねていく。と、車で到着した側に近い筏にとぐろ巻きされていた縄
の方が伸びて自然にほぐれ、川に沈んでいく。25mほど離れた向こう岸にたどり着
くと、前方の縄はとぐろ状に収まり、とぐろ状だった後方の縄は向こう岸から伸び
切って川面に浮かんでいる。これを悠々と人力で繰り返し、この筏職員は向こう岸と
こちら岸を何度も往復しているようだ。この悠長な公共交通機関は気に入った。チッ
プを渡して降りた。
ホテルにチェックインする。最初のアパート形式の部屋が気に入らなかったので変え
てもらった。コテージ形式に移る。
いずれにしても、デゥワリカ・ホテルのように豪勢なところではないのは仕方ない。
レセプションには英国のチャールズ皇太子や日本の皇族の写真があったから、ここも
ポカラではいいホテルなのである。
リエと筏で向こう岸に渡った。
筏職員の縄裁きと、川に落ちていく縄のパシャっという音がポカラの静寂を強調す
る。
曇り空でヒマラヤ山系は見えない。
向こう岸には筏で往復するホテル宿泊客狙いの物売りがいる。声を掛けてはくるが、
そろほどしつこくはなく、すぐ諦める。
外をぶらぶら歩いた。
田舎だ。カトマンズのように空気が汚くないのはいい。土産物屋が多くて、やはり
ツーリスティックではあるが。
またハーバードのカップルと道で出くわして立ち話する。ストライキがある、という
噂を聞いたので二人に伝えた。
リエと和食屋で焼き鳥と蕎麦を食べてみる。日系旅行代理店に付いている非常に寂れ
た店で、侘しい気持ちになった。
ホテルへの向かうとかなり時間は遅くなったが、ホテルへ渡る筏は動いていた。
闇夜に、パシャっと筏の縄が降りていく。
ポカラの第一日は平和だった。

4月20日(日)

朝5時半に目覚めた。
ペワ湖を筏で渡って散歩した。へんてこな和食屋の看板や民宿などがある。ずっとダ
ムまで歩いていると雲が切れてヒマラヤ山系が少々覗いた。素晴らしい眺めだ。これ
はリエを叩き起こしてでも見せなくてはいけない。早朝だけしか見えない場合がある
そうだから、見逃したらそれきりだ。
急いでホテルに引き返す。
6時半頃にはかなりの山々が顔を出した。
ホテルの食堂辺りの眺めは格別で、ヒマラヤ山系がぺワ湖に姿を映す絶景を一望でき
る。インド人夫婦が見とれていて、僕に写真を撮って欲しいと頼んできた。
撮影後は部屋に直行してリエを叩き起こした。「どんな格好でもいいから、すぐおい
で」
と、寝惚けた彼女は、バスタオルを巻いただけで外に出ようとする。
「どんな格好っていっても、服くらいつけて」
で、先ほどインド人夫婦の立っていたベスト・スポットに二人で立った。
ホテルのレストランは、中ノ島の端にあり、ぺワ湖に面している。目の前には広大な
湖が広がり、それを囲んで緑の山々があり、更にその外側に白いヒマラヤ山系が神々
の屏風のように屹立している。この美しい眺望にはリエも息を呑んでいた。
レストランに入り、7時には朝食を摂った。ガラスの向こうは相変わらずのパノラマ
である。
午後に曇ってしまう前に景色を満喫しようとリエとぺワ湖にボートを借りた。漕ぐの
も疲れるので漕ぎ手を付けて、だ。
湖のど真ん中をゆっくり横切っていく。
体を伸ばして背中を船に預け、リラックスする。櫂と水の音、温かい日差し、騒音も
排気ガスもなく、これは最高の乗り物だ。
空気は透き通っていて、遥か彼方のヒマラヤ、雪山の表面がくっきりと見える。
ホテルのある中ノ島は随分と遠ざかった。
鳥が横切っていく。湖の中央、向こうの岸から反対側の岸まで一直線に、弾丸のよう
に飛んで去っていく。何羽も何羽も。良く見ると一羽ずつちょうど一本の小枝を口に
銜えている。確かにそうだ。弾丸のように飛んでくる鳥は悉く一本の小枝を銜えて飛
んできていた。直線距離で一キロはありそうだから、非常に手の込んだ作業だ。向こ
う岸の枝でなければ納得できる巣作りができない、とでもいうのか、拘りを感じる。
しかも、こんなに多くの鳥を巻き込んだ共同作業だから「女王鳥」の巣でも作るの
か? こういう時に、動物の生態に全く無知な自分を知ることになる。大体、鳥を見
ても「鳥」としか書けない。鳥に詳しい人、誰か、この生態はごく一般的なことなの
か教えて欲しい。
船はゆったりと進み、もう一つの中ノ島に着いた。
ここはお寺になっていて、お参りしている人がいる。
観光客が多い。
早々に船に戻り、来た航路を遡っていった。
自分で漕がないで良かった。楽な船旅となった。
下船してから(というと大袈裟か。ボートから出ただけである)薬局でバンドエイド
を買い、旅行代理店で明日の早朝、近隣の山までドライブしてヒマラヤを眺める車を
手配した。750ルピー。
路上に全く車がないと思ったら、今日は例のストライキだった。
特別に空気が綺麗なわけだ。
山は美しいし、空気は綺麗だし、車は走っていない。カトマンズの喧騒と汚染を考え
ると、車が文明にもたらしたものは何だったのかと思えてくる。
大気汚染を最小限に抑えるハイブリット・カーがネパールまで行き渡るのにはあと5
0年はかかるだろう。その頃までには自然は相当ダメージを受けているだろう。
その辺の店の二階にあがってリエとビールを飲んだ。
湖の脇の道を今日は牛が悠々と歩いている。いい眺めだ。
また少し歩いた。
湖の端まで来た。
民宿みたいなところでネパール料理を食べ、ビールを飲み、店主と話した。
ドイツに出稼ぎして貯蓄して、この、宿とレストランが一緒になった場所を作ったの
だという。宿泊料金は僕らが払っている値段の10分の1ほどである。
長逗留するならこういう宿がいいだろう。
彼とはドイツねたで盛り上がった。
こちらの端からボートに乗ろうと思って値段を交渉しようとすると、いきなり吹っか
けられた。そういう常識外れの値段が頭にきたのでボートは諦めた。
とぼとぼ歩いて帰った。
部屋に戻るとリエが発熱した。
ルームサービスで非ネパール料理を注文した。ミネストローネとスパゲッティ・ボロ
ネーゼとサラダとワイン。リエはかなり旺盛な食欲を見せた。僕が注文したのは典型
的なネパール料理である。まだ飽きないで食べている。

4月21日(月)

ポカラの山の上まで早朝にドライブする、ということで旅行代理店から運転手を雇っ
たのだが、来ない。せっかく5時半に起きたというのに。6時に代理店に電話する
が、らちがあかない。ホテルまで迎えに来るはずが来ていない。6時半にようやく運
転手と湖の向こう側で会えたが、旅行代理店まで運転してもらい、店主に「こんな出
鱈目な指示じゃ、駄目じゃないか、お金は払わない」と言う。色々とごねていたが、
結局は750ルピー全額払い戻しとなる。
ホテルまで乗せてもらっていると運転手が「旅行代理店抜きで、700ルピーでどう
か」などと話はじめ、結局、550ルピーで話がついた。ホテルでリエを拾って山頂
に向かう。
だがしかし、時間はどんどん経ってしまったから、雲も出てきて視界は悪くなるばか
り、山頂の眺望も冴えなかった。すぐ下山する。
朝食を摂る。香港人の集団がいて、非常に賑やかだった。
ホテルをチェックアウトして10:10の便でカトマンズへ向かう。
また例のロシア人と日本人のハーバード・カップルと遭遇する。僻地でトレッキング
を試み、彼女は疲労困憊したらしい。費用も米700ドルかかったという。彼の方は
相変わらずの上機嫌。
狭い機内で僕の左隣はパイロット然としたインド人だった。
「いや。パイロットではありません。ビジネスマンで、スコットランドに住んでいま
す」
カトマンズに着くと、我々はドゥワリカ・ホテルをハーバード・カップルに強く推薦
した。ずっとヒドイ宿だったというから尚更だ。四人一緒のタクシーで移動した。
二人は堂々たるホテルに驚いていた。
僕らはチェックインして今度は210号におさまる。立派な部屋だ。
タクシーで中心地に出てリエがご執心のムーンストーンを購入。
ホテルに戻るとまだハーバード・カップルは中庭でまだ食事中で、少々歓談した。
彼女の祖父はトルストイ協会の会長か何かをしていて、一度、25人の親戚がモスク
ワに集合したことがある、という。アカデミックな一族なようだ。
僕は1990年にモスクワの新聞社「プラウダ」に行った時の話しをした。
部屋に戻り、マッサージを雇ってリエと並んでやってもらった。僕を担当した男は
へっぽこだったが、リエをやった女性は上手だったらしい。
食後、リエは風呂に入り、ベッドに潜り込んでもムーンストーンをつけていた。
で、起きると石が一つなくなってしまった。
探しても見つからない。リエが落胆しているのでタクシーで中心街へ向かい、店主に
事情を説明する。彼はなかなか誠実そうな人間で、リエの様子を不憫に思ってか、
ムーンストーンを数個無料でくれた。香港に帰って修理してもらえばいい。
ホテルに戻ってから近所のヒンズー教寺院「パシュパティナート」に出向いた。この
寺院に関しては帰国後、コラムを書いた:

アジアの路上で
「カトマンズ:ハードコアなヒンズー寺院」
戸田光太郎
 ネパールの首都カトマンズは空気汚染のメッカだ。ハンカチで口と鼻を塞いでいな
いと歩けない。ジャカルタやマニラを上回る。中心部からの遥か喧騒を離れ、 ドゥ
ワリカ・ホテルに戻った。ここは別世界、静謐な異次元だ。創始者ドゥワリカ氏は、
取り壊される中世からの繊細な建築物を惜しんで買い取り、こうして再構成して小さ
な城を作り上げた。部屋も素晴らしい。ホテル内にあるレストラン「クリシュナルパ
ン」も絶品。堪能した。壁に来訪者の写真があり、日本の皇族や世界の政治家、元ク
リントン米大統領の妻ヒラリーが写っていた。これは知らなかったが、カトマンズで
は欠かせないレストランなのだろう。
満腹になると、不謹慎な旅行者には、ホテルから散歩するのにちょうどよい距離にヒ
ンズー教寺院「パシュパティナート」がある。無論、異教徒の我々は中には入れない
が、対岸から眺めることが出来る。
ガンジス川の支流の一つバグマティ川の対岸に建物群がオレンジ色の灯に浮かび上
がっている。川岸から伸びる階段を行き来する巡礼者や子供や猿など動物達の姿が、
まるで計算された舞台の動きのように展開する。寺院の屋根を伝う猿。黄色いマント
から萎びた素足を伸ばしたサドゥー(ヒンズー教の行者)、石段を駆け上がる子供
達。舞台監督の演出は絶妙のタイミングで、色々な人物を登場させる。飽きさせな
い。やはり監督はヒンズー教の神だろう、この演出は人間技ではない。
そして美しい布に包まれた死体が運ばれてくる。川岸の石段に無造作に置かれる。隣
にある石造りのアルエガート(火葬台)に材木が組まれて火がつけられる。この石
壇、アルエガートは下流に向かっていくつか並んでいるが王族用から平民のものまで
カースト分けされている。隣では、もう灰になった丸太と遺体がアルエガートから、
聖なる川に棒切れで突かれ、落とされ、流されている。そしてまた美しい布に包まれ
た遺骸が到着し、川岸に並べられる。
右手に大きな建物があり、これが、死を待つ家らしい。あらゆる治療を施しても、も
はや無駄であるとなるとここへ運ばれてくる。そして司祭達から祈祷され、清めら
れ、数日して覚悟が出来た頃には、息絶えて、鮮やかな布に包まれ、川辺の石段に横
たえられ、親戚縁者の見守る中、火葬台で遺灰となり、聖なるバグマティ川に戻って
いく。
この川辺から対岸のパシュパティナートを眺めていると時間が経つのを忘れる。生と
死と輪廻転生の交響曲を目の当たりにしているからだ。我々都市生活者はそうした交
響曲からは切り離されて日々忙殺されている。いやあ。ちょっとこれは感動的なほど
立派なシステムではなかろうか。現代医学の力で体をパイプだらけにされ、薬漬けで
無理に延命させられるよりはやはり人間的だ。死と向き合って覚悟をしてから神々に
見守られながら川に帰っていく。千五百年以上も昔から巡礼が訪れているというのも
頷ける。ネパール最大にして、インド大陸四大シバ寺院の一つだという。極めてハー
ドコアだ。

4月22日(火)

香港へ帰る。




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