戸田光太郎の21世紀的香港日記 2002年

2002年8月11日〜13日


2002年
8月11日(日)

今日はベトナムに行く。
初めてのことだ。
正直なところ、僕は静かに興奮している。
ベ・ト・ナ・ム。僕らの世代から特に団塊の世代くらいまでは特別な思い入れがある
国だろう。
1975年、アメリカがベトナムを去った時、僕は高校の二年生だった。東京の高円
寺から引っ越して逗子に住み、神奈川県の追浜という高校に通っていて、米軍基地の
ある横須賀から通っている同級生は数多かった。
元気の良かった長い髪の同級生はUSマリーン(海兵隊員)と結婚してアメリカに渡っ
た。
当時の僕はセックスも外国も知らなかったので何も理解できていなかった。
しかし、ベトナム戦争は物心ついた頃から常に続いていた一番身近な戦争だった。誰
もがベトナム戦争を語り、どのメディアも凄絶な戦場写真を掲載していた。ボロ布の
ように千切れたベトナム兵の上半身を片手で掴み、片手に機銃を抱えた屈強な米兵の
姿。などなど。
ベ平連の小田実が多くの文章を書いていた。残念ながら、彼には際だった文才がな
い。翻って、開高健のベトナムに関する文章は絶品だった。
ハリウッドがベトナムを材料に出来るようになったのも戦後、1975年以降で、特
に『地獄の黙示録』と『ディア・ハンター』は鮮烈だった。
十数年前、何人かのフランス人と付き合う事になって、彼らにとって、インドシナ
(ベトナム)というのは自分の裏庭くらいの身近な存在なのだと知った。それを知っ
たのはモスクワでのことだ。仲間にはクロアチア人がいて、徹底的にフランス人から
イジメられていた。
1990年頃に『ル・ポワン』という週刊誌で働いていたフランス人Vと親しくなっ
たが、当時、彼が初めてベトナムを訪れて興奮して言った言葉が頭を離れなかった。
「南のサイゴンは1975年で時間が止まってしまっていたよ。北のハノイに至って
は1945年でストップしていて、街には車が、そうだな合計でも10台くらいしか
なかったな」
僕は住んでいたロンドンでミュージカル『ミス・サイゴン』を観た。出来のいい作品
だったが、圧巻は米軍が1975年に引き上げていくシーンのスペクトルだった。
二年前、ロンドンで見た、26歳の在米ベトナム作家が作った映画『季節の中で』に
僕は号泣した。これはこのHPの日記にも書いた。
ベトナムに行こう、と僕が思ったのはこの時で、でも、アジアに移住してから、あま
りに距離が近いために行きそびれていた。実は一度、サイゴンへのチケットを手にし
てチャンギ空港に向かったこともあるのだが、ビサがなくて行けなかった経緯があ
る。それから二年、香港に移住すると、ハノイは2時間もかからない距離となった。
で、僕はビサを取り、旅行を手配した。
ベトナム旅行を主に取り扱っている香港の代理店の主人はベトナムから来た中国人で
フランス語を解した。「1975年からの共産党支配で我々はいられなくなりまし
た。セ・ラ・ヴィです」
そうだった。1970年代当時、ボートピープルという言葉が流行った。
後にオランダ女性と結婚した、香港チャイニーズの僕の友人はオランダでボートピー
プルの収容施設で働いていて妻となる彼女と知り合った、と言っていた。オランダは
ボートピープルの受け入れに熱心だった国の一つであり、日本はその対極にあった。
一度、日本で過ごしたカンボジア難民の青年のインタビューを読んだことがある。彼
はこんなことを言っていた。「僕は命からがらボートに乗って逃げてきた。かろうじ
て生き残ったうちの一人だった。とても辛かった。だけど、その後、日本の学校で
会ったイジメに比べたら、それはまだまだ天国だった」
南北が統一され、共産政権が成立した時に弾き出された中華系の一人がこの旅行代理
店経営者だったのだ。

さて、そんなことを考えながら午前7時起きで支度してタクシーに乗り、7:30に
は空港エクスプレスのキャセイのカウンターでチェックインし、列車で空港に向か
う。
キャセイと提携しているベトナム空港便は僕とリエを乗せて午前9時に香港を出発し
た。
赤いアオザイを着たベトナム空港のスチュワーデスにサーブされた。
ベトナムには一時間の時差があり、約2時間後の午前10:00にはハノイのノイバ
イ国際空港に到着した。
空から見たハノイは、緑豊かで、西洋風の建物が多く、ヨーロッパの都市みたいだっ
た。ベトナム首都ハノイのノイバイ国際空港は日本の、地方都市の空港程度の規模で
ある。福岡空港より格段に小さい。
ベトナムの人口は八千万人だという。インドの人口は十億で、首都デリー国際空港が
あの程度のボロだから、よし、としよう。
空港には他の空港のようには銀行がなかった。成田の両替もショボイが、ここもお通
夜d香典を受取るコクヨ事務机の受け付け、そのものである。二千香港ドルを替える
と三百六十万ドンという、分厚い札束の現地通貨になった。1820というレート
だ。12年前に訪れた東欧のユーゴの分厚い紙幣の束を思い出した。
換金してから、市内まで約15万ドンかかることを確認し、エアコンの効いたタク
シーを拾って市内のホテルに向かった。
街にはバイクが溢れていた。
「スラバヤみたい」とリエが言った。インドネシアのスラバヤもバイクだらけだっ
た。「いや、スラバヤよりひどいかもしれないわ。だってあそこには少なくとも秩序
があったもの」
「…そうかもね」
「トダちゃん」とリエは自分も戸田のくせに僕をそう呼ぶ。「がっかりしてるで
しょ」僕のベトナムに対する思い入れの強いことを彼女は知っている。
「いや」と僕は強がった。「こんなもんでしょ」
ホテルに着く。
15万ドンを運転手の手に握らせた。
ドアマンがタクシーのドアを開けてくれ、僕らはホテルに入る。
左手がチェックイン・カウンターだ。正装した従業員が雁首を揃えていた。
ホテルは1901年に竣工した由緒あるホテルで、グレアム・グリーンからジェー
ン・フォンダまでが宿泊したソフィテル・メトロポールだ。Eメールで旧館に宿泊さ
せてくれと頼んでおいたので、そこは問題なかった。
我々を案内してくれた、ベトナムの民族衣装アオザイを来た女性は、日本語と英語を
駆使しながら部屋に導いてくれた。日本語は学校で学んだという。
やはり由緒正しきホテルという雰囲気が横溢している。階段も床も、高い天井も古い
木材で、奥床しく生けられた花々や絨毯やアンティックなテーブルの上の照明が、
しっとりとした雰囲気を醸し出している。部屋は天井が高い。ゆったりとしたバス
ルーム。アンティック家具に気分が落ち着く。
でも、五つ星にしてはショボイな。華やかではない。
僕とリエは荷解きして、バスルームを使い、ホテルを出た。
ソフィテル・メトロポール・ハノイを出て、左手に曲がり、次の角を右に折れてチャ
ンティエン通りを西に、ディン・ティエン・ホアン通りからホアンキエム湖畔を歩
く。
とにかく交通量が凄い。
僕はフランス人の友人Vが10年前に口にした言葉、「北のハノイに至っては194
5年でストップしていて、街には車が、そうだな合計でも10台くらいしかなかった
な」を思い出して、その落差に軽いショックを受けた。
それは僕の顔に表れていたのだろう、リエがまた言った。「トダちゃん、やっぱガッ
カリなのね? 可哀相ねえ」そうだ。彼女はベトナム戦争終結の一年前、1974年
に生まれている。何の感慨もないことだろう。
「そんなことないよ」と僕はまた強がった。「こんなもんじゃないの?」
ホアンキエム湖畔を取り巻く道にはバイクの渦と、その喧騒が溢れている。
バイクが一番、で、車も攻撃的だ。排気ガスが充満している。
僕は1983年のインドで、これ以上の喧騒を経験しているが、ベトナムの喧騒はリ
エにも些かカルチャーショックだったようで、かなり驚いていた。「これって、バタ
ンとか、ジャカルタとか、インドネシアみたいじゃない? アジアの普通の駄目都
市って感じ」と言った。彼女にも失望の色は隠せない。ジャカルタとは、的確な比喩
だった。ベトナムに対する思い入れの強い僕には耐えがたいことだが、それは事実
だ。ジャカルタを侮るわけではないが、ジャカルタは過去二十年間あんな感じで推移
してきたと聞く。進歩とは無縁らしい。
ハノイとジャカルタが全く別物で、ハノイの方にポテンシャルがある、と断言するこ
とは難しい。
いや、それでも僕はハノイに肩入れしたい。
ホアンキエム湖畔に浮かぶゴックソン小島に出た。13世紀に元の侵略を阻止した英
雄チャン・フン・ダオなどが祭られているようだが、入場料を取られると知ると、何
の感慨もない僕とリエは赤い中華系の橋を渡って戻った。
湖畔にはカフェがある。
入った。
何となく従業員の動きが鈍い。我々はテーブルに座ったものの、不安になって中座し
た。が、誰も咎めない。そんな程度なのだろう。
カフェの隣の二階、ベトナム・レストランに入る。
従業員が内側から扉を引いた。
店の名前はこうだ。THUY TA - The Communnial House in the village -
restaurant.
窓際に座り、コースをとった。
僕の右手はホアンキエム湖だ。喧騒も感じられない。
ハノイ・ビールの次に、最初の料理が出てきた。
ベトナム春巻きだ。
非常に短い春巻きが、刳り貫かれて中心に蝋燭を置かれたパイナップルの周りに楊枝
で串刺しにされて出てきた。
旨い。
ビールにあう。
バナナの花のサラダも旨い。
次に出てきたご飯と海老の炒め物と鳥の炒め物は、ほとんど正統派中華だった。
食べきれない。ちょっと突っつき、お勘定にする。
三十八万四千六百十五ドン。
三千円程度だろう。ツーリスティックな場所だ。ぼられてはいないだろうが、安くは
ないと思う。
旧市街を歩きたいと思い、店員に聞くと、ここから北側一帯は旧市街だと言われた。
旧市街に足を踏み入れると、その喧騒と混沌に参った。僕一人だったらまだしも、リ
エにこれは難だろう。
行き交い飛び出すバイク達にルールはなく、自家用車や歩行者も走りたい時に走り、
歩きたい時に歩く。
秩序なんてものはない。
小さな道でさえ、横切ることが難しい。車が、バイクが、シクロが、人が、自転車が
一斉に多方向から押し寄せてくるからだ。ニューヨークだってロンドンだって東京
だって香港だって平気な僕らが立ち竦むのだから、ドイツのメルヘン街道の住人やア
メリカのサクラメントや沖縄の竹富島あたりから来た人間だったら、失神してしまう
だろう。
僕はシクロと交渉してリエと乗り込んだ。
これは、いい。自転車の前に設えた席に座っていると、ちょうど背の低いベトナム人
の目線で街が見える。しかも、混沌の交通戦争は気にしないでいい。運転手が適切に
捌いてくれる。
旧市街は通りによって店の種類が微妙に変わった。
ブリキ屋街がある。漏斗、様々な大きさの箱、鞄、筒、など全てブリキで、そういっ
た店が並ぶ。ノスタルジックだ。紙屋通りがある。金と赤の、中華風祝い紙が並ぶ。
ハノイは広東省と近い。中国の支配下にあった時代も長い。よって中華色も強い。そ
もそもハノイは漢字では河内と書く。河の内側にある街、ハ・ナイだから、そのまま
だ。ベトナムは東南アジアと総称される国の中では唯一の中国文化圏だから、「東ア
ジアの東南端」とも表現できる。
と、金庫屋通りがあり、泥棒も多いことが連想された。照明屋通りがある。水道屋通
りがある。金物屋通りがある。安っぽい服屋通りに安っぽい玩具屋通りもあった。そ
ういう店の前を通り過ぎる我々の目前を前後左右から無秩序にバイクを中心とする乗
り物が押し寄せて通り過ぎてゆく。バイクは二人乗りが多く、時に三人乗りや四人乗
りまであり、互いに楽しそうに喋り、並んだバイク二台の計四人が喋っていることも
ある。人々は楽しそうに移動している。会話に気を取られたバイクがシクロに突っ込
んできたりしそうにもなるのだが、運転手はクラクションを鳴らして牽制したり、ブ
レーキを踏んだり、ハンドルを切ったり、と、微妙に切り抜けてくれる。シクロ目線
で眺めるハノイの混沌のパノラマは魅力的だった。
ホテルまで走ってもらい、金を払った。
部屋で休憩し、シャワーを浴び、一階に降りてカフェでアフタヌーン・ティーをし
た。
ダージリンに菓子とフルーツ。菓子は見た目ほど旨くはなかった。
「ここの料理は期待できないかも」とリエ。
「食事は外でするから、いいよ」
ホテルの館内を散策してから、またシクロを拾って、今度はホー・チ・ミン廟に向
かった。我々のホテルからすれば西北方向になる。相変わらずの喧騒を抜ける。チャ
ンティエン通りという広々とした、相対的に綺麗な通りだ。我々の世代には懐かしい
名であるディエンビエンフー通りからチャンフー通りへ入ると立派なお屋敷と在外大
使館が並び、運転手も「おらが街」の立派な通りを選んで走っていることが知れた。
バイクの波は一向に衰えないが。
右手の広々とした公園に巨大なレーニン像が見えた。上野の西郷さんより二倍は大き
い。人々は憩っており、ランニングでベンチに寝ている初老のベトナム男などがい
る。中国大使館を過ぎた。フンヴォン通りに入り、やがてシクロは止まった。運転手
は右に曲がるとホー・チ・ミンがあると手真似で言った。ここまでの運賃を払うと僕
は言ったが、帰りもここで拾うから待っている、と言って聞かない。シクロを待たせ
てリエと歩いた。
左手にホー・チ・ミン廟が見えてくる。廟は巨大なバーディン広場に囲まれていて、
ここには車が入れない。皇居みたいなものだ。ホー・チ・ミン廟はアテネのパルテノ
ン神殿くらいの大きさで、素っ気無い茶色い柱が数本立って四角い屋根をおさえてい
た。モスクワのレーニン廟を真似たものだ。全くベトナムらしくなく、単に、もはや
存在しないソ連邦的なだけだ。生身の衛兵が廟に張り付いているのも真似である。
ホー・チ・ミン本人は苦笑しているのではないだろうか。彼はパリに定住するまでは
日本留学試験に受かっても放棄したり、学校を何度も退学したり、世界を転々として
何ヶ国語も喋ったという型破りな人間だから、これは窮屈かもしれない。
しかし、ハノイ全体から考えれば、この一角は車もバイクもなく、広々とした空間に
巨大な廟があり、遠巻きにヨーロッパ風の建造物が並ぶ、荘厳な場所ではある。ただ
し、バーディン広場の外側は、皇居外堀の外側以上の喧騒で、バイクとクラクション
が撒き散らされていた。
暑い。この暑い中、バーディン広場の芝生を手入れしているのが、例のベトナム農民
の被る陣笠を頭に載せた女性達なのである。百人はいるだろう。
炎天下、僕とリエはシクロまで戻った。おっちゃんがいた。旧市街へ走ってもらう。
少し散策するが、やはり喧騒と神風運転に負けて、またシクロを拾ってホテルに帰っ
た。
初めて行く街に女性を同伴する場合は、いいホテルを取るべきだと思う。
どんなに街の混沌に翻弄されても、彼女は自分を優雅なバスタブで清めることが出来
る。
僕の一人旅だったら、眠る場所さえ確保できればいい。だが、一人旅でも、時には、
まともなホテルに泊まりたくなることはあるな。
コンシェルジュに電話してレストランを予約してもらった。
「エンペラー」という最近出来たレストランで、香港の同僚、中華系マレーシア人で
英国人と結婚したC嬢推薦だった。
着替えてコロンを振って部屋を出る。ホテルの外ではホテル付きのタクシーやシクロ
だけではなく、道路の向こう側では一般のシクロが客待ちしていて、強烈なラブコー
ルを送ってくる。が、僕らは歩いた。
これはソフィテル・メトロポール・ハノイの新館側出口に沿ったリタイトー通りを右
にまっすぐ行けばいい。
すぐ大劇場(オペラ・ハウス)前の広場に出る。もろにフランス風のオペラハウスの
横はヒルトンだった。ホテルの名は「ヒルトン・ハノイ・オペラ」とある。
レストランへ向かう途中の道はぐちゃぐちゃだ。舗石を張り替えている。泥だらけ。
ご婦人をエスコートするには忍びない。
バイクや車の攻撃的な往来も同じ。
左手に薬科大学が現われ、右手にコピー屋が軒を連ねた。何処も変わらぬ光景だ。
きっと、講義を真面目に取る生徒がおり、それをコピーして売りつける才覚を持った
商人候補がいることだろう。
その先に「エンペラ−」は忽然と現われた。
フレンチな建物。かがり火。名前を伝えて通されるが、決して手際は良くない。
正面玄関から入り、階段を上がり、テーブルに案内される。
残り二組もそれぞれ、日本のオッサンだった。なにやらビジネスの話しをしている。
ウェイターとウェイトレスの手際が良くなかったのはご愛嬌だ。
女性が男の子に、「まだグラスは下げちゃ駄目」とか必死に教えていた。
飲み物は? と聞かれて地元で馴染んだ「ビア・ハノイ」と言うと苦笑された。
これは日本の輸入ビールを取り揃えたハイカラな店で「えびす」と言うようなものな
のだろう。(当方ではそのような下品な地ビールは取り扱っておりません)というわ
けだ。馬鹿女め。
しょうがないのでハイネケンを注文した。
僕はハイネケンの故国に住んだこともあるし、ハイネケン工場も見学したが、そうい
うことは彼らには理解しようがない。一人の外人がハイネケンという「安全な」銘柄
を指定したので取り敢えずウェイトレスは安堵していた。
春巻きなどを注文する。
気取った形で出てきた。
旨い。さすがに旨い。
サラダも旨い。色々な香草が入っている。
ワインはフランスのコート・ドゥ・ローヌを飲んだ。
リエも「おいしいいい!」と喜んでいた。
勘定をする。
東京や香港やロンドンからすれば非常に安いが、ベトナム基準で考えるとボラレた気
がする。
ホテルまで歩き、バー・カウンターでリエと飲んだ。
彼女の美貌はどこを旅行しても際立っていて、男達は振り返る。口を開けて立ち尽く
す男達を何人も見かけた。ロンドンでもシンガポールでも香港でもハノイでも一緒
だ。
僕は彼女の後ろに立って警官のように見張っているのだが、それも疲れることだ。僕
だって、美しい女が闊歩していれば振り返る。リエが傍にいる時には見ないが。
リエは高校生くらいから毎日こんなことの繰り返しなのだろうが、別に飽きていない
ようだ。彼女は人からの賞賛が嫌いではない。
世界の何処に言っても僕は「あなたの奥さんは女優か? モデルか?」と聞かれる。
が、リエの弱点は、彼女の美しさは写真に残らない、ということなのだ。
写真の中の彼女は、本人からは驚くほど見劣りする。
写真の中では輝くが、実物は貧相なモデルも多い。リエはその逆なのである。
彼女の生きたオーラは実際に会ってみないとわからない。
さて、バーで飲んだリエのマティーニはグレアム・グリーンと命名されていた。僕の
は、パーフェクト・マティーニというものだった。
グレアム・グリーンはここに宿泊し、「静かなアメリカ人」を書いたらしい。
ラウンジのピアノ青年は下手糞で、我々はトホホ気分となった。
こうして、僕らの長いベトナム第一日は過ぎていったのだ。

8月12日(月)

僕は起床するとビジネス・センターで航空券が変更できるか、ハロー湾までの旅行が
可能か調べた。不可能だと宣告された。
代わりに近郊で旅行するならどこがお薦めかと聞くと係の女性は紙に書き付けた:

HOALU - TAM COI - BICH DONG

僕は旧館のレセプションに行き、そのままコンシェルジュに紙を見せた。彼は、まだ
間に合うかわからないが、旅行代理店に手配すると約束した。部屋に戻る。
リエを起こして経緯を話し、朝食を摂ろうと言うと、コンシェルジュから「手配でき
まして、旅行代理店の者が到着しました」と連絡を寄越した。

リエとレセプションに降り、コンシェルジュから旅行代理店の小柄なベトナム人男性
に紹介されて握手し、「少々お待ち頂けますか? 我々、10分ほどで朝食を済ませ
ますから」と断って僕はリエとホテルの朝食が終了してしまう10時前に一階のレス
トランに滑り込んだ。
リエはオレンジジュースとフルーツとコーヒーで、僕はベトナム米麺のフォーとオレ
ンジジュースとコーヒー。
リエは昨晩、ホテルの部屋に次から次へと色々な人々が乱入する夢を見た、と言っ
た。「だって、百年以上経つホテルだからしょうがないわよね。部屋のドアがバタン
と開くと、礼服を着た男女がどやどやと楽しそうに入ってきたの」
食後、僕らはガイド青年の案内で車に乗り、出発した。我々二人は後部座席、ガイド
と運転手は前だ。
バイクの洪水。クラクションの嵐。排気ガス。二日目も、ハノイの喧騒は健在だっ
た。
ガイドは英語が達者で助かった。
「これ、凄い交通量ですね」と僕。
「いや、まだマシですよ」と後部席に振り返って助手席のガイド。「もう十時過ぎで
すから。早朝は全く動けないほどです」
ガイド本でベトナムの人口は八千万人だと知った。ハノイは百万だと記述されてい
た。そう言うとガイドは否定した。
「定住者は確かに百万人ほどでしょうが、周縁の農家などから百五十万人ほどが毎
日、流入してきます」
二百五十万人か。そうだろう。
「僕のフランス人の友人が」と僕は彼に説明した。「彼が以前、こう言っていた。
『北のハノイに至っては1945年でストップしていて、街には車が、そうだな合計
でも10台くらいしかなかったな』って」
「いつのことです?」
「12年ほど前」
「12年?」彼は苦笑した。「12年前、僕らは飢えていました。計画経済のせい
で」
「ドイモイ(刷新)は良かったんですね?」
「そりゃあ」
僕の母も終戦後、GIが「どうして日本人は紙と木で出来た伝統的な家を放棄するの
か?」と聞かれた時に、(私も冷蔵庫とガレージと車のある、アメリカのような家に
住みたいの!)と強く願ったと聞かされている。
12年前に、旧宗主国から来たフランス人の寝言など、彼らにはお笑い種だったのか
もしれない。
「でも」と僕は聞いた。「どうして、こんなにバイクが多いんですか?」
「二・三年前までは日本製のバイクばかりだったのですが、ここ数年、中国製のバイ
クが入ってきて、安いものですから、爆発的に増えました」
「なるほどね。でも、どうしてこんなに無秩序なんですか? 彼ら、免許は所持して
るの?」
「中国製が入ってくる前、無免許は20%ほどでした。今は50%が無免許です」
そうだろう、そうだろう。無免許でもなければ、この混沌は製造できない。
渋滞を抜けた。郊外に出た。
湖や川や池が多い。
「そうです」とガイドは言った。「ハノイには50湖があります」
英語の出来る彼を介して突然色々な情報が雪崩れ込んできた。これは、いい。
「民族衣装、アオザイを着た女性をほとんど見ませんが、どうしてですか?」
彼は笑った。「あれは、もはや、祭礼など、特別な日にしか着ません。アオザイでバ
イクに乗れば危険ですし、働くのにも不便です」
確かに。アオザイを着ているのは、スチュワーデスや店員や、サービス業の女性だけ
だ。日本の着物みたいな存在になっているのだろう。
初めて日本に来た外国人が、富士山の麓で着物を着て優雅に舞い踊る芸者ガールを期
待して、高層ビルとOLを目にしてがっかりする構図と一緒だ。
行き交う車にはダエウーやヒュンダイなど韓国産も目立つ。バイクはHONDAやSUZUKI
やYAMAHAだが、中にHADOなんていうブランドがある。ここ数年で伸びたという中国製
だろうか?
バイクは大きな米俵を何俵も運んでいる。中には巨大なガラスや看板をヨタヨタ運ん
でいる者がいる。解体したばかりの豚をバイクで運ぶ者がいる。長い天秤棒で芋や米
や野菜や果物を運んでいる陣笠のベトナム女性も多い。
「トダちゃん、凄いね」とリエは言った。「誰もが何かを運んでいるよ」
鋭い指摘だ。
確かに「誰もが何かを運んでいる」。それがそのままベトナムのキャッチコピーにな
る。
商売の基本は、生産された物を、それを必要とする土地に移動させることだ。ハノイ
では、そういったプリミティブな商売が剥き出しで路上を駆け抜けているのだと思
う。誰もが何かを必要としていて、誰もが何かを運んでいる。それがハノイだ。
右手に田園が広がった。
「ここは二毛作しています。土地は豊かで、その間、米以外のものも作っています」
ガイドは右を指差した。「田圃を囲むビニールが見えるでしょ? あれは鼠を阻止す
るためのものです。中国では蛇と猫を食べますが、彼らや、彼らに食材を供給する業
者が蛇と猫を乱獲した結果、鼠が大繁栄したのです。鼠は米を食べますから、農民の
天敵です」
食物連鎖を破綻させると、とんでもないことになる。
田圃の周辺にはバナナ並木がある。
「バナナは家畜の餌にもなります」とガイドは言った。「バナナの葉っぱは蒸した餅
米を包みますし、花はサラダに使えますし、枝も根も用途があり、一切無駄にしませ
ん」
日本での鯨の用途みたいだ、と思った。
郊外に出ても、どこもかしこも建造物は黄色っぽくて少々西洋風なのが不思議だ。少
なくとも全てのベランダの柱がデコラティブに出来ていて、これは絶対に中華圏の形
ではなかった。フランス統治の影響力は強かったようだ。或いは旧ソ流との交流の結
果かもしれない。
西洋風の教会がまた通り過ぎ、ガイドが言った。「国民の10%はカソリックです。
東南アジアでは、フィリピンに次いでカソリック教徒が多いのがベトナムなのです」
非常に勉強になる。僕は彼に聞いた。「英語はどちらで学んだのですか?」
「学校です」
「フランス語は?」
「出来ません。フランス語を話すのは祖父の世代です。若者は英語です。その間の中
年層はロシア語を話します」
各国に蹂躙され、世代ごとに言語が変わる。ガイドと運転手が時々交わすベトナム語
なるものは、香港で耳にする広東語に似ていた。広東省の一部、「呉越同舟」の
「越」国の更に南方にある「越南」と呼ばれただけのことはあると思う。
ガイドが左手を指し示した。「ご覧下さい。ベトナム製トラックです。最悪の代物
で、大気汚染の元凶で、騒音が酷い。死人も目覚める、と言われています」
「何と言う銘柄なのですか?」
「名前はありません」
旧東独製トラックも数多く走っていた。のろくて、ぼろくて、排気ガスが酷い。エン
ストも多いという。
我々の車は旧東独トラックが前方に見えると、速やかに追い越した。
ガイド・ブックにもインターネットにもないのでガイドの喋りをメモしたところによ
ると、我々はHOALUに到着した。
この辺一帯は噴出した溶岩に押し出されたような峻険な裸の山が多い。スコットラン
ドのスカイ島やバリのキンタマー二のような荒涼とした、磁力を感じさせる土地だっ
た。
「ここは物売りがあなたがた外国人を執拗にターゲットしますから、No, thank you
と意思表示してください」
確かに、そこから先は、水売り、アイスクリーム売り、帽子売り、絵葉書売り、布売
りが次々に波状攻撃してくるエリアだった。イランで同じような目に会ったリエも、
げんなりしている。僕はもっと過激なインドの物売りを思い出して自分を慰めた。
ここは966年に中国から独立し、1009年にリー・タイ・ト(李太祖)が築いた
李朝の縁の場所だった。
ガイドは色々と王朝の権謀術数と愛欲の図を話してくれたが、暑いのと固有名詞が難
しいのとで、まともにはメモできなかった。
わかったのは、大国である中国の兵隊を相手に、ベトナム兵は沼地や畦道を使ったゲ
リラ戦で対処していたということだ。それはアメリカという大国を相手に負けなかっ
たベトナム戦争と一緒だ。
恐ろしい民である。
また物売りに囲まれた。リエに野の花を渡した青年が、「僕の店に寄ってくれるとあ
なたは約束した」という強引商法で水を売りつけようとする。誰も彼もが飲料水を一
万ドンで売ろうとする。約百円だが、法外だ。五千ドンなら買うよ、というと野花の
青年は「冗談でしょ、旦那」という態度になり、近くの少女が囁くように「わたしは
五千でいいわ」と僕を食い入るように見て迫ってきたので彼女から水を買った。顔立
ちがいいのに荒んだ雰囲気の野花青年は「僕の店に寄ってくれるとあなたは約束し
た」という呪詛を繰り返し、特に花を手にしたリエの気分を害していたようだ。
物売りに罪はない。我々は買いたくない。これは行政が処理しなければいけない問題
だろう。でもな、日本の川崎大師の周辺も、物売りや物乞いはないものの、絵的に、
相当ひどい。避けられない問題かもしれない。阿呆な土産物屋から自由な観光地は皆
無だ。
また車で移動する。
これから船に乗ることになるのだが、その前にランチをすることになる。
ひどくツーリスティックな食堂で降ろされた。フランス人が多い。彼らは探検家のよ
うなサファリルックだった。大袈裟な。
また春巻きとサラダとビールを頼む。ベトナム春巻きは相変わらず旨い。
半時間ほどでガイドが戻り車に乗った。
すぐ目的地には着く。
降りると小柄なガイド青年の後を歩いた。彼は姿勢がいい。ズボンとシャツも、きち
んとした人の服装だ。英語がうまく、しっかりと構成された話しをする。
彼には最後まで裏切られないといいな、と思う。
峻険な、岩が剥き出しの肌を晒した山々の麓、濃厚な茶緑の川が横たわっていた。例
の陣笠帽を被ったベトナムのご婦人方が大勢いた。川に沿って長い艀があり、何隻も
の船が並んでいた。
小さなトタン製の釣り舟みたいなものだ。観光客が順番に二人ずつくらい先端に乗り
込み、陣笠で櫂を漕ぐ者と最後尾で長い棒で舵取りと「押し出し漕ぎ」をする二名の
計四名が一隻に収まると次々に川を降りていく。リエと僕は並んで座り、その後ろに
ガイドが座り、その後ろでベトナムのオバサンが櫂を漕ぎ、最後尾には長い棒を操る
オバさんがいた。
「船に乗った観光カメラマンがいます」とガイドが言った。「顔を向けたら撮られる
意志があったとして後で写真を売りつけられますから気をつけて」
船はかなりのスピードで進む。周りは濃厚な緑の水と水田と、それを囲むざらっとし
た岩肌の山々だけ。絶景だ。
と、前方から次々にカメラ男達が首からカメラを下げ、船を漕ぎながら近付いてく
る。彼らがカメラを構えた瞬間、僕とリエは下を向いたり、ハンカチで顔を隠したり
した。カメラ男達の接近は最初だけだった。
静かだ。櫂が叩く水面の音と鳥の囀りくらいしか聞こえない。
遥か彼方まで、たゆたう川。流される我々。水面に出た稲穂。ぬらりと顔を撫でる
風。
この穏やかな山水は、中国の水墨画で見たそのままの光景だった。
ちょっと座っている姿勢が苦しいが、これがもし船底が畳で寝転がることができた
ら、そして熱燗で川魚でも突っつければ最高だと思った。
船が洞窟を抜けた。ひんやりとした鍾乳洞だった。
暗がりの向こう、出口から、淡く輝く緑が覗くのが美しい。切り取られた緑は次第に
近付き大きくなり、やがて我々を包む。
「あの、稲穂に付着している赤いもの、見えますか?」とガイドが聞いた。
「え? どれ?」
「ほら、網に付いてるでしょ、赤いもの」
「ああ」親指大の赤いペンキのようなものが網に付いていた。「何ですか?」
「カタツムリの卵です」
「え?」
「数年前ですが、レストランで出すエスカルゴの需要に追いつこうとして、すぐに成
長するとされた台湾産のカタツムリの卵が密輸されました。ところが、これ、成長し
てもヌルヌルで不味くて料理用には適さないことがわかりました。でも、時既に遅
く、非常に繁殖力のあったこのカタツムリは幾何級数的に増殖しました。悪いこと
に、こいつら、稲を食べます。それで網を張っているわけですが、農村は大打撃なの
です」
僕は驚いた。そういわれて見ると、どこもかしこも親指大の真っ赤な卵が付着してい
る。
「本当ですね。卵だらけだ、この辺は」
「この辺だけじゃありません。ベトナムは全国が水で繋がっています。あっという間
にこのカタツムリの卵は広がりました。稲作の国としては大変なダメージです」
「その密輸人は死刑に相当しますね」
「いや、でも、彼らもここまでのことになるとは想像していなかったわけで」
「でも、ひどすぎる」僕は呆れてしまった。生態系が壊れると非常に危険なのだなと
痛感する。
「オーストラリアは通関の検疫が凄く厳しかったけど」とリエが言った。「そういう
ことなのね」
三つの洞窟を抜けると終着だった。
船に商品を載せた物売りが寄ってくる。
僕らは何も買わない。
皆、諦めて、船は帰路に向かう。
同じルートを引き返していると、今度は、陣笠で櫂を漕いでいた者が、最後尾で長い
棒舵をしていた者に船を全面的に預け、ガイドの隣へ移動してきてその先にいる我々
に物売りを始めた。我々の近所に浮かぶ白人観光客の載る船でも同じような状況が展
開していた。行きは黙って、帰りに物売り、というポリシーらしい。
残念ながら、欲しいものは一つもなく、我々は悲嘆する船女から何も買わなかった。
途中下船して車に戻る時、ガイド青年から「彼女達に少し心付けをあげてください」
と言われたので、僕はその言葉に従った。なにしろオバサン二人で船漕ぎという重労
働していたのだから、いいだろう。
田圃と荒々しい山と川の中を散策し、車に辿り付いた。
「これからホテルに向かいますから、後ろで寝ていてください。お疲れでしょう」
途中、軍属のトラックが通り過ぎ、ガイドは振り向き、思い出話をした。
「ベトナムでは十八歳から二十歳まで兵役に出ます。そりゃあ、もう、思い出したく
もない最低の二年間でした。とにかく腹が減る。でも、食い物はない。ある日、僕
は、どうにも我慢できなくなって調理場に忍び込み、大型炊飯器の底にこびりついて
いた米を水でフヤかして食べました。それが発覚したのです。炊飯器の底についた米
は通常、豚の餌になります。僕は豚小屋の外に立たされて、何度も『豚様御免なさ
い』と謝らせられました」
彼が笑いながら話しているので僕は言った。「でも、今となっては楽しい思い出で
しょ? 当時のお仲間とはその後も連絡していますか?」
「そりゃあもう、時々電話で近況を話しています」
車は何度も対抗車線に出て前の車を追い越すのだが、これが冷や冷やものだった。
「このお休みでためたストレスを取る為にまたお休みを取る必要がありますね」とガ
イドは僕をからかった。「ハノイで、この交通地獄を生き抜くには三つのことが必要
です。良く鳴るクラクションと良く効くブレーキと運の良さです」
「でも、サイゴンはもっとひどいのでしょ?」
「サイゴンで必要なのは、もっと良く鳴るクラクションと、もっと良く効くブレーキ
と、強運です。サイゴンで運転できれば世界のどこでも運転できる、そうです」
ホテルに到着したのは夕方だった。朝10時から6時間は経っている。僕はガイド青
年にチップを渡した。船女へのチップへの示唆が彼へのチップへの伏線となっている
ものと思ってのことだが、彼は意外そうな顔をして、次に破顔した。「では、また」
「では、また」
結局、知的で感じのいいベトナム青年だった。いつも観光業に携わるベトナム人の利
益と観光者である我々の利益を秤に掛けて判断してくれていた。もちろん彼だって、
我々が本物の阿呆だとわかれば徹底して毟り取ったのかもしれないが、無事に帰して
くれた。有り難い。彼のお陰でベトナムが一歩我々に近付いてきた気にさせてくれ
た。
考えてみると、彼は一日クーラーの効いた車で喋っていればいいわけで、炎天下汗水
たらして働く人々よりも格段に恵まれている。この国では英語も出来るエリートとい
う格付けになるのだろうか?
コンシェルジュに電話してフランス料理とベトナム料理を出すという「ホア・スア」
の中庭のテーブルを予約してもらった。
ここのコンシェルジュ、あまり気転が利かないので念押ししておく。
バスタブに浸かり、ベッドに横になってNHKを観て、着替えて外出した。
交渉してシクロを拾う。
誰もがことごとく吹っかけてきて、それを叩いて適正価格に導く。その繰り返しだ。
もう慣れた。
「ホア・スア」の入り口のベトナム女性は何を言っているのかわからなかったが、と
にかく中庭のテーブルに導いてくれた。TODASというような手書きのカードがあ
り、それが僕らの席だと知れた。
僕の名前は今まで飛行場の出迎えで、「TODO」「TADO」「TADA」「TI
DA」「TODI」と色々なヴァリエーションがあり、TODASなど、ましな方
だった。
テーブルには何もなかった。
従業員はどたばたと無秩序に動いていて、ワインとミネラル・ウォーターを頼むだけ
でも骨だった。
従業員の男の子も発作的にパンを持ってきたかと思うと、僕がバターを持ってきて欲
しいと言われるとまたドタバタの動きをしていて、ワインにはワイングラスが必要だ
と指摘すると脱兎のごとくグラスを探しに行き、かと思うとミネラルウォーターのグ
ラスを探したり、とにかく一生懸命ではあるのだが、無駄な動きが多い。普通のマ
ネージャーがいれば教育するだろう。
曰く、客が勘定して去ったら、トレイにナイフとフォークとグラスを一揃い載せて直
ちにセッティングすること。そうすれば彼のようにドタバタ動かなくて済む。
そういうことをリエと話しているうちに、それほど際立ったものではない料理は終
わってしまった。
ここは孤児を引き取って訓練するなど、非常に意義のある事業をしている団体によっ
て運営されているはずなのだが、レストラン運営を理解しているマネージャーを雇わ
ないと、その善意の事業が成り立たなくなる、と我々は危惧した。
食後はゆるゆると歩いてホテルまで帰った。
今晩がハノイ最後の夜だ。
ホテルのバーでナイトキャップをした。

8月13日(月)

僕は早起きした。まだ暗い。朝の四時半だった。
やはりご婦人連れだと自由に、縦横無尽には移動できない。
リエは今から六時間は起きないはずだから、僕は初の単独行動をした。
白い綿の長ズボンにナイキの靴。上はTシャツだ。
メトロポール旧館の正面玄関を出て右に折れ、次の角を左に曲がった広場を歩いてホ
アンキエム湖畔に向かった。まだ例のうるさいバイクはほとんど走っていない。この
広場に、暗闇の中、街灯に照らされ、短パンで上半身裸、中国系の初老男性の姿が
あった。しかも彼は小刻みに走っている。こんな真夜中というか早朝にパンツ一枚で
走るとは酔狂だ。
広場を進んでいくとまた一人初老で腹が突き出たパンツ走り人がいた。
何かに追われているでもなく、余裕で小刻みに走っている。
短パンにランニング姿もあった。どうやらこんな時間に「運動」しているらしい。老
人達は朝の四時半から「運動」して体を鍛えているのだ。ベトナム戦争の兵士あがり
だろうか? 60歳を越えた人々ばかりだから、27年前の終戦時、33歳くらい
だったわけだから、それはあり得る。一般人が夜中に体を鍛えるだろうか? ゲリラ
戦士の血がそうさせるのではないか?
多分、その考えは外れだ。
ホアンキエム湖畔には大勢の小走り人がいた。ちゃんとジョギングウェアを来た中年
の男がいる。中年女性も走っていた。初老なのに腹の突き出ていない頑健な体つきの
男が短パン一枚で走っていた。チャイナ寝巻きを着た老婆まで走っていた。ゲリラ戦
士だけじゃない、誰もが走っていた。かなりの数の一般市民が闇の中、ジョギングを
していたのだ。ちょっと前まで飢えそうになっていた人々が、どうしてこんな無駄な
エネルギーを使うのか不思議だ。
太極拳をやっている集団までいた。そういえば、中国系が多い。財産である体を鍛え
ておこう、という華僑的な考えなのだろうか?
僕はホアンキエム湖畔の北側から旧市街へと足を伸ばした。
シャッターの閉まった店が並ぶ。商店街の間の住居から出てきた住人らしき中年の男
は小脇に新聞を挟み、短パン姿で、入り口の鍵を閉めてから小刻みに走り出した。
やはり皆、早朝に起きだしてジョギングしているのだ。
ハンザ市場の南側、Ngo Tramと表記された狭い通りには信じられないほど多くのベト
ナム女性が集合していた。彼女達は走っていない。陣笠ルックの彼女達は笊付き天秤
を肩から下げているのだが笊の中身は、マンカウ(カスタード・アップル)だった。
マンカウは林檎くらいの大きさの、緑の果物なのだが、その表面が仏像の頭のように
ぽつぽつしている不可思議な形態で、中身はカスタードのようにぷりぷりしていて甘
い。彼女達は自分の担ぐ天秤籠一杯に、商品を仕入れているのだ。
この通りの両脇の店は全てマンカウの問屋だった。それぞれの店には積まれた段ボー
ルがあり、その中はマンカウの緑の仏像頭がぎゅう詰めだった。
こういう場所には必ず、地べたに座るような形で、飲料水やスナックや煙草を売る小
さな店があるのだが、僕はその一つ、軒先の、地上30センチくらいの小さなプラス
チックの椅子に座ってハイネケン・ビールを注文した。店主も客もこのチビ椅子に間
近に座って、日本の夜店みたいなものだ。恰幅のいいランニング姿の店主がカカアに
何か言うと、カカアは店の奥からぎんぎんに冷えたハイネケンの缶を持ってきた。生
ぬるいビールを想像していたので有り難い。周りでお茶を飲みながら、ばら売り煙草
を吸っていた男の客が、眠そうな目に好奇心を見せ、店主と言葉を交わしていた。
ビールは一万ドンだった。百円くらいだ。店主が太く長い竹のパイプを取り出し、横
の穴にカンシャク玉くらいの大きさの草を詰めて吸っていた。
僕が物欲しげに見ていると、お前も吸えと差し出した。
吸った。店主の後だったのでスカだった。
店主はまた包みを開いて新しい玉を入れ、今度はそれを吸えという。芯のある紙に火
をつけ玉に点火したので吸ってみた。凄い一撃だった。
店主は、くらくらしたろう、と手真似で言い、僕は同意した。
店主と入れ替わり、カカアが台座に陣取った。僕は普通のお茶とマイルドセブンを一
本買ってぼおっとマンカウ問屋街を行き交う陣笠と天秤棒のベトナム女性流れを眺め
た。煙草とお茶の代金は一千ドン。10円ほど。安い。
僕はまた旧市街をそこらじゅう歩き回り、北ベトナム特有の米麺、フォーを食べさせ
る手頃な店を捜した。もう六時に近い。店は活気があり、客も入っているし、若い女
子従業員が仕込みや料理や給仕で忙しく働いている。これだ、直感が働く。常連も出
勤前らしき身なりのいい人々である。
メニューはフォー・ボーこと、牛肉入りスープ米麺しかない。僕は指差して注文し、
座ると出てきた。白く細く平たいフォーに、煮込まれた牛の色々な部位が浮かび、
様々な香草がまぶされて、半分に切ったカボスが載っている。近くにいた女性の作法
を眺めていると、カボスをまずブリキのレンゲの上で絞ってチリやニョクマムを振り
かけて自分の味にしてから食べていたので、僕もそれに倣った。
旨い。非常に旨い。これは後でリエを連れてこよう。代金は7千ドン、百円しない。
ペンもメモも持っていなかったので、店の名前『PHO BO DAC BIET』を看板で確認し
て記憶した。
ここに書き留めたからもう忘れてもいい。
僕はまたホアンキエム湖畔に戻った。で、圧倒された。日の昇った湖畔には健康にと
りつかれた老若男女が集合して飛び跳ねていた。ぐるぐる湖畔を走る者、太極拳する
者、ボールを蹴る者、バドミントンする者。皆、ムキになって運動している。という
より、にこにこしているから、楽しんでもいるようだ。全くわからない。昼間、あん
な出鱈目な交通地獄を展開していて、しかも朝6時からこんなに飛び跳ねて、君たち
は疲れないのか?
家族や友人や同級生とスポーツしていて、道路にもネットを張ってバドミントンして
いる。皆ニコニコ本当に楽しそうだ。皆で楽しく健康スポーツ! とでもいう、共産
政権的なプロパガンダに乗せられているだけなのだろうか?
この明るさは不気味だ。
ホテルに戻ると6時半だった。2時間歩いてビール飲んで現地の草を吸ってお茶を飲
んでセブンスターを一本吸って美味しいフォー・ボーを食べて総経費200円であ
る。ベトナムはこういう楽しみ方が、恐らく一番なのだろう。
僕はシャワーを浴びて少し休んだ。
10時前にまた起きてリエに健康強迫観念のベトナム人像を伝えた。
「あんなに痩せて小さい人達なのに運動する必要あるのかしら? 昼も忙しく動き
回っているのに。きっと、トレンドよ、それ。ほら、昔、ニューヨークのキャリア
ウーマンの真似をしてジョギングシューズで出社して社内でハイヒールに着替えると
かいう事が日本のOLの間で流行ったけど、結局、ジョギングシューズが臭うとか面
倒だってことで一過性の」
「そうかもね」
「健康コンシャスなトレンドなんじゃないかしら、単に」
僕らは朝食を食べ、オペラハウス裏手にある立派な歴史博物館を見た。
中国の影響が濃い。中国文化を学んだリエには越南は単なる亜流に映ったようだ。
次に隣の革命博物館に行った。これはショボイ。ほとんど報道写真だけで構成されて
いるのだが、その写真がボケていて何が写っているのだかわからない。建物は立派だ
が、館長はボケなのだろう。もう少しやりようがあるだろうに。タイムやライフから
写真を借りればもっと鮮明な映像を披露できるはずだ。学芸会の展示並だった。
革命博物館の隣のビアガーデンで食事しながらビールを何杯も飲み、酔っ払ってホテ
ルに帰り、荷造りしてチェックアウトした。スーツケースはホテルに預けて車を
チャーターして近郊の陶器の町バチャンに行った。
二・三日前にバチャンでは浸水があったということだが、今日は回復しているとい
う。
またバイクの並と田園と川を縫ってドライブした。どこまで行っても建物は洋風だ。
そこに牛の姿が加わり、氾濫する川に浸った農家や小屋が目に入る。
バチャンは町の半分が浸水していた。
僕らは被害を免れた残り半分のショップを念入りに覗き、でも結局は何も買わなかっ
た。
運転手にホテルへ引き返すよう頼む。
そして今回初めてバイクが路上に転がる交通事故現場を目にした。
すぐ通り過ぎてしまったが、やはり、これだけの交通量だから事故は頻発しているこ
とだろう。
ホテルに帰り、またシクロを雇って旧市街のハンザ市に行った。店をひやかしている
うちにベトナム・コーヒーを交渉して買った。旧市街を散策する。僕らは僕らで無秩
序な交通地獄にも慣れて道を横切れるようになってきた。古風な喫茶店に入った。何
もない土間の真っ暗な店内の椅子に座ってベトナム緑茶を飲みながら明るい通りを眺
めていると、陣笠の中年女性やバイクや子供が行過ぎる。「ああ、異国って感じね」
とリエが言った。「わたし、ハノイは観光というよりは、住んで楽しむ街だと思う。
住んだら、だらだらと喫茶店で過ごしたり、街をぶらぶらしたりで、楽しそうじゃな
い」
確かに。
喫茶店を出た彼女を朝行ったフォーの店『PHO BO DAC BIET』に連れて行った。
ニュクマムの好きな彼女どばどば入れて、旨い旨いと食べていた。「わたし、高級ベ
トナム料理より、こっちの方がずっといいわ。ここは、やっぱり住んで楽しむ街よ」
僕らは美術用品屋街を歩き、水牛の角製のサラダ用フォーク&ナイフを買ってからタ
クシーを拾い、ホテルに戻った。
17:00に予約していた別のタクシーに乗り込み、我々は空港に向かった。
さよなら、ハノイ。
僕は考えた。
ベトナム戦争が1975年に終わってから27年が経っている。日本で考えれば19
45年に敗戦を迎えてから27年経った1972年を想定すればいい。1957年生
まれの僕にとって、つまり、1972年に15歳だった僕にとって、1972年当
時、既に太平洋戦争は非常に遠い過去の話しだった。世の中は高度経済成長の後で物
が溢れ、直後のドル・ショックで揺れていたものの、概ね太平楽だった。
今ベトナムで15歳の若者は1987年生まれで、刷新(ドイ・モイ)の翌年にうま
れている。彼らにとってベトナム戦争のリアリティーはなかなか理解できないだろ
う。僕だって、疎開とか防空壕とか焼夷弾とか灯火管制とか配給とか東条とか特攻隊
とか関東軍とか、そういう話しは読んだり、親から聞かされたりしてきたが、現代の
ベトナム青年がJFKとかテト攻勢とかソンミ村とか枯葉剤とかニクソンとか聞かさ
れてもぴんとはこないだろうことは容易に想像できる。人間なんて25年、四半世紀
というスパンで考えるのが関の山なのかもしれない。
25年経てば歴史は風化する。それは致し方ないことだ。25年以上の歴史をリアル
に引き摺って尚且つ健全に生きることなど、並の人間に出来る芸当ではない。
忘れてしまうものは忘れてしまう。
僕らにはベトナム人に、「ベトナム戦争」を総括させる権利はない。彼らが忘れ去ろ
うとしていたとしても仕方がない。我々の口出し出来る問題ではない。彼らがヘル
ス・コンシャスなジョギングを好むならジョギングをするだけだ。1957年生まれ
で、戦争に関する本を相当読んだ僕でも、太平洋戦争はあまりに遠い。1987年生
まれならば親の世代の話すシケタ戦争の話しにはうんざりしているに違いない。人間
は忘れる動物だ。だから僕はこうして物を書いているのだろう。







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