香港の自宅だ。起きてから部屋を掃除する。朝からビールを飲みながら、だ。日本製
のカップ麺まで食べてしまう。植木等じゃないが、「これじゃ体にいいわきゃない
よ」なのだ。「わかっちゃいるけど、やめられない」
以上、わかる人には、わかる。
スーツケースに荷物を詰めて準備が出来た。リエが起きてきたのでコーヒーを炒れて
飲む。彼女も準備して部屋を出たのは正午過ぎだった。
タクシーを拾って上環まで降りる。凄い渋滞だ。ミド・レベル(半山)から真っ直ぐ
下山する時にタクシーは使うべきではないと学んだ。半山から横に、アドミラルティ
やコーズウェイベイに出る時はタクシーに限る。が、垂直降下の場合はエスカレー
ターだ。
タクシーが横付けされた上環のマカオ・フェリー・ターミナルは立派でモダンなコン
クリートの建造物だった。
三階に行き、ボードを見て、次の12:30を買おうとすると、「スーパークラス」
しか席がないと言われた。料金は倍ほども違う。
奮発した。二人で約500香港ドル。約八千円。どれだけエコノミー席と違うのか。
昔はターボ・キャット社とジェットフォイル社が熾烈な戦いを繰り広げていたそうだ
が、1999年に合併して今はターボ・ジェット社が独占しているという。
スーパークラスはエコノミーの上の階に導かれた。
エアコンがぎんぎんに効いている。
そしてターボ・ジェット社のフェリーはマカオに向かった。
走行は安定している。
飛行機のようにスチュワーデスやシュチュワードがいて、軽食や飲み物をサーブして
くれた。これがスーパークラスの扱いというものだろうか。航海は一時間弱に過ぎな
い。冷房が効き過ぎでリエは震え上がり、僕のTシャツを重ね着した。
14:00には港に着く。スーパークラスの我々は先導されて真っ先に下船できる。
だから、どうした。帰りはエコノミーにしよう。
マンダリン・オリエンタルのシャトル・バスが二台待機しており、先発車でホテルに
移動する。
呆気ない。港から車で5分の距離だった。
ホテルは、ごくごく普通で、我々がシンガポールで住んでいたコンドミニアムと同じ
ようなものだった。小奇麗な南国風の建造物、椰子の木、輝く緑、青くきらめくプー
ル。こんなもの、寒い国から来たスパイや欧州人や日本人からすれば、「わおお
う!」なのだろうが、こういう場所に二年間住んでいた我々は「いやあ、大衆的な、
平均的なとこだなあ」と失望は隠せない。
特に海辺のヴィラを借りようとしていたリエはお冠である。
やれやれ。
僕は部屋でシャワーを浴びる。
シンガポールからはインドネシアのビンタン島やバタン島に週末、足を伸ばせる。そ
ういった島のリゾートは充実しているし、シンガポールの仲間とバニアン・トゥリー
などのヴィラを借りて楽しんだこともあるリエはイメージの落差に苦しんでいる。
次回からは金だけ出して口は出さない方式で、彼女に仕切らせよう。
タクシーを拾い、リエが調べていたホテル、『ポウサダ・デ・サンチャゴ』に向かっ
た。
ホテルから西に進んでいるこの大通り、「Avenida da Amizade」はポルトガル名で、
中国語では「友誼大馬路」となっている。通りを挟む建物は西洋風だ。
右手にアジア最大と言われるカジノが入っているというホテル・リスボンが見えた。
下品な感じのケッタイなビルだ。この周辺は巨大ホテルとコンベンション会場みたい
なものばかりしかなくて寂しい感じだ。人通りも少ない。
ここマカオと隣のタイパ島を結ぶ長く高く巨大な高速橋、マカオ・タイパ橋というの
がある。2キロ以上の長さがあり、地上二十階建てくらいの高さは、大きな船を通り
抜けさせるためなのだろうが、圧巻だ。マカオ・タイパ橋の手前のロータリーをタク
シーはぐるりと回り、市街地に入り、『ポウサダ・デ・サンチャゴ』の前でとまっ
た。
右手には海があり、左手には『ポウサダ・デ・サンチャゴ』らしきも要塞がある。そ
う。ホテルは山肌に付着した要塞に見える。剥き出しの岩肌と塗装の剥げたホテル外
観が一体となっている。リエと僕はドアを開けて中に入った。おやおや。鍾乳洞に迷
い込んだようだった。欧州にはこういう造りのホテルやレストランが多いが、ひんや
りとした洞窟を抜ける階段を上がる。これは、やはり、リヒテンシュタイン辺りの、
中世から存続するホテルに似ている。洞窟にランプがあり、両脇の溝に速水が流れて
いる。
上階にレストランがあった。
建物はやはり17世紀の要塞だったという。
ホテルのレストラン「オス・ガトス」で食事した。
ポルトガルの漁村ナザレで食べたものと同じメニュー、炭火焼鰯と冷えた緑葡萄酒を
摂った。まあまあ、ポルトガルの味は出している。
食後、レセプションに寄って部屋を見せてもらった。
内装も家具もアンティークだった。次回はここに泊まる、リエは言っていた。
レセプションがタクシーを呼んでくれ、旧市街のど真ん中、セナド広場で降ろしても
らった。
町は欧州の小振りの町並みそのままで、イギリスの地方都市のようである。それは
「ボディー・ショップ」などがあるからだろう。ちょっと明るめのリスボンである。
観光客が多い。リエはケンブリッジあたりの商店街の雰囲気に似ているという。
聖ドミンゴ教会という、黄色い壁に緑の木枠の建物があり、中に入った。善男善女が
集っていた。正面のカラフルな聖母子像の下で、伝統的なガウンを纏った神父がい
た。ポルトガル語で説教していたが、その顔は中国人だった。不思議な感じがする。
善男善女も年老いた中国系の人々である。皆、ポルトガル語が理解できるわけだ。ポ
ルトガル語はポルトガルとブラジルでしか使えない汎用性の面ではマイナーな言語で
ある。
中国に返還された1999年からポルトガル語人口は減っていることだろう。英語と
中国語が増えているはずだ。
この教会は、17世紀にドミンゴ修道会がつくったもので、返還前の97年に改修さ
れたらしい。
教会を出てツーリスティックな商店街から次第に外れてきた。
裏道のうらぶれた、「諦め」の漂う無気力な雰囲気は、旧宗主国ポルトガルと驚くほ
ど似ている。
今や「EUの後進国」に属するポルトガルに殖民されてきたというのは、言語的な面
を含めて非常にワリを食ったと思う。
ポルトガルのキーワード、郷愁(サウダーデ)はそのままこの国に当て嵌まる。宗主
国の持っているムードがこれだけの距離を越えて伝わるというのは興味深い。
インドのゴアもポルトガル風の教会などが目に付いたが、マカオほど濃くはなかっ
た。
商売気のなさそうなアンティーク通りを抜けると強大な教会のような石造りのファ
サードが見えた。
長く広い石段の上に巨大な平べったい墓石のように聳えていた。
聖ポール天主堂跡だそうで、17世紀にイエズス会が建造したのだという。関わった
人々はポルトガル人だけでなく長崎を追われた日本人も加わって20年かけて作った
というのだが、1835年に近隣の学校火災が飛び火して、天主堂はファサードを残
して焼失してしまったのだ。
石段では子供達が爆竹というか、小さな2B弾のようなものをパンパン鳴らして遊ん
でいた。座り込んで絵葉書などを売っているオバサンが2B弾も売っていて、子供が
それを買ってパンパン遊んでいるのだった。
ファサードの奥は綺麗に整理されていた。鉄骨で補強され、厚いガラスが張られ、照
明も施され、鉄階段から納骨堂を見ることも出来るように工夫されていた。
隣の公園にはマカオ博物館があったが、ちょうど閉館直前だった。明日行くことにす
る。
タクシーを拾ってホテルへ戻った。
少々休んで、日が落ちてからタクシーを呼んで評判のウエスティン・ホテルに向かっ
た。
ホテルは巨大な橋を渡った向島にある。かなり遠方だった。
どうということもないホテルである。
ホテルのシャトル・タクシーで評判のレストラン、「フェルナンド」に行った。店は
大繁盛で、一杯、席を予約してバーで待ったが、全然順番が来ないし、皆の食べてい
るものもそれほど美味しそうには見えない。待ちきれずにタクシーを拾って帰った。
リエは「フェルナンド」のバーで飲んだビールで食欲がなくなったという。僕はルー
ムサービスでクラブ・サンドを頼んだが、これは非常に不味かった。
真夜中近くになってタクシーで、香港の繁華街ラン・カイ・フォンに匹敵すると言わ
れている海沿いの新開地、観音像の近くの新海湾大馬路に行った。
海沿いのJAZZクラブに入る。
がらがらだった。今夜はギグがないという。
リエと僕だけが客となったところで僕はウェートレスに許しを得てからステージに上
がってピアノを弾いた。高校生の時には弾けたショパンのノクターンも指が動かな
い。もう色々な曲を忘れてしまったのが悲しい。
家にピアノを買おう、ということになった。
「昔は強制的にピアノを習わされたけど」とリエ。「今なら本当に楽しんで弾けそ
う」
マカオ博物館で過ごす。入れ物は立派だが、中身は空疎だ。この国自体が、住んでい
る人には申し訳ないが、今一つ空疎だと思う。空疎さではハノイの革命博物館はもっ
とひどかったが、あそこには街に活気があった。
マカオ博物館上階で常時上映しているビデオは上出来だった。
タクシーを拾って975 Av. de Praia Grandeにある立派な造りの建物「陸軍倶楽部
の」餐廳(レストラン)Restaurante do clube Militarniに行った。
非常に贅沢な感じである。お昼時を過ぎたためか客は少ない。
従業員は小奇麗で、料理もしっかりしていた。
食後は16:30のフェリー便で香港島に戻る。
上環からMTRで、コウズウェイベイに出て散策し、サッポロラーメンを食べる。
マカオより香港にいたほうが楽しい。
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