戸田光太郎の21世紀的香港日記 2003年

2003年5月1日〜5月11日


2003年
5 月1日(木)

GW。
朝起きて読書する。
インターネットで仕事。
リエが起きてからお昼になったのでランチは(2200円もする!)「黒船亭」(http://www.kurofunetei.co.jp)のハヤシライスのセットを白ビールで。凄いボリューム。半分のサイズもあるそうだから次回はハーフにしよう。繊細なサラダと豪快なハヤシライスが旨い。ランチタイムを過ぎても客の列は途絶えない。
このレストランはエレベーターが開くとすぐ入り口だったのだが、開くと同時に従業員が「先にお着きのお客様は?」と聞いていた。つまり、エレベーターから先に降りる人間は乗る時点では後から入ってきた人になるからであり、多分、そういうことで喧嘩になることもあるのだろう。僕らはエレベーターに駆け込んだ組なので先に降りたが、きちんと順番にさせられた。
銀座線で表参道に行く。名物の、汚い昔のアパート(順天堂アパートだっけ?)が、空になっていた。再開発の立ち退きだろうか。
表参道は相変わらず。店がいくつか入れ替わっていた。割と年配の通行人が多い。
原宿まで歩き、久々竹下通りを歩いた。少年少女でごったがえしている。
表参道を引き返して、根津美術館へ向かう。
リエも僕も喉が渇いたので庭にある喫茶店でお茶する。
コーヒーはフィルターでコーヒーポットに作り置きで500円。高い。ただし、この喫茶店はガラス張りで新緑が目にしみて、まあ、これが料金に含まれていると考えて納得するしかない。
楓が多い。秋口になると紅葉が美しいことだろう。
しかし、秋にリエと東京に来るとは限らない。
美術館に入った。
尾形光琳が良い。
美術館の日本庭園を散策すると、池には先ほど見た尾形光琳の菖蒲と同じ光景があった。
銀座線で稲荷町駅で降り、ウィークリー・マンションに帰る。
インターネットで仕事。
上野に出る。
ユニクロで買い物。
おっさんしかこない縄暖簾系「大統領」でリエと、お酒と煮込みとモツ焼き。
後で寿司も食べる。

5月2日(金)

四代目尾上松緑襲名披露の五月大歌舞伎を観に歌舞伎へ行く。
歌舞伎は初めてだというリエは非常に喜んだ。幕間にロビーで僕の横50cmくらいのところに着物姿で品の良い藤純子がいた。今は富司純子と名乗り、尾上菊五郎の妻だが、昔は緋牡丹のお竜として高倉健とタッグを組んでいたのだ。
舞台では尾上菊五郎もさることながら、市川団十郎(12代目)は非常に迫力があった。
シンガポールと仕事の電話。
六本木に出る。ヒルズは大した場所ではない。
20:00から21:00まで待って(大衆酒場で飲む)「叙々園」で夕食した。やはり旨い。
帰宅してインターネットで返信。

5月3日(土)

リエと午後に鰻の白焼きと「上」を食べる。酒とビールで。
タクシーで六義園に移動する。都会のオアシスのはずだったが、GWで非常に人出が多い。
老人の原宿、巣鴨の刺抜き地蔵を散歩。
JRで帰り、リエにアルマーニの夏服を買う。
散歩。
山芋蕎麦で酒とビール。
後で餃子も食べた。

5月4日(日)

近所の蕎麦屋で昼食した。ざる、と辛おろし。酒と黒ビール。本格的な味を出している。
丁寧に蕎麦を茹でているから時間が掛かるのが難点だ。
JR上野から京浜東北線で品川まで出て買い物。
京浜急行の普通でのろのろと黄金町まで行く。
久々に自分の両親に会う。
サラダを食べた。
近所の蟹屋で食事する。
伊勢崎町を歩き、久しぶりの関内からJRで一本で、上野に帰る。
リエが「一蘭」でラーメンを食べたいというので付き合う。

5月5日(月)

GW最後の日だ。
10日間のSARS検疫期間が終わり、GWも明日で終わるのでオフィスに出向く。
08:45に到着してしまう。まだ誰もいない。
一日、準備。

5月6日(火)

しょっぱなから、大阪出張。

5月7日(水)

大忙し。

5月8日(木)

大忙し。

5月9日(金)

大忙し。さっそく普通の東京出張モードに入った。

5月10日(土)

僅か2週間過ごしただけの東京だが、荷物が増えていた。
僕とリエのスーツケースに収まらず、ブティックの大きな紙袋などに分散して荷物を纏め、東上野のウィークリー・マンションの前からタクシーを拾って、周辺の雰囲気が180度違う、赤坂プリンスに向かった。
皇居の緑、官公庁、永田町の物々しい建物、高速道路と高層ビルを抜けて、弁天橋を通って、ガードに誘導され、ゆったりとした車寄せにタクシーが停まった。
ボーイがドアを開ける。ベルボーイがトランクを開けてカートに荷物を積む。
いやあ、この辺りは、東欧から来た娼婦と日本人の手配師がうろちょろしているウィークリー・マンションとは雰囲気が違う。
モーニングに白いタイというような老人と、それに付き添う御婦人が多い。赤坂プリンスでは、褒章、受勲、そして結婚式が多いのだ。
ここで、よほど嫌な思いをしなければ、リエと二人で、三週間ほど住むことになる。
交渉して高層階の部屋にしてもらい、女性の、赤い制服を着た「ベルガール」の案内で、これまた赤い制服の若い女性ポーターが荷物を持って、高層階の部屋に案内された。
なかなか広かった。
ぐるりと張り出した窓(そこに曲線ソファーが並ぶ)からハイウェイの立体交差が見下ろせる。
部屋を出て赤坂を散歩した。
餃子専門店でビール。味はまあまあ。
思い出し出し、赤坂の「砂場」を見つけ出して蕎麦を食べた。
のろのろと六本木まで歩く。
交差点から乃木坂まで降りてニューオータニの日本庭園を散策して帰る。
今日はかなり歩いた。

5月11日(日)

朝起きてから一人で散歩した。
向かいのニューオータニの日本庭園を抜けてホテル正面出口を左に折れて土塀沿いに歩いていく。この土塀の中が見える迎賓館の正面に出る。四ッ谷駅から上智大学。土手を歩いてニューオータニに戻った。いい散歩コースだ。
カメラ撮影していた。モデルの女の子が二人。素人のカメラマニアが迎賓館の前で腕試ししているのだった。
リエが起きてから朝の散歩コースを途中まで行く。日本庭園は美しい。
迎賓館を見て、ウィーンあたりの建築みたい、とリエ。ネオバロック様式は広範に伝播しているからウィーンであってもパリであってもいい。
新宿まで延々と歩く。
ラーメン屋で「一蘭」をそっくり真似した店があって食べた。まあまあ。
歩行者天国に行き着く。
「ミスドが懐かしい!」と言い出すリエとミスター・ドーナツへ。僕は甘いものが嫌いなので、コーヒーだけ。彼女は何だか昔から馴染んでるアイテムを食べていた。
歌舞伎町を歩く。
映画を見る。新宿のミニシアターで「小さな中国のお針子」という綺麗な作品。◎。
中国の下放政策で僻地に来たインテリ青年二人組みと村人や小さな中国のお針子との交流が描かれている。青年たちはバイオリンを持っていたり、映画を弁士のように(動画なしで)説明したり、バルザックの本を読んで聞かせたり、全く異なる文化の香りを村に吹き込み、皆を魅了する。
監督のダイ・シージエ自身、1971年から1974年まで、下放政策により四川省の西康の山岳地帯で再教育を受けたらしい。1984年に中国の給費学生としてフランスに渡り、パリ大学に留学し、美術史を専攻する。ここでジャン・ルーシュ、エリック・ロメールに出会う。その後IDHEC(パリ映画高等学院)に入学し、数本の短編を中国で撮る。『小さな中国のお針子』は自ら書いた初小説「バルザックと小さな中国のお針子」の映画化だそうだ。
文学や音楽というものの力を描いているから下放政策には逆行する。
現代に戻るエンディングは余計だったが、良い映画だった。
タクシーを拾って赤坂プリンスに戻る。ここはインターネットで探した特別料金で宿泊しているから定宿よりも安い。安くて広い。環境もいい。個人が旅行代理店のように情報にアクセス出来てブッキングできるのだから、「代理店」というものの存在が問われてくるだろう。
夜、リエと六本木へ出る。
不良外人ばかりの「モータウン」でビールを飲んでから、また「叙々園」で食事。旨い。



 
 




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