戸田光太郎の21世紀的香港日記 2003年

2003年5月12日〜5月24日


2003年
5 月12日(月)

昨晩の韓国焼肉で、月曜日から口の中が、もあっ、と大蒜大魔王状態である。
13:30に近くでミーティング
上野で、うなぎ屋によって弁当を買う。
地下鉄でホテルに帰る。
リエはぱくぱく、おいしいと弁当を食べていた。
夜に二人で散歩した。
オータニ日本庭園から土手まで出て、コンビニによる。

5月13日(火)

シンガポールと朝からコンフェレンスコール。
忙しい一日。

5月14日(水)

朝は赤坂で蕎麦を食べてから千代田線に乗る。がらがら。
港南のインターシティーで打ち合わせ。
ここも汐留みたいなゼネコン天国だ。
昼は「月の雫」というところでビジネスランチ。
大きな旅館みたいに大人数のランチ客を捌いていた。
夜は絵馬亭でグループディナー。
21:00にはお暇する。
リエはついに赤プリのマダム・ライフに飽きてきた模様。贅沢な悩みである。

5月15日(木)

8時にはホテルを出て銀座線で上野広小路へ。
出社する。
09:53ののぞみ9号で広島に向かった。
会議の後でぎりぎりの時間を有効活用してN社長とお好む焼き村に行き、広島名物を食べる。美味しいけれど、お好み焼きはやはり炭水化物なお好み焼きである。
16:30の新幹線に乗って21:00頃に東京に戻る。
浜松も大阪も広島も一日仕事となってしまう。

5月16日(金)

すぐ汐留に行く。
戻ってからオフィスで仕事。
リエが来て一緒に寿司を食べる。
その後で新橋の「ウェスタン」で飲んだ。ここに通って10年くらいではないだろうか。
「CANDY」でワインを飲む。ここに通って10年くらいではないだろうか。
タクシーを拾って赤坂に戻る。

5月17日(土)

この日記でも前に「りそな」という銀行の名前の馬鹿々々しさには、「はてな」と疑問を呈してきたが、朝刊に出ていた。「りそな、公的資金申請へ」。
馬鹿な。税金を入れる価値はない。潰せ。
日本を観光の台湾人がSARS発病したということで日本中がひっくりかえっている。
山の上ホテルにリエを案内する。が、僕の好きなバーはまだ開いていなかった。
神保町のカレー屋の中でも老舗中の老舗。千代田区神田神保町1−6サンビル地下1階「共栄堂」でカレーを食べた。スマトラカレーだそうだ。旨いが、日本のカレーとして普通に旨い。インドカレーの複雑な香辛料の絡みを知る人は物足りないだろう。神保町で本を大量購入した後にはもってこいの店。
書店を逍遥してホテルへ帰る。

5月18日(日)

起きてから延々と読書。
お昼にようやくリエが目覚め、準備してから赤坂見附のビルに立ち寄り文芸誌「EN−TAXI」を買う。リエは「ダ・ヴィンチ」を買って読んでる。
丸の内線で新宿に出てロマンス・カーのチケットを購入。14:10発、15:15着の江ノ島行きだ。
新宿西口のドトールでコーヒーを飲み、時間を潰してから久々にロマンス・カーの乗客になる。
「EN−TAXI」は面白い。特に石原慎太郎との鼎談が興味深く、俎上にあがった伊藤整の最後の三部作は読んでみたくなった。
最悪なのは柳沢みきおの漫画だ。小林よしのりの路線を狙っているようだが、あまりに考え方がお粗末なので嫌な気分になった。こいつ、馬鹿である。知識もなければ頭も悪い。
江ノ島に着いてからリエが抜群の記憶力で金曜日の夜に「ウエスタン」のマスター佐藤さんから教えてもらった料理屋の名前を思い出し、駅前の観光案内所で場所を聞き出して辿り着いた。
磯料理と海産物の「きむら」である。住所は藤沢市江ノ島1−6−21、江ノ島ヨットハーバー前である。電話0466−22−6813。
ここが猛烈に旨かった。刺身盛り合わせ、サザエの壺焼き、あわびの塩焼き、蛤の塩焼き、あじの刺身、かわはぎの刺身(これを肝のすり身と酢に付けて食べる)、蛤の味噌汁、ご飯。これにビール、焼酎、梅酒ワイン、などなど。恐らく、今回の日本滞在中、最も美味しい料理だった。
「きんめ鯛の煮付定食と生しらす」が金曜日のお勧めだったのだが、それは忘れてしまっていた。いずれにしても旨い。来週も食べに行きたいくらいだ。
江ノ島を散歩して階段を昇ったり降りたりでへとへとになる。江ノ電の駅に辿り着く頃には18:00を回ってしまった。長谷寺に寄るのは断念して、いざ鎌倉へ。
リエも子供の頃乗ったそうだが、江ノ電は町中を縫って走り、海に出て、景色は素晴らしい。陽が落ちてしまったのは残念だ。江ノ電側の改札からJRの正面口に回って、こまち通り(途中に古本屋があって、リエは矢野顕子の本などを買った)から鶴岡八幡宮へ。
駅まで散歩する。
鎌倉方面に来たのは実に久しぶりである。中学二年から高校生までは良く来たものだが、大学生になって京都に下宿してからはご無沙汰である。
JRで新橋まで行き、銀座線で赤坂プリンスに戻る。
フロントマンに一週間分を支払わされる。
確かに長期滞在者だから逃げられては困るだろう。

5月19日(月)

T社でNさん最後の日となった。お疲れ様でした。
シンガポールと電話で定例会議。
NさんとN社長とで昼食を「天庄」にてお別れランチ。
準備してからダブルNさんと神楽坂方面へ行く。
帰りに「シナ蕎麦」で軽食。
夜はリエと落ち合って赤坂の「コージーコーナー」でカレーライス、夏のスパゲッティ。ケーキ。
「一蘭」をぱくった「康龍」でラーメンを食べるリエに付き合う。僕はビールだけ。

5月20日(火)

急遽、シンガポールに飛ぶことになる。
チケットをお邪魔しているT社に手配して頂く。
水道橋辺りの会社で打ち合わせ。
オフィスに引き返す。
赤坂プリンスの金庫に入れておいた旅券と下着などを持ってリエがオフィスにやってくる。
16:00過ぎには送って頂いて上野の京成スカイライナーで成田へ。
SARSの影響で、成田空港はがらがらだった。

5月21日(水)

午前3時頃にシンガポールのチャンギ国際空港に到着。
非常に困った時間帯だ。
ホテルに着いて寝たのは朝の5時過ぎ。
数時間後には起きてシンガポール本社に出社する。
朝から疲れている。
本社ビルではSARS検査をやっていた。
英国人上級福社長とミーティング。
コスメティック会社の支社長と。ここでも入り口でSARS検査をされた。高島屋の中華料理屋でお昼を一緒に。
もう一社を訪問。台湾が中心マーケットの人。
会社に戻ってまた副社長と話す。
メールを見て準備してから、同僚の韓国人女性Pと香港人女性Iに誘われてビール。
僕は時間になったのでので移動。タクシーの中からリエに電話すると、今日は漫画喫茶なるものを初体験したと言っていた。
「とにかくね、赤坂の漫画喫茶って、身なりのいい人ばかりなの。で、携帯が入ってくると、皆、スーツ着たサラリーマンとかが、『はい、只今、何とか商事を出たところです』とか言って切るとまた
座って漫画の続きを読んでるの。でも、誰も笑ったりしないのよ。皆そうだから。一杯の飲み物で延々何冊読んでも文句も言われないの」
非常に楽しかったようだ。よかった。

5月22日(木)

07:00に起きてシンガポールのホテル1Fで朝食。
8:30には出社して直属の上司、イタリア系英国人Oとのブレックファスト・セッションをスターバックスで行う。
お昼がキャンセルとなり、昨晩と同じ韓国人女性Pと香港人女性Iに誘われて本社ビル隣のビル地下の日本ラーメン屋で昼食。なんと、二人で御馳走してくれた。
オフィスで仕込みしてからパラゴンにでミーティング。
そのまま16:00頃からノヴィーナにある会社で延々20:00まで打ち合わせ。
同僚の中華系シンガポール人Cと夕食。
彼女には二人の兄と二人の姉がいると知った。厳しい母がいる。父は造船所に勤務していたはずだ。兄弟はそれぞれキャラが違うという。でも毎週日曜日には家族で集まっている。極めて中華系的である。
彼女は寿司セット、僕はカツ丼を食べた。
満腹。どうしてこれから日本へ飛ぶというのに、皆は僕に偽和食を食べさせようとするのだろう?
タクシーを拾って空港に向かう。
携帯から赤坂プリンスに電話するとリエが楽しそうな声を出していた。
調布の公園に行ってきたという。バラ園が美しく、近くにある日本蕎麦の店が滅法旨いとのこと。温泉とマッサージにも行ったという。
羨ましい。立場を変わりたい。
またしてもSARSの影響で空港はがらがらだった。

5月23日(金)

朝7時前に成田に着く。同行した英国人上級福社長Cと一緒に成田の個室トイレでスーツに着替え、スターバックスでエスプレッソを飲んでモーニングライナーで上野へ。
忙しく仕事。

5月24日(土)

ようやく週末となる。
赤坂はとても静かだ。
日枝神社まで歩く。
地下鉄で新高円寺に行った。
ルックルックという商店街を南下して、昔、僕が1967年から1970年まで住んだ高円寺南2の52の4にリエと足を伸ばした。そこは久しく駐車場になっていて面影はない。木造の二階建てで、一階の縁側が庭に面しており、軒下もあれば奥の台所には洗濯機があった。通りに面した部屋が大きめの「洋間」で、ピアノがあった。二回には僕が寝ていた。庭には梅の木があった。もともとは祖母の家だった母屋に我々家族が乗り込んできて、祖母がこの庭に離れを建てて移り住んだ。そちらにはカラーテレビがあったので、僕はよく見せてもらいに祖母の家に行った。
近所には通っていた杉並第八小学校がある。
そちらに向かった。
近所の森田くんの家の前を通ると「森田」とあった。半ズボンを履いていた彼も、もういいおっさんである。
「すぎはち」こと杉並第八小学校はそこにあった。小さい。僕はリエに色々と子供の頃に学校の外壁を歩きながら、「落ちたら鰐のいる海に沈んで死ぬ」という遊びをしたことなどを語った。
彼女は退屈したかもしれないが黙って聞いていた。
「すぎはち」の校門の前にはまだ文房具屋の「高文堂」があった。この前の店で生まれて初めてコカコーラを飲んで、喉がちりちりしたものだ。1960年代後半だろう。
「がっちゃん」と呼んでいた、硬貨を入れて捻るとカプセルに入った小型玩具が出てくる「がちゃがちゃ」(とリエは呼んでいたという)もあった。
家の方へ戻る。ここに銭湯があったのだが、そこは住宅になっていた。若者がたむろしている。僕がこの町を離れた頃には存在しなかった世代だ。
桃園川というのがあって、僕が小学校上級生になる頃、蓋をして暗渠となったのだが、それまでは梅雨になると溝川が溢れて床下浸水になったりしていた。今は川だったことさえわからない整備された公園通りという感じだ。うどんを作って搬出していた中小企業が橋に面してあったが、もうない。住宅になっている。こんなに狭い空間だったか、と驚く。
30年というのは何もかも変えてしまう。しかし、町ごと消失するようなこともあるわけだから、それに比べれば、こうやってトレースできるだけでも高円寺は変わっていない、とも言える。
更に足を伸ばして子供の頃よく境内で遊んでいたお寺に向かった。「高円寺」である。途中、貸し本屋があって驚いた。30年前と同じだ。こんな業態が未だ存在するのは奇跡だ。
そして、高円寺の立派になったことには驚いた。境内に至る道が整備されていて美しい。
金持ちになった日本を象徴している。
で、本堂を見て、これまた驚いた。ぴかぴかに、新しいのだ。僕の心の中の高円寺は古びた灰色の木造の寺である。まるで、銀閣寺が金閣寺になってしまったようなものだ。セピア色の寺はもうない。
思い出がセピア色だというのはこういうことなのか。
僕は饒舌になっている。
小学校の同級生でハンサムで長身で野球チームのピッチャーをしていた田村くんは、寿司屋の息子だったが、その店があった。入ってみたいが、やっているかどうか暗くてわからない。
通り過ぎてその先まで歩いていると、美容室があった。
リエが髪をトリムしたいというので、彼女を店に置いて、僕は田村くんの寿司屋に戻った。
「やってますか?」と奥に声を掛けると、白い寿司職人姿の老人が現れた。その奥さんらしい女性が現れてようやく電気が付いた。
僕は酒を頼み、田村くんの父親の握る寿司を食べた。
昔、僕の記憶の中の田村くんの父親は颯爽とした、厳しそうな、目つきの鋭いハンサムな壮年の男である。男男した男だった。当時、40過ぎだったとして、今は70を越えているだろうから、自然の摂理に従って、やはり目の前にいる人は70過ぎの男性である。
黙って飲んでいてもよかったのだが、ようやく僕は自分の正体を明かす決心をした。
「お宅の田村くんとは杉八の同級生で、野球チームにいました。もっとも田村くんはハンサムで長身、エースだったけど、僕は下手糞で、センターにいましたけど」
父親は手を止めて僕をしげしげと眺めた。「へえ、そおかい。うちのと一緒か。そりゃまた」
「今は外国に住んでいて久しぶりに高円寺に来たもんですから、ちょっと懐かしくなって寄らせていただいたんですが」
「そりゃ、どうも。で、外国はどちら?」
飲食店でSARSの本場、香港というのは気が引けた。ここで僕は嘘を付いた。「英国です。ロンドン」
あまりに遠いのでピンとこないだろうと思ってのことだが、外した。「へえ、ロンドンかい。この前、かみさんと行ったよ。身内がいるもんでね。へえ、そうかい」
「ところで思い出しました」と僕はロンドンから話題をそらした。「おじさんはハンサムで当時、奥さん方がよく噂をしてて、子供だった僕もよく耳にしてましたよ。例えば、大阪万博の時、おじさんは奥さんたちと子供たちを引き連れて行ったでしょ、あの時、何かを払うときにおじさんが財布を開くと万札がぎっしり入っていた、という伝説を覚えています」
彼の顔が初めて綻んだ。「そうだったかねえ」
「ところで、田村くんは野球の選手にはならなかったのですか?」
「あの野郎はちょっとまたやって止めたよ」また厳しい顔に戻る。
「今は何を?」
「八重洲でホテル関係をやってる」
「最近の彼の写真はありますか?」自分の同級生の今の姿を見るのは恐ろしくもある。
「写真はねえな。出て行く時に全部持っていきやがったよ」
まあ、これ以上は探偵ではないのだから詮索しない。田村くんから話題を変えた。「さっき、昔の自分の家を見てきたんですけど、駐車場になってましたね」
奥さんが僕を見て言った。「ああ。あそこのお婆さんと住んでいた戸田くんでしょう。面影があるわねえ。良くお婆さんと一緒にいて。可愛い妹さんがいらしてね。暫くしてお婆さんを置いて引越したでしょ」
この表現、「お婆さんを置いて」というのが彼女のある種の戸田家に対する見方なのかもしれない。我々は三島由紀夫が自決した1970年まで東京都杉並区高円寺に祖母と7年間住んで、1971年には神奈川県逗子市に引っ越した。アザリエという新興住宅地だ。当時はニューファミリーというような若い夫婦や家族の住む町だった。30年後の今では年齢が全体的に嵩上げされて老人の町となっている。僕の両親もその、もう新興とは呼べない住宅地を出てしまった。今は横浜の関内にいる。月日が流れるというのは非常に恐ろしいことだ。30年というスパンは衝撃的だ。
「銭湯があったところにも行ったんですけど住宅でした。あれ、何ていう名前でしたっけ?」と僕。
「ああ、千代の湯ね」とおじさんは即答した。
「それと桃園川の橋の袂に小さなウドン工場があったじゃないですか」
「あれね。あれはヨイヨイになって畳んだな」
「伊藤パンは、やってるようには見えなかったな」
「あそこは色々あって、ぼろぼろ」
「高円寺が綺麗になってるのでびっくりしました」
「ああ。そうや、そうだね」この町に住んでいれば変化は徐々に進行していくから自覚は難しいかもしれない。
「昔、ショートに大澤くんていましたでしょ?」大澤誉志幸くんはその後、作曲家と歌手になって「そして僕は途方に暮れる」をヒットさせた。
「大澤くんは音楽家になったんだ」とおじさんは言った。
僕はお礼を言って代金を払い、外に出た。
1970年から33年。思えば遠くへ来たもんだ。それも、あっという間に。
リエの髪の毛はまだ最後の段階だった。僕はもう少し近所を探索して戻ってきて、支払いを済ませて二人でまた散歩した。
高円寺というのは、いい感じの町だ。商店街がいい。若者が多い。30年もたったにしてはそれほど劇的に変化はしていない。ところがその高円寺という器に入っている人間は若返って、ほとんど総とっかえ状態である。
まあ、どこの町も色々な人々が交差して、100年たてば総とっかえであることは間違いない。
この商店街を回遊している若い人々の流れを見ていると、非常に不思議な気持ちだ。(ここは昔、僕の町だったんだ)言いたくなるし、それはとても馬鹿げた考え方だとも思える。
今日は年月というものに衝撃を受けたセンチメンタルジャーニーだった。
リエは自分が幼少の時少々過ごした北九州をセンチメンタルジャーニーで案内したいと言ってくれた。非常に危険な都市らしいが。

 
 
 




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