今日から休日だ。日本のお盆に合わせて休みを取った。
イタリア旅行を企画したのだ。オランダにも立ち寄る。
11:40の便に間に合うように7:00に起きて準備して9時過ぎにはリエと家を出てタクシーを拾おうとするが時間が時間だけに空車が来ない。
「世界一長いエスカレーター」でエルジン通りまで降りてタクシーを拾って空港エクスプレス香港駅へ。KLN888便にチェックインする。
KLMなのでCXの豪華ラウンジがつかえない。
空港内カフェでインターネットにアクセスし、サンドイッチをつまんでからデューティーフリーを冷やかして飛行機に乗った。非常に混んでいる。空港自体も非常に混雑していた。SARSの頃の平和と静寂が懐かしい。
KLMではリエと僕が名付けた金髪で長身の「ヨハン青年」が感じよく元気に働いていた。満席で忙しいのに笑みを絶やさず、感心した。
KLMの機体は古く、個々人のTVモニターがなく、共同の巨大スクリーンで見るという旧式である。
離陸してから暫く、かなり揺れ続けたので、ひやひやした。
同日のヨーロッパ時間17:00過ぎにアムステルダムに着いた。
スキポールは実に久しぶりだ。
オランダには1990年から1991年まで住んでいたがあの頃のスキポールはここまで大きくなかった。2000年まではロンドンから出張ベースでアムステルダムには来ていた。が、ほとんどの会社は空港周辺に集中していたので街中まで行くことはほとんどなかった。恐らくリエと二人でロンドンから旅行したのが最後だろう。5年くらい前だろう。今回はイタリアの帰りに街中まで行くことが出来る。
19:55発のミラノ行きまで3時間近くもあったが、構内のパブで白ビールにフリッツ(オランダのフライドポテト)を摂って煙草を吸ってデューティーフリーを冷やかしてインターネットでメールをチェックしているとあっという間に時間は過ぎた。待ち時間も、カジノもマッサージ屋もあるスキポールのような施設の充実した空港で過ごすのは悪いもんじゃない。
ヨーロッパは余りに近い。さっきまで香港にいたと思ったら、もう欧州大陸だ。十五年ほど前に初めてヨーロッパを縦断した時には、非常に遠くへ来た気分だったが、もはやそういう感じは微塵もない。英国航空の乗務員をしていたリエも慣れたものだ。
我々はミラノに向かった。
ミラノ便は小さなジェット機で、乗務員はオランダ語、英語、イタリア語でアナウンスしていた。イタリア人クルーもいる。
EU内の便ではアルコールのサービスは止めていると知った。その事の是非に関してアンケートを取られた。まだ施行されたばかりのようだ。酒飲みには残念なことである。
日が沈む前にミラノに到着した。
遅かったものの、荷物は出てきた。
そのバゲージ受け取りにパネルが出ていて、市内への移動手段が親切に説明されていた。タクシー、バス、鉄道などでの行き方と値段が表示されている。どうして成田でこれをやらないのか。外国人旅行者に対して非常に不親切なのが成田だ。
バスがミラノ中央駅方面に出ていて社内でチケットを帰る、と記述してあるのでそれに従った。6番出口から出て3番乗り場へ、とも記述されていて、確かに出てみるとシャトルバスが停車していたので乗り込んだ。
辺りは暗くなった。空港からの道は殺伐としたもので(まあ、どこの国でもそうだが)、景色はインドネシアのスラバヤのようだ。工場。廃屋。鉄骨置き場。空き地。街灯も少なく、暗い。
バス運転手は長髪の中年イタリア人ロッカー(特にドラマー系)みたいなオジサンで、スピードをかなり出して走らせ、50分もかからずにミラノの街中に入り(どんどん中華料理屋の赤いランタンが目立ってくるのだ)、ミラノ中央駅に到着した。
夜の中央駅は初めてかもしれない。立派な建造物ではある。
バスから降り立つと外は暑かった。
リエと僕はオーバーナイト・スーツケースをがらがらと引きずりながら石畳を歩いていき、インターネットで予約した中央駅の近くのホテルにチェックインした。
一応、四星だが、まあまあのホテルである。部屋は狭く、バスタブはない。
リエも僕もずっと乗り物ばかりに乗り続けてきたのでゲッソリしていたが、無理して着替え、タクシーを呼んでもらってドームの近くのワイン屋でチーズやハムを食べながら赤ワインを飲んだ。店にはインテリ風が多く、給仕は学生バイトのようだった。一生懸命英語で説明してくれようとする。この国には英語が流暢な人間は少ないのである。
タクシーを拾ってホテルに帰る。
香港、オランダ、イタリアを股に掛けた長い々い一日は終わった。
朝6時過ぎに目覚めてしまった。
ミラノ中央駅まで歩く。
明日ヴェローナに移動して、あそこのアレーナでヴェルディのオペラ「アイ―ダ」を観ることになっている。列車は頻繁に出ているので心配なさそうだった。
メトロに乗ってドゥオモに出た。久しぶりだ。1998年だから5年ぶり。
ヴィットリオテンエマヌエーレ2世通りを荘厳なドゥオモ沿いに歩き、サン・バビラまで出た。そこから引き返す。
ガレリア・ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のアーケードからスカラ広場に出る。ローマほどではないが、やはり建造物は堂々たるものである。アーケードの天井までの空間が贅沢だ。足元のタイルも精巧で美しい。マンゾーニ通りを歩いてスピーガ通りを抜ける。
洒落たブティックの並ぶスピーガ通りは軒並み夏休みか工事中である。リエはがっかりするだろう。僕の懐は助かるが。8月は9日から18日まで休み、とイタリア語で書いてある。サンタンドレア通りからスカラ広場に戻り、メトロでホテルに戻った。
出張で来るとタクシーばかり使うので、こうして休暇で着て地下鉄を利用するのは庶民を観察するのに良い。
リエと連れ立ってミラノ中央駅から13:10発のジェノバ方面行き列車で出発する。
リエがブランド物の「アウトレット」に行きたいというからだ。僕は全く興味がない。
ARQUATA SCRIVIA(アクアタ・スクリヴィア)駅に向かう。が、そこを列車は通り過ぎてしまう。これは特急で、車掌から「ジェノヴァまで止まらない。向こうで乗り換えて戻るしかない」と言われてショック。
生涯で初めてジェノヴァ駅で降りた。
駅前はやはり雑然としていた。見苦しい看板も多い。駅前は工事している。光が強い。
工事をしているバルビ通りの坂を降りていく。両脇の建物は立派なものである。16世紀から16世紀にかけて建てられた、地中海交易で栄えた港町だという。航海術は優秀で、コロンブスを輩出している。彼はここで有力貿易商会に身を置いて、商いと航海の生活に入ったという。
王宮があった。
サヴォイ家の別邸に入る。中庭に入る。ヴェッキオ港が見えた。雑然としている。大した眺めではない。今、この港はミラノを中心とするロンバルディア、トリノを中心とするピエモンテというイタリアの工業先進地に結びついており、工業原料や石炭や石油や機械類などを供給し、同時に穀物その他の食糧の供給を行う。また工業製品や米やオリーブ油やワインブなどを輸出している。風景としても無骨な第二次産業的だと思う。
ヌンツィアータ広場まで降りてしまい、いよいよ来た坂を引き返すことになった。
両脇の建物は高く、天井の華麗な装飾が窓から覗く。16世紀の繁栄を物語っている。
普通の庶民カフェでコーヒーを飲む。
列車の時間だ。駅に引き返し、ARQUATA SCRIVIA(アクアタ・スクリヴィア)駅で、買い物が好きそうなオバサン集団と降りる。
バスもないのでタクシーを拾う。
普通のイタリアの田舎道を行くと、17:00には忽然とディズニーランドのようなアウトレット、「セッラヴァッレ」が現れた。イタリアの家族連れや恋人や夫婦連れで賑わっていた。とにかく広い。プラダをはじめ、主要ブランドがそれぞれ独立した広い店舗を持っている。レストランやバーがその間にある。建物は明るいクリーム色が基調で、どれも新しい。
リエの買い物に付き合ってから僕は珍しく自分の物を買った。ドルチェ&ガッバーナでネクタイとシャツ。イタリアの伊達男が皆、無精髭を生やしてライトブルーのシャツに黄色いネクタイをしてサングラスをかけているので、それを猿真似したくなったのだ。
施設の中のバーで無料のつまみを食べながらワインとビールを摂り、二時間ほどしてから最初のタクシーと約束した通り19:00に迎えにきてもらい、駅まで引き返した。
駅舎の中のバーでグラッパとビールを飲み、列車を待った。
ようやく列車が来てミラノに戻る。どんどん暗くなる。
ミラノ中央駅に着く。
レセプションで聞いて、ホテル近くのレストランに足を運んだ。「MEDITERRANEA RISTRANTE BRASSERIE」という店だ。
これがなかなか素晴らしい料理を出す。並んでいる前菜を色々と選んで皿にとって食べるが、非常に分量が多く旨い。
食べきれずに持ち帰ることになった。
値段は98ユーロ。安いと思う。
朝起きてから列車移動でヴェローナへ。
ファースト・クラスのコンパートメントに入る。イタリア人老夫婦が入ってきた。何やら警戒した様子。アジア人に慣れていないのかもしれない。
金髪の青年バックパッカーが入ってきた。まだ少年といった感じ。瓜実顔に長髪だ。イタリア語を話し、老夫婦と打ち解けていた。と、そこに検札が入ってきた。僕らはファースト・クラスを払っていたから問題なかったが、この青年はいかにも持っていない様子。と、老夫婦が何か言ってチケットを検札に翳していた。青年は無罪放免となる。多分、老夫婦が、「うちの孫です」とでも言ったのだろう。僕は好奇心から青年に英語で話しかけた。
「彼ら、言い訳してくれたの?」
「いや。彼らの仲間で一人来なかった人がいたらしくて人のチケットを僕のだと言って庇ってくれた」とアメリカ英語で答えた。非常にチャーミングな青年で笑顔が少年のようだ。このルクスなら欧州旅行は快適だろう。
色々と話した。彼はイタリア語を短期間で習得したという。理数系は苦手だが、語学は得意で祖父の世代が移民してきたデンマーク語も出来る。
イタリアはかなり長いこと滞在していてサルディニア出身の女の子と恋に落ちて、しばらく彼女と一緒にサルディニアの自宅に滞在したという。彼女の家族と一緒に暮らし、毎日食事も共にして、牛の乳搾りも手伝った。こういうキュートなアメリカ青年を娘が連れて帰ったら、邪険には出来ないはずだ。お行儀もいいし、金髪で長身。日本に行っても、どこでも受け入れられるタイプだ。羨ましい。
祖父の世代の人々を訪ねてデンマークに行った時のことを話してくれた。
「デンマークを離れたことのない彼らの孫が、コペンハーゲンまで出迎えにきてくれたんだ。余りお互いの服装なんてのは知らせ合わないうちにそうなったんだけど、問題なかった。お互い、人目見てわかった。分身みたいだったんだ」
シカゴ大学ではイタリアのネオリアリスモ映画の勉強をしているという。
「ピエトロ・ジェルミとか、デ・シーカとか、ロベルト・ロッセリーニとか?」と僕は言った。
「そうそう」と彼。
「イングリッド・バーグマンとロッセリーニの恋愛沙汰とか?」
「それは知らない」
ハリウッド女優がネオリアリスモの巨匠の下に駆けつけた、というハリウッドのスキャンダルは知らないらしい。彼は「甘い生活」も「ローマの休日」も「旅情」も知らなかった。
若者にはこれから見る映画が色々あって、いい。しかもDVDで簡単に見ることが出来る。
「あちこち回ったみたいだけど、どこの国が好き?」と僕は聞いた。
「かなりバイアスがかかってると思うけど」と彼は笑った。「イタリアとデンマーク」
列車が着いた。
ヴェローナも久しぶりだ。一時はよく仕事で来たのだが、それは1990年頃で、もう、13年も前になる。
タクシーを拾って、インターネットで予約していたヴェローナのホリデイインに行く。
これがまた、ひどいホテルだった。高速道路沿いの郊外にあり、シャトルバスで市内に入るしかないというような悲惨な立地。団体旅行者をベルトコンベアで処理する類の新品の安普請である。旅行初心者ならまだしも、我々には耐え難い。侘しくなる空間だ。いぶかるレセプション嬢にキャンセルすると申し込み、タクシーも呼んでもらった。旧市街に入る。エルテ広場まで移動して二件ほどチェックしてから古いけど広い部屋の小さなホテルにチェックイン。これでも150ユーロだから高い。
休んでから散歩した。
この街の建造物は古代からルネサンスまでに造られている。円形劇場アレーナに出た。紀元一世紀に造られた褐色の石壁が目の前に広がる。インターネットで購入したチケットを6番の窓口で受けた。個人が香港で購入できるのだから便利になったものだ。
13年前に良く行った丘の上のレストランにタクシーで向かったが、ここ「LA TAVERNA DI VIA STELLA」は閉まっていた。眺めが良くて、蛇行するアディジェ川とレンジ色の灯火に浮かぶ町並みを見下ろしながら食事をすると、とてもロマンチックなのだが、これは諦めた。
歩いて丘を降り、パブで飲んでから部屋に帰って休んだ。
夜、ちょっと暑かったが、スーツに着替えて、ドレスアップしたリエと円形劇場前の広場のカフェで簡単な食事とワインを摂りながら、着飾った人々の流れを眺め、開演を待った。
ほとんどの人は無理してスーツを着込んでいる。
人々の流れに乗って巨大な円形劇場に飲まれていく。
ライトが煌々と照り、人々は上気している。暑い。
座席につくと回りは日本人が多かった。これは不思議だ。
だって、僕が予約を入れたのは香港からで、イタリアのインターネットサイトを通してのことだし、座席も自分で、空いているところをクリックして予約したのだ。
時間となり、アナウンスが流れ、序曲が始まる。円形劇場の質感に負けない舞台背景とコスチュームでオペラ「アイーダ」は4幕7場のグランドオペラでヴェルディはエジプトの太守に依頼されてスエズ運河開通記念作品として書かれた。初演はカイロの大歌劇場。台本の原案はエジプト学者が書いたという。だから、イタリアのヴェローナに、いきなりエジプトが現出するのである。
今回の演出はフランコ・ゼフィレッリである。僕が小学生の頃夢中になった映画「ロミオとジュリエット」の監督であるが、あの映画に主演していたオリヴィア・ハッセーが好きだった。彼女が日本映画に出たり、日本の歌手布施明の妻となり、後に離婚するなど、当時は想像できなかった。1967年に僕は小学校4年だったので、フランコ・ゼフィレッリが監督したエリザベス・テイラー主演のシェークスピア劇の映画化「じゃじゃ馬馴らし」は見ていない。が、1968年「ロミオとジュリエット」から高校生の時
を題材に彼女が読書している油絵を描いた。当時、フラゴナールという宮廷画家が好きで、その画家の「読書する少女」という絵を模倣したのだ。彼のヒット作1979年「チャンプ」はあまり好きではなかった。1981年「エンドレス・ラブ」は良く出来ていたが、盲目的な恋、というテーマが馴染めず、その後は1982年「トラヴィータ/椿姫」も1985年「オテロ」も1988年「トスカニーニ 愛と情熱の日々」も1990年「ハムレット」も1993年「尼僧の恋 マリアの涙」も1996年「ジェイン・エア」も1999年「ムッソリーニとお茶を」も見ていない。でも、こうして並べてみると、フィレンツェ生まれのフランコ・ゼフィレッリの嗜好は明らかだ。今度、纏めて1980年代以降の彼の監督作品を見てみよう。
彼は、1940年代から50年代にかけてアントニオーニ、デ・シーカ、ロッセリーニ、ヴィスコンティという巨匠の助監督を務めていたという。昼間にシカゴ大学でアメリカ人青年が学んでいるといった監督ばかりだ。彼らに鍛えられたらしい。
フランコ・ゼフィレッリが、ここヴェローナのアレーナでデビューしたのは1995年の「カルメン」で、その後は2001年の「イル・トラヴァトーレ」、そして去年から手がけている「アイーダ」。去年の情熱的なアイーダ役は本日と同じ、ソプラノ歌手フィオレンツァ・チェドリンス。
エチオピアの女王アイーダを愛するエジプトの将軍ラダメス役が非常に背の低い歌手で、ちょっと喜劇的だったが、歌は上手く「清きアイーダ」を切々と歌って聞かせてくれた。このテノール歌手はサルヴァトーレ・リシトーラ。
フィナーレらしいフィナーレで終わらないオペラなので、ちょっと盛り下がり気味なエンディングだが、13年前から、出張者だった僕はこのヴェローナのアレーナで、いつか「アイーダ」を見たいと思っていたので満足した。随分と金の掛かる道楽だが。
リエとアレーナの前の広場のカフェに座って三々五々帰途につく人々を眺めながらワインを飲んだ。
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