ヴェローナで朝を迎えた。
散歩してから朝食。生ハムが旨い。
チェックアウトする。
タクシーでヴェローナ駅に向かう。1等のチケットを買ってコンパートメントに入ったのだが、そこは放棄して食堂車に移動してワインとパスタ。小奇麗な食堂車に美味しい料理なのでリエは大喜びである。
ヴェニスが近付いてきた。
僕が初めてヴェニスに来たのは1988年、もう15年前のことで、その時は真夏の運河がドブ臭いので閉口した。次は1990年代の後半だと思うが、真冬だったので運河は臭わなかった。
今は真夏だ。あの悪臭に悩まされるのだろうか?
ヴェニス駅に到着した。駅舎を出ると運河だ。アドリア海の懐にある潟 (ラグーナLaguna) の上に形成された水の都だ。白い建物。運河の波。太陽。青空。光が氾濫している。開放感がある。ベネチアの表玄関は元来、潟の水面に開かれて大円柱を構えたサン・マルコ広場 (ピアツェッタ) であったが、本土 (テラフェルマ) との間に鉄道橋 (1846) と自動車橋 (1932) が建設されたため、都市構造が転換し、北西部の鉄道駅と自動車のターミナルが町の新たな玄関となった。ヴェニス駅からの交通手段は水上バスである。香港のスターフェリーより小ぶりな水上バスに、次々と到着したばかりの色とりどりの旅行者が大きなバッグやスーツケースを持って乗り込んでいる。運河を移動するというのは誰にとっても心躍ることなのだろう。氾濫する光の中、そこかしこで微笑が揺れている。
街中には車は入れない。車のない都市なんてここぐらいだろう。完璧な歩行者天国である。運河が全く臭くないのに驚いた。リエ情報によると日本の技術を使い、納豆菌を利用して運河を掃除した結果だという。
いくつか水上バスの駅に横付けされ、やがてリアト橋駅に到着した。ここから歩かなければならない。
市場の近くの橋をいくつか渡り、昨夜電話予約しておいた「San Cassiano - Ca' Favretto」に到着した。電話で話したエジプト人がレセプションにいる。感じのいい人だ。
二階にあがる。縦長の広々とした部屋。奥の窓が運河に面している。なかなかいい。
窓からの眺めは素晴らしかった。運河がきらきら輝き、色とりどりの水上バスやモーターボートが行きかう。向かいには歴史的な建造物が並ぶ。
何系統かの水上バスが公共交通機関であり、ゴンドラやモーターボートも食材や水を運んで、市民生活に欠かせない。
このホテルは今回の旅行では今のところ一番いい。
ちょっと散歩すると疲れてしまい、「ANTICO PANIFICIO」で食事して、休む。
ふと気づくと翌朝になっていた。
僕は朝6時に起きた。
階下に行くとドアが閉まっている。
ベッドに寝ていた夜勤のイタリア人が起きてきた。ランニングに股間がもっこりしたパンツ姿だ。気の毒した。彼が鍵を開けた。
目覚めてゆくベニスを歩いた。
市場には運河に横付けされたボートから氷や魚が運ばれてくる。
ここの運搬はトラックではない。何もかもボートだ。果物も。肉も。清掃も塵も。
屋台の上に氷を乗せた魚屋が二刀流で長い包丁を交互に振ってカカカカカカと氷を削っている。そこへ運び込まれてくる白い発泡スチロールの箱一杯の魚。運搬ボートは次から次へと到着して自分の担当する魚なら魚、野菜なら野菜を下ろすと去っていく。
車が走っていないというのは我々歩行者にとっては天国だ。
ゆるゆるとサンマルコ広場まで歩いた。ナポレオンが「世界で最も美しい広間」と称えそうだが、周りの建築物の開いた窓から天井などが覗くと、その豪華な装飾に驚く。
ちょっと海辺に向かって歩くと、窓から壁が見えた。壮重な絵画が掛かっている。
目の前の光景からの連鎖。港、運河、貿易、巨額の富、建築、芸術。現代人はスーパーマーケットでラップされた挽肉でフランス料理を作ってお上品ぶっているが、豚が喉を切られて噴水のように血をほとばしらせて屠殺され、解体され、機械加工されてパッケージになったことは知らないでいる。それと同じで、美しくパッケージされた「文化・芸術」には弱いが、その後ろ盾となる、偏った富の蓄積、経済と貿易、それを支える人々の野心と欲望には考えが及ばない。
欧州文化とは富が偏ることを意味するようだ。そうではない文化も世界にはあるが、過去500年間で戦う肉食人種が積み上げた文化は余りに影響力があり過ぎた。
リアルト橋まで歩いてホテルに帰る。レセプションで夜のコンサートチケットを頼んだ。
リエを起こして朝食をたっぷり食べる。
リアルト橋駅から水上ボート1番でリド島に向かう。
運河を囲む色々な建物が通り過ぎていくのが楽しい。やがてサンマルコ広場が左手に見える。そこも過ぎてヴェニスの鉄道駅が右手に通り過ぎていくと、この巨大な水上都市から離れていく。
「綺麗ねえ」とリエ。「逆に海の向こうからやってきて、この都市が近づいてきたら、夢みたいでドキドキしたでしょうね」
「そうだね。あまりに美しい街並みだから、まるで美女と美酒と美食の詰まった天国に向かっているようだったろうな」当時の船乗りの胸の高鳴りを実感できた。
やがてリド島に到着した。ここはトーマス・マン「ベニスに死す」の舞台となったリゾートだ。僕は「ブッデン・ブローグ家の人々」以外のマンは読んでいない。ヴィスコンティの映画で見ただけ。地中海ならどこにでもありそうなリゾート町という雰囲気だが、あの映画はここで撮影されたのだろうか? ここで毎年ヴェネチア映画祭も開催されているとのこと。歩いている人々は普通の人々。
海岸まで歩いて、何てこともないので帰り道でビールを飲んだ。あまりに暑い。
24時間使える水上バス切符が切れる時(誰も気にしていない様子だが)、ちょうどリアルト橋駅まで戻ってきた。
地元のレストランに入る。青年ウェイターが元気で英語が上手い。25歳。18歳から旅をしていたという。香港にも滞在したことがあるとのこと。
貝などを食べて白ワイン。仕上げはパスタ。旨い。
ホテルに帰って夜まで眠ってしまう。
今晩はコンサートを聞きに行くのだった。ぎりぎりに目覚め、水上バスでアカデミア駅に向かう。会場はすぐ近くの教会で、間に合った。
ヴィヴァルディの四季。観光客向けだが、なかなかヨロシイ。特にヴィオラの青年の熱演(パガニーニ)が客を沸かせた。
帰りはゆっくりと歩いてヴェニスの夜景を楽しみ、リアルト橋駅近くで運河の水面に映る町の灯を眺めながらワインを飲んだ。
07:30起床。チーズとハムと赤ワイン。また眠る。
起きてからリエと朝食。
リアルト橋とは逆側に歩き、現代美術館を眺める。ここの上には日本の鎧や刀や槍をコレクションが展示されていた。
水上バスでアカデミアに行き、アカデミア美術館を回る。
部屋に戻ってパックし、魚市場の近くでぺスカトーレにビール。
マッチョでハンサムなイタリアの魚市場の男衆が筋肉隆々たる上半身裸でその辺を歩いている。
その姿に見とれたリエが言う。「これも観光客へのアトラクションていうか、彼は自分で格好いいこと承知の上ね」
スーツケースで階段をえっちらおっちら昇り降りして水上バス乗り場へ。大変だ。タクシーが走らないのはいいことなのだが。
駅で一等チケット購入。14:33まで駅前のカフェでビールを飲む。リエはカフェ・フレッド。アイスコーヒーである。
列車が到着する。赤い塗装だ。コンパートメントはそこそこに(これでは一等を買う意味はないのだが)、食堂車に移動して赤ワインを飲む。
リエは特にイタリアの列車の食堂車が気に入ったようだ。
「だって、内装が可愛いし、ワイングラスとかナイフやフォークもきちんとしているしね」
17:30にはトスカーナ州の州都フィレンツェに到着した。
おお。とにかく暑い。通常なら歩いていける距離のホテルへタクシーで向かう。
フィレンツェのホテルユニコーン。90ユーロである。冷房がぎんぎんに効いていて寒い。
リエは疲れたというので部屋でゆっくりし、僕はショーツに着替えてからホテルを出て右手のドゥオモへ。ぐるりとシニョーレ広場へ出てから戻ってレストランを予約。
フィレンツェは巨大な建造物ばかりだ。13世紀から15世紀にかけてはあらゆる分野で発達を遂げたルネッサンスの発祥の地だ。フィレンツェの通貨はヨーロッパ共通の通貨にもなっている。
ここで勉強したイタリア系スイス人のFは京都とフィレンツェは嫌いだと言っていた。古都嫌いということなのだろう。
シャワーを浴びて着替えてからリエと外出する。近所のブティックで彼女に黒いワンピースを買う。上機嫌のリエ。
OSTERIA DEL PORCELLINOで夕食。店主は禿のホモであった。
朝の3時に目覚めてしまう。
階下に行くとドアが閉まっている。悪いがソファーで寝ているフィレンツェ人のオッサンを起こして鍵を開けてもらい、外出する。
二十数年前に見たデ・パルマの『愛のメモリー』に出ていた、壁画修復をしていたジュヌビエーヴ・ビジョルドの職場である教会を十数年前初めてフィレンツェに行った時に見つけ出して感動したものだが、その場所がどうも見当たらない。ちょっと残念だ。が、ちょっとだけ。リエが『愛のメモリー』を見たことがあれば彼女にも見せたかったのだが、それは次回にしよう。映画『ハンニバル』の舞台もフィレンツェである。
部屋に戻ってまた眠る。とにかくこのホテルは冷房が良く効いていた。
再び起きてから朝食。さて、旅も終盤にさしかかる。
荷造りしてチェックアウト。ホテルに荷物を置いてプラダのアウトレットに行きたいというリエとフィレンツェ駅から9:28発のアレッツォ行きに乗り込む。
同じ車両に乗ってきた韓国人の女の子二人はインチンタ駅で降りていく。ここにはグッチが入っているTHE MALLというのがあるらしい。
僕はブランドなんてどうでもいい。
我々の目的地で降りるとプラダ村は休みだと言われた。
もう一組、日本人の女の子たちがこれを聞いてショックを受けていた。運転手が150ユーロでTHE MALLまで運転するという。
馬鹿馬鹿しい。たかが買い物に。僕はあきらめて帰ろうというが、11:04の列車でインチンタ駅に戻ってそこからタクシーでTHE MALLに行きたいとリエが言うので折れた。
駅前の冴えないカフェの薄汚れたグラスで赤ワインを飲んで時間調整する。ワインは1ユーロと安い。
ようやく列車が来て11時半にはインチンタ駅に着き、電話で車を予約した。
ステファノという運転手が6人乗りの黒いクライスラーでやってくるという。
例の空振りした日本人の女の子二人も誘ってイタリア伊達男ステファノの車に乗ってMALLへ向かう。
彼女達は一緒にもう二ヶ月も旅行してるのだという。ホテル学校で学んでから、その業界で別々の職場で働いていたが、最近辞めて、一緒に旅行しているという。スペイン、スイス、ロンドン、イタリアと回ってきて、余り印象の良くなかったところがフィレンツェだとのこと。THE MALLはぐるりと回るとすぐ飽きた。リエも何も買わず、我々はステファノに近くの駅まで送ってもらう。往復30ユーロ払った。
14:00の列車まで駅前カフェで待つ。いい感じのオッサンがカウンターの向こうにいるので「ビルラ。フレッド、フレッド!(ビール。冷たい。冷たい)」と無手勝流イタリア語で注文すると、わかった、わかった、お前はフレッドなビールが欲しいのだな、と笑いながらビールを二人分よこした。これを飲んでいると13:30の店仕舞いとなったので駅構内に行く。日差しが強い。ホームの向こうは沼地のようになっていて緑が鬱蒼と茂っている。リエは構内の日陰で待ち、僕は上半身裸になってホームで緑を眺めながらボーっとしていると列車が来た。
フィレンツェ到着は14:30である。朝9:30から5時間も延々何をやっていたのだろう? 買い物は嫌いだ。
リエにローマ行きのチケット売り場に並んでもらって、僕はホテルに引き返し、二人分のスーツケースを拾ってタクシーに乗り、リエと落ち合い、一つ列車に乗り遅れながらも次の便でローマへ向かった。
コンパートメントが同じになった丸坊主の男と、彼のつたない英語を辛抱しながら会話した。ミラノ駅の職員だという。名前はミカーレ。休暇で列車を利用しているといおうことで職員証を見せてくれた。彼が言うには:
1)通貨ユーロになって物価は1.5倍となった。特に外食が高い。だから回数が減った。この前のオーガスト・フェスティバルでミュンヘンに旅行したが、向こうのドイツ人も同じことを言っていた。
2)でも、ベルルスコーニ首相は相対的に経済を潤すという意味では仕事をしているので良し、とする
3)ガールフレンドとはもうかれこれ12年も付き合っていて、彼女はそろそろ結婚したがっている
4)自分はバイクが好きで、昔はSUZUKIだったが、今はYAMAHAだ。バイクに関しては食料ほど大きく値上がりはしていない
とのこと。国鉄職員のアングルである。丸坊主で伊達眼鏡なので黙っていればどんな人間かわからないが、つたない英語でも便利なもので、繊細な感じのバイク好き青年が12年間も同じガールフレンドと付き合って結婚に踏み切れない様子が日本のバイク好き青年にもありそうで微笑ましく理解できる。
そうこうするうちローマのテルミナ駅に着く。
地図で確認していたAlpiホテルに真っ直ぐ向かい、がらがらとリエとスーツケースを引き摺ってチェックイン。
まあまあ小奇麗なホテルだが、アラブ人でごったがえしているし、最上階なので屋根が熱を吸って、とにかく暑い。エアコンをトップにしても暑い。
全部窓を開け放った。バルコニーには水を撒いた。バスルームには水を張った。
扇風機を回した。
まだ暑い。
19:30に空腹を訴えるリエがレストランを予約する。
シャワーを浴びて二人とも着替えて外出。
なんだか「ルイジ・コメンティーニ」という名前が少年時代の僕の頭にこびりついていて、とにかく出鱈目なルイジ・コメンティーニ物語を即興で作って話しながら大笑いして歩いた。
大蔵省の建物や日本大使館がある。9月20日通り、というのを歩く。
RISTORANTE CARUSOで食事した。早い時間のせいか、日本人ばかりだ。しかも、我々のような「在外」の日本人だと思う、英語がネイティブ並みに話す娘を二人連れた中年夫婦やアリタリア航空の日本人乗務員など。
蛸のサラダ。オマールのパスタ。そして白身の魚料理。ワインが高い。料理は旨かった。
が、これで200ユーロとは高い。従業員がとびきり愛想がいいのも頷ける。
ドルチェはリエがティラミス。それにカプチーノ。僕はダブル・エスプレッソ。
腹ごなしに散歩する。
トレビの泉は人でごったがえしていた。フェリーニの「甘い生活」を思い出す。
スペイン広場まで歩く。「ローマの休日」を思い出さないわけにはいかない。
東京で残っているのは銀座の和光くらいか。そして皇居と雷門。
タクシーを拾って帰る。
部屋は多少涼しくなっており、眠れた。
目覚めてから、疲れているので、少々ごろごろして(ヴァチカンに行こうか、このままごろごろしてようか)と迷っていたが、意を決し、リエを残してホテルを出た。
14年前、初めてローマへ来た時、馬鹿アメリカ人のように半ズボン姿だったために僕はヴァチカンの中に入れてもらえなかったのだ。その後も出張で何回もローマには来たが、ヴァチカン観光などという暇はなかった。今回を逃せばまた次までは時間がかかる。それで行くことにしたのだ。
駅の近くでタクシーを拾い、ローマの石畳の上をラルラルラルラルルルル振動しながら走り、劇場的に広がる石造りの建造物群や巨大な広場を抜けていく。ティベレ川を越え、ハドリアヌス帝が建て彼の墓があるというサンタンジェロ城を横切る。6世紀に伝染病が流行った際に、この城の前に天使が現われ、伝染病を追い払ったとの伝説に由来する。サンタンジェロはセイント・エンジェルである。現在は、軍事博物館となっている。
で、ヴァチカン前の広場でタクシーはルルルルラルラルラル・ラル・ラル・ラ・ラッ・ラ。と停車した。
カトリックの総本山だ。ローマ法王が住んでいる。ブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロなど優れた建築家によって建設が進められ、17世紀に完成するまで、約200年かかったという。サンピエトロ広場を歩いて、今日は長ズボンを履いているので難なくサンピエトロ寺院の内部に入ることが出来た。スーツ姿のSPがいる。敬虔な善男善女がそろしそろりと息を潜めて歩いている。遥か高みの天井画や壁に掛かる肖像画、神々の像などなど恐るべき規模と物量で、これでもかこれでもかとカトリック総本山としての力を見せ付ける。驚いた。眠気を押しての一見の価値あり。
派手な原色の制服を着ている門衛はレオナルドのデザインだという。レオナルドというのはダ・ヴィンチのことである。門衛の国籍はスイス人らしい。
タクシーを拾ってテルミニ駅まで戻り、空港行き列車チケットを買ってホテルに歩いて戻ると、ああ珍しい、眠れる森の美女、リエは起きていた。
朝食をしてパッキングしてテルミニ駅まで歩くと11時になった。
駅構内のショップでリエに白いワンピースを買い、がらがらとスーツケースを引きずりながら26番ホームに向かい、ハイネッケンを買って乗り込んだ。
11:22発の空港行きが11:32に出るので気がかりである。
着いたのは12:00である。まずい。アムステルダム行きのKLMは12:35発である。僕はリエを従えてずんずん歩き、歩行ベルトの上をのろのろ歩いている人々に「スクージ、スクージ(失敬、失敬)」と声を掛けて追い抜きながら端に寄ってもらい、急いでターミナルBに回った。
KLMのデスクはもう閉まっていた。が、隣のデスクの女性が親切にもゲートに電話をいれて通達し、我々をチェックインしてくれた。奇跡だ。普通のイタリア人ならば面倒なので赤の他人を助けるなんてことはないし、これがアリタリアの職員だったらアウトだったろうが、イタリア人でもKLM的教育の成果か、彼女個人の資質なのか、我々はセーフだった。
手荷物検査の列は長かった。しかし、我々はチェックインを済ませているので、ここから先は安心して搭乗できた。
イタリア旅行は、こうして無事に終了した。添乗責任者の僕としては全員(といってもリエと僕の二人だが)が無事に出国できるのでほっとした。
機内でチーズサンドと飲み物と菓子の入った小箱が出た。アルコールは出ない。
アムステルダムのスキポール空港に着いたのはぴったり15:15。出発は予定より遅れていたので大急ぎ追いついたことになる。
ハイシーズンで市内のホテルは満杯。ホテル探しにおおわらわとなる。街まで通うのは大変だが、空港にあるヒルトンにした。
チェックインしてからホテルの食堂で食事すると、スチュワーデス時代によく空港ホテルで過ごしていたリエが「あの頃を思い出すわあ」と感慨深げだった。
空港内の列車でアムステルダム中央駅まで出る。オランダはイタリアに比べて遥かに涼しい。
ダム広場まで歩き、有名カフェ「ルクセンブルグ」を懐かしく見る。
昔、「向こう岸」というコーヒーショップがあったのだが、見つからない。そこらにあるシシカバブ屋に入って中近東系の男に僕は聞いた。「この辺にコーヒーショップある?」
「ちょっと先に『ダッチ・フラワーズ』というのがあるけど」
「ダンキュベル(ありがとう)」
運河脇をもう少し行くと傾いた船体のような店、ダッチ・フラワーズがあった。
白ビールを2パイント注文し、窓際で飲み、オランダ産のジョイントを買って吸った。
いつものことだが僕はまったく効かない。リエは下瞼が上にせり上がっていくようだとのこと。店の中は人生の敗残者の吹き溜まりという感じだ。
敗残者菌が感染するといけないのでその店は出てダム広場付近の中華料理屋に入った。ここには1989年から通っているが相変わらずの人気だ。
今日は日本の敗戦記念日だということにはたと気づいた。
8月15日の風化は凄まじい。戦争を知らない子供たちと言われた我々でさえもう40代半ばを過ぎたし、銃後にいた我々の父母はもう70歳台であり、実際戦場にいた人々はほとんど他界している。
二つの世界大戦の主戦場となってから欧州統合を画し、50年以上を経て通貨統合までしてしまった欧州の粘り強さには驚く。16世紀にヴァチカンを200年もかけて完成させて今も機能させている、変態的なまでに執拗な粘り強さには驚嘆せざるを得ない。
日本人の繊細な「道」の追求も凄いが、欧州人種の粘りは別物だと旅の終わりに近づき考えた。中国人の作った万里の長城や紫禁城も凄いけどね。
割と早く起きる。レセプションでクローラーミュラー美術館に関する情報を仕入れる。アルンヘム近郊にあるという。
ホテルで朝食を摂る。
観光案内所で情報を得てからAmsfortまで行き、 Aperldoorn方面からからバスの10番でそれらしき場所で降りたが、まだ途中だったようだ。何もない森の入り口のようなところにポツリと取り残されて、ちょっと不安な気がする。これはオランダの中心ヘルダーランド州にある、デ・ホーヘ・フェルウェ(De Hoge Veluwe)国立公園 と呼ばれる公園の、東の入り口、ホエンダールー(Hoenderloo)に当たるはずである。この中にクローラーミュラー美術館がある。なければ困る。ちょっと歩くと右手の緑の中に白塗りの自転車が何台も何台も自転車置き場に並んでいた。これに乗ったら楽だろう。確かめると、どれも鍵がかかっていない。貸し自転車として課金しようなどというセコイ考えはないのだろう。オランダ人、立派なり。
僕とリエはそれぞれ気に入った自転車を選んで跨り、出発した。
これが、まあ、気持ちのいいこと!
オランダの平坦な道を自転車で走るのは理にかなっている。緑に囲まれた長い一本道をどこまでもどこまでも走っていく。ほど良く涼しい。
リエも「ひゃっほー! 戸田ちゃん、楽しいよ!」と喜んでいる。
爽やかで快適なサイクリングなのである。
美術館に着いた。白い自転車がそこらじゅうに置いてある。鍵はかけないのだから帰りは別の自転車に乗っても構わない。粋な仕組みである。
ヴァン・ゴッホのコレクションが多い。習作時代も多いので興味深い。説明によると、一大企業家クローラー・ミュラー家に嫁いだヘレナ・クローラー・ミュラー夫人はゴッホのファンで豊かな資金をもとにゴッホ研究を深め、絵を探し当ててはオークションで購入し続け、一大コレクションを作ったとのこと。夫のもとに多くの外国人実業家が訪れる自宅に飾っていた。ところがクローラー・ミュラー家は1930年の世界大恐慌で打撃を受け、国外流出するのを恐れた彼女は美術品を国に寄贈した。現在は国立美術館である。
美術館の庭にイサム・ノグチの作ったオブジェがあったので僕は並んで写真を撮った。
さて、我々は自転車置き場で、この見事な自転車乗り捨てシステムに従って、適当な自転車を拾って、帰りのサイクリングも楽しんだ。素晴らしい。
出口付近の自転車置き場で自転車を乗り捨て、バスでAperldoornに行き、そこからまたアムステルダムCS(中央駅)まで出た。
ダム広場からレンブラント広場まで歩き、EL RANCHOで食事した。ステーキとサラダと赤ワインで58ユーロ。安い。
散歩して禁治産者の憩いのコーヒーショップ「ダッチフラワーズ」でタイ産のジョイントを買って吸った。
河岸を変えて今度は「デ・ヨーデン」でビールを飲む。ジェニーバ(オランダのジン)も飲む。
僕はスペースケーキを買った。
列車でホテルに帰り、リエは風呂から出てくると「眠るから眠る。だから眠る」と宣言するように言い残してすぐ眠ってしまった。
僕はケーキを食べて眠ってしまった。
ゆっくり起きる。
最終日だ。
僕は10時過ぎに朝食。リエは11時過ぎだったのでほとんどが片付けられてしまっていた。風呂に入る。リエはソルトとバスジェル入りのバスタブに浸かった。
チェックアウトはだから14:00近くになった。
KLMにチェックインしてからスキポール空港の巨大な構内のデューティーフリーでショッピングする。
レストランでステーキとサラダと赤ワインを摂る。
その後もぶらぶらしていると、すぐ時間となった。
KLMの機上の人となる。
隣に座った白人と話す。
彼は香港に住むカナダ人だ。妻はドイツ人のピアニストだという。今は金融業で、ヘッジファンドのセールスに携わる。それまではずっと冴えないダイレクトメールの会社でセールスをやっていたのだが、34歳の時に昇進話が出た時に、逆に辞表を書いたのだという。
「そこの会社の40代や50代の社員を見ていて、とてもこんな風にはなりたくないな、と考えたんだ」と彼。「金もないし、時間もないし。自分は何をやってるのかって。それで辞めて世界旅行した」
「似てるな」と僕。「僕も日本の会社で31歳の時、40代や50代の社員を見ていて10年後の自分がそうなるのかと考えたら憂鬱になって辞めてヨーロッパを旅行した」
それだけ言葉を交わすと僕は爆睡した。
目覚めると香港だった。12時間のうち、ほとんど10時間は眠りこけていた。
隣のカナダ人はペーパーバックを読んでいた。P・D・ジェイムスが著者名だったので僕は聞いた。「そこまでで何人殺された?」
「まだ三人」と彼は笑った。「ところで君の眠りっぷりには嫉妬したよ。僕は一睡もしていない」
「お気の毒様」我々は握手をして別れた。
「香港、懐かしいね、戸田ちゃん」とリエ。
「添乗員、仕事が無事終了した。今晩は飲んで寝るだけにする」
「まだ寝るの?」
「ああ」
休日疲れを癒す休日。
バンコク出張。
午前中は外でミーティング。
午前中は外でミーティング
休み。バンコク出張中「瀬戸正夫の人生」上・下巻バンコク・東京堂出版(500部限定出版)、上巻400バーツ下巻500バーツというのを購入した。ひどい造本の自費出版みたいな本だが、なんとなくこころひかれて買ったのだが、これはいい本だった。自分の父とほとんど同世代の人間の、戦争に弄ばれた数奇な運命がここにある。瀬戸さんはまだご存命だろうから72歳くらいになる。次回のバンコク出張でお会いできないだろうか?
休み。
21世紀的香港日記 2002年 目次ページへ
Y2K 2000年日記 月別インデックス