戸田光太郎の2000年日記
- 2000年3月20日
2000年
3月20日(月)
- シンガポールのC上級副社長の携帯に電話。今チャンギ空港から香港に飛ぶとこ
ろだというので仕切り直し。
台湾総統の李登輝著「台湾の主張」読了。PHPから出ていて、山本七平賞を受賞
している。○。手前味噌で平板な記述はマイナスだが、彼の勤勉な政治姿勢に打
たれる。こういう立派な政治家が不在であることが日本の不幸である。今の日本
人には信念がない、と李は喝破しているが、その通り。
さて、ちょうど台湾総統戦の結果が出た。
初めて野党から総統が選ばれたのだ。
蒋介石の息子、蒋経国が端緒をつけ、初の「本省人」総統李登輝がレールを敷いた
民主化路線が、ここで花開いたことになる。民主進歩党(民進党)陳水扁は三候
補の中で最も若い。49歳だ。台湾大学を卒業して弁護士になり、台北市議、立
法委員と歩み、その間、呉淑珍夫人が政治テロに遭い半身不随になったという。
アジアの政治家は日本の二世議員と対照的に修羅場をくぐっている者が多いよう
に思える。今回の顛末で辞任するという李総統も日本とアメリカで教育を受けた
学者でありながら、政治家としての手腕を発揮したツワモノだ。
どうせ日本は最低のところまで来ているのだから、ちょっと右翼的な部分は危う
いが、アクの強い石原慎太郎を首相にして大胆にアメリカと駆け引きさせた方が
お国のためにはいいかもしれない。すぐCIAに暗殺されてしまうかもしれない
が。
李登輝は「台湾の主張」の中でこう書いている。
「失礼ながら日本人はいま、びくびくして生活しているようにみえる。怯えながら
経済活動をしている。アメリカ人に会っただけで、身構え、肩肘を張ってしま
う。実はアメリカは、それほど強くないことに気が付かない」
これは痛いところを突かれていると思う。
向こうの夜中10時に香港のCに電話。明日の現地時間午後6時、ロンドンの朝
10時に話し合うことを約す。
英国のコンサルティング会社が日本での講師を求めているが興味あるか、とロン
ドンのリクルート会社から連絡がある。
条件次第、と返答する。今週中に面接予定。まだまだ最後の最後まで、賭け金は
ロンドン、シンガポール、東京と、世界のあちこちに分散しておこう。
英国ニュースに原稿を送る。
シンガポールの不動産屋数社にEメールを送り、物件を探すように頼む。近々リ
エと再訪して住居を決めたい。
東京で会った人々に礼状メールを送る。
ロンドンのリクルート会社から電話。明日、夜7時半に英国人担当者と面接する
ことになる。
リエも僕も突然、寿司系が食べたくなった。
ワインを抜いて飲みながら、僕はご飯を炊いてアボカドを切り、マッシュルーム
を出汁で煮て、残った出し汁で薄卵焼きを作り、炊き立てのご飯を冷まして寿司
酢を掛け、器に盛って材料を並べ、簡易チラシ寿司をでっち上げた。
旨い、旨い、天才、と自画自賛しながら食べる。
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