戸田光太郎の21世紀的香港日記 2003年

2003年9月28日〜10月31日


2003年
9 月28日(日)

洗濯屋に汚れ物を出し、先週のものを受け出す。
赤ワインを飲みながら、お昼を作る。バジルのパスタとサラダ。
それから夕方まで眠ってしまって慌ててシンガポールに飛ぶ。
深夜に到着してホテルにチェックイン。
ちょっと寒気がする。これは、ちょっとやばいな。だけど、僕はウルトラ丈夫人間、ではある。

9月29日(月)

08:00にホテルでブレックファスト・ミーティングをしてから、ほとんど一時間刻みで外部ミーティングをする。東京から飛んできて午前一時に到着したNさんと合流。
帰ってからホテルの医者にかかる。この時の経緯はコラムに書いたが限りなく違法なので没原稿となった。ここに公開する:

アジアの路上で
「シンガポール: 体温計と解熱剤」
戸田光太郎
日曜日の夜、本社機能のあるシンガポールに飛んで、翌月曜、東京から合流したNさんと二人、一日で10余りのミーティングをこなしていたら、冷房の効いている部屋でタラタラと汗をかき、本社ビルの冷房が切られた午後7時以降には皆が暑いと上着を脱いでいる中、上下スーツの私は寒くてブルブル震えた。風邪だ。体は丈夫なはずだが、こういうこともあるらしい。先週末にシンセンに行ったことが頭をよぎった。まさか。ホテルに帰って、冷房を切ってバスローブをまとってもブルブル震えてしまう。
レセプションに電話して医者を呼んでもらった。こんなことは初めてだ。
医者が来て体温をはかった。「39度5分。これは、二日は休まないと駄目ですね。我々医者なんて37度5分あると働いてはいけないことになっている」
「いや、明日もミーティングがあるから休めないんです」
「どちらの国からいらしたのですか?」
私は嘘をついた。「日本人です。東京から来ました。明日帰ります」香港から来たなんて言った日にはシンガポールの医者なら当局に通報するのが義務と考えるだろう。ここは密告社会である。そうすれば今夜から10日は隔離されてしまう。
「東京ですか。でも、だいたい、この熱じゃ、出国できないでしょう」
空港で熱があることがバレたらやはり10日間は隔離されてしまう。それは避けたい。「先生、お願いですから熱を下げてください」
医者は私をベッドにうつ伏せにさせ、尻に注射した。これまた子供の頃以来、久しぶりだ。抗生物質と風邪薬を置いて医者が出ていったあと、私はその薬とミネラルウォーターを大量に飲んだ。夜中に目覚めるとバスローブが汗で重くなっていた。まるでバスローブでプールに飛び込んだみたいになっているのだ。シーツまで濡れていた。水を摂取し、バスローブを取替え、ツインベッドの空いている方で寝た。次に起きるとまたバスローブとベッドは汗で濡れていた。干しておいた最初のバスローブに着替えて、最初のベッドに戻って寝ると翌朝にはどうにか動けるようになっていた。ゾンビー状態で全てのミーティングをこなし、夕方、出国する時が恐怖だった。10日間も拘留されたら大変だ。ところがシンガポールのチャンギ国際空港は入国にはうるさいが、出国は簡素で体温もはかられなかった。で、次が香港への入国で、ここでは電子体温計を係官が乗客一人一人の耳に突っ込んでいた。まずい。私は体温計が耳に突っ込まれる瞬間、ふっと自己の存在を消し去り、今まで考えていた懸念(香港で拘留隔離され、「日本人初のSARS患者、隔離!」と誤報が流れ、FRIDAYに顔写真が載り、関係者や家族に多大なる迷惑が及び、香港経済と日本経済に大打撃が出る)も拭い去った。奇跡だ。私は無事通過し、香港に入国できたのだった。いやはや。
昨今、旅行中は体温計と解熱剤を持参すべきだ。さもなくば、あの関門を通れるか自己判断できないし、一時的に熱を人工的に下げるという芸当もできない。

9月30日(火)

半病人だというのに一日忙しく働く。

10月1日(水)

香港は休日だ。
夕方の便で台北に飛ぶ。

10月2日(木)

系列局のオフィスで打ち合わせ。
オフィスから出てビジネスランチ。
またオフィスに戻り、系列局台湾人社長Sと営業の女性Nとクライアント担当で英語が流暢な女性Jと香港から英語も広東語も北京官話も出来るCとで台北から一時間半も離れた会社へ向かった。
タクシーの中で僕はもう一度皆にブリーフィングして、打ち合わせる。
相手は一人の日本人女性を除いて全員台湾人だったが、皆アメリカで教育を受けたような人ばかりなので英語と中国語半々で3時から6時半過ぎまでミーティングした。
戸田が英語。Cが英語を主に中国語。Sが中国語を主に英語で。
スタッフが空港まで送ってくれる。会議は上手くいった。

10月3日(金)

Aの香港行きがキャンセル。よって8:30のブレックファスト・ミーティングもキャンセルとなる。

10月4日(土)

リエと上海料理を食べた。まずい。
ハイファイを買う。SANYO製。
また風邪をひいた。38度ある。
昔、角川文庫で読んだことのあるエリック・シーガル著「OLIVER’S STORY」をペーパーバックで読んだ。最後に香港のシーンが出てくると記憶していたが、やはり出てきた。
人権を無視する安い労働力を供給する場所としての香港だが、それはもう20年前の話。
安い労働力はもはや中国の内陸部までいかないと、ない。
DVDで買ったデイビッド・リーン監督「旅情」をリエに見せてあげる。夏に行ったヴェニスのことを色々と話しながら。

10月5日(日)

まだ風邪だ。37度台まで下がる。

10月6日(月)

シンガポールとTV会議。

10月7日(火)

忙しい。

10月8日(水)

忙しい。

10月9日(木)

忙しい。

10月10日(金)

朝から集中して先週推し進めた台湾プロジェクトを追い掛ける。
成約出来た。何度やっても嬉しいものだ。
帰宅してから古畑シリーズをVCDで全部見終わる。

10月11日(土)

夜、リエと同じ大阪外国語大学卒の夫妻(妻はトルコ語、夫はデンマーク語か何か)に誘われて社交ダンスのクラスに出てみる。
終わってからみんなと「とん吉」で食事
帰宅してから、高橋源一郎の書評集○、ナンシー関の対談集○、三谷さんの全仕事○、の軽い三冊を読む。

10月12日(日)

夜、花火があるというので、タクシーを拾ってビクトリアピークまで行く。色々と回ってみるが、どこも花火を見ようという客で一杯だ。
ようやくマルシェのカウンター近くの丸テーブルを見つけた。座ってシャンペンを飲む。
と、花火が上がった。ビクトリア湾や摩天楼が輝いて美しい。
丸玉屋らしい。彼らとはオーストリアのオペラ・フェスティバルの仕事でご一緒させていただいたが、相変わらず素晴らしい。前半のアメリカの花火屋よりずっと上だ。感動する。

10月13日(月)

朝8:30からシンガポールとTV会議。10時まで。
英国人社長が加わって11時まで会議。
11時から12時までまた別の会議。
3時間半ほど延々とTV会議である。

10月14日(火)

午後、九龍半島某所でミーティング。
後は社内で忙しくしている。

10月15日(水)

社内で忙しくしている。

10月16日(木)

社内で忙しく出張準備など。

10月17日(金)

朝の便で久しぶりにジャカルタに飛ぶ。
タクシーが手配されていて「ミスター・トダ?」と声を掛けられた。
それで中心街に向かい某社でミーティング。
その後はホテルに向かった。警備が厳しい。タクシーのトランクは勿論、乗客の顔つき、車体の下を探知機2台で爆弾を調べてからホテル前の車寄せに着いた。
Yさんが「ジャカルタに泊まる時は今、アメリカ資本系ホテルは避けた方がいい」とアドヴァイスしてくれたのでこの、MULIAという地元のホテルみたいな名前を選んだのだが、これが、まあ、立派なホテルで、堂々たるもの。後で知ったのだが、政府高官なども使う一流ホテルだとかで、アメリカ資本のホテル同様、爆破ターゲットになりうるホテルだった。警備が厳しいわけだ。
チェックインし、電話を各所に掛け、今夜のパーティー会場に向かった。
数ヶ月前に出来たモール内にあるSCORE!というクラブである。
このモールにはあらゆる店舗が入り、タイ料理、和食、イタリアン、色々ある。身奇麗な若者が多く、これがインドネシアだとは俄かには信じ難い。MULIAに出入りしている客も着飾った金持ちや外人ばかりで別世界だ。
アジアでの出張であまり心踊らないのが二つの都市、ジャカルタとマニラだ。両国とも治安が悪いし、街がごちゃごちゃしている。が、食事の面から言うとジャカルタの方が断然上だ。マニラには食べるものがない。フィリピンは独自の文化というものが、スペイン、オランダ、アメリカに悉く蹂躙されて、非常に気の毒な状態にある。インドネシアも蹂躙されたが、まだ固有の文化は生きているし、今回色々な人の話を総合すると、経済的にもまだぐんぐん伸長しているようだ。マニラもジャカルタも富裕層が突出しているが、インドネシアでは一般的に、給料が10%ずつ上がっているという。インフレもひどいようだが。
マニラかジャカルタかどちらに住め、という究極の選択を迫られたら、迷いなくジャカルタに住むだろう。
SCOREでのイヴェントは非常にうまくいった。司会の男女カップルVJ(ヴィデオ・ジョッキー)が上手い喋りで(インドネシア語だけど、客の反応で見当はつく)、会場を盛り上げていた。
終わったのは22:00くらい。
リエは光州のコンサートイヴェントに行っているので携帯電話で話した。コンサート自体は良かったようだが、香港からのバスツアーの仕切りがイマイチだったようだ。実はジャカルタのイベントと、この光州コンサートの他に、今日はボンベイでのファッションショーという同じテレビ局系列イベントが本日重なって、三箇所から来るように言われていたのだが、結局、自分が三年間関わってきた、新人歌手をアジアで発掘して音楽奨学金を与える、というイベントのセミファイナルが開催されたジャカルタを選んだのである。
部屋に引き返して風呂に入ってテレビを見ながら、明日が5時半起きなので寝た。

10月18日(土)

土曜日だというのに5時半に起きてチェックアウトしてタクシーで空港に向かう。
7:25発のCX便、シンガポール経由で香港に帰った。
もう午後で、空港特急の九龍駅からタクシーでオフィスに行き、働く。光州から香港に入っているYさんのホテルに電話して待ち合わせた。九龍のハイアットでYさんをピックアップしてスターフェリーで香港島に向かう。
Yさんはフェリーに乗るのは10年振りだそうだ。
初めてだという香港の六本木、ランカイフォーのアイリッシュパブで日本対フランスのラグビーW杯を見ながらギネスを飲み、四方山話をする。
有名レストラン、ヨンキーに移動して、「土曜日だから奥さんもいかがですか」とYさんも言うのでリエを呼び出して一緒に食事した。
食後は、ビクトリアピークにまだ行ったことがないというYさんをタクシーでピークまで案内した。
「凄い施設ですね。なんか、展望台がぽつんとあるだけのイメージだったけど」と驚いていた。確かに、ピークにはレストランやカフェやブティックから蝋人形館まである。
Yさんは「百万ドルの夜景」にも見入っていた。
明日の朝は早いのでピークでYさんをタクシーで見送り、我々は帰宅した。
今夜のうちにパッキングした方がいいと僕は言ったが、リエは明日の朝する、と拒絶した。

10月19日(日)

日曜だというのに早起きしてリエを起こす。やはり朝のパッキングは非常に危険で、どたばたしているうちに遅れ、ぎりぎりのチェックインとなり、CXのラウンジでゆっくりコーヒーを飲む暇もなかった。
台北に着くとホテルへのリムジンが手配されている。
一時間ほどして定宿ファー・イースタン・ホテルにチェックイン。いいホテルだ。
落ち着いてからタクシーで街に繰り出した。
紅楼劇場に行く。二階でSレコードのSさんと会う。ここはとてもいい劇場だ。最前列の席に案内された。台湾の系列局でタレント渉外担当Oがやってきた。彼女が招待してくれたのだ。
やがて元ちとせが出てきた。こんなに間近で聞けるとは嬉しい。
彼女は美しい顔立ちだが、お腹が大きい。妊娠しているのかもしれない。
非常に説得力のある歌唱で感動した。
テレビカメラが収録していて何回も観客のリエを撮っていた。
いったんホテルに戻り、ホテル周辺にある商店街にリエを案内した。
日本のドラマのVCDをいくつか買った。

10月20日(月)

系列局の台北オフィスで仕事。
営業部長のT女史と一緒にシンガポールとTV会議。
お昼は某社の人々とビジネス和食ランチ。
午後にいくつかミーティングしてからリエと合流して帰る。

10月21日(火)

香港で忙しく働く。

10月22日(水)

香港で忙しく働く。

10月23日(木)

香港で忙しく働く。

10月24日(金)

9時KLに飛ぶ。
マンダリンオリエンタルの車が迎えに来ていた。秘書Mさんが手配してくれていた。ありがたい。一時間ほどのドライブでチェックイン。
マンダリンオリエンタルは立派なホテルだ。部屋もゆったりしている。
三年も続いている音楽奨学金のイヴェントの準決勝が地元のクラブNUOVOで行われた。
大盛況である。
優勝したブルースを歌った17歳の女の子にアドヴァイスした。
「本選では黒い踝までの長いドレスを着た方が絶対いいよ」彼女、ジーンズに臍だしトップスだったのだが、太っているので醜い限りだった。ブルース的な、エラ・フィッツジェラルド的な服装が合うと思う。
「わかりました」と彼女。マレーシアの人々は、普通の教育を受けていると英語が話せるので楽だ。

10月25日(土)

KLから10:00の便で香港に舞い戻る。
リエは風邪をひいていた。
しめじご飯を作って食べさせる。
他にはセントラルのシティー・スーパーで買ってきたミニとんかつとミンチかつ。
味噌汁も作る。

10月26日(日)

僕まで風邪ひきだ。
我慢してなんとか掃除する。洗濯もする。

10月27日(日)

風邪ひきだ。
ピザを宅配して食事。
夜はオムライスとアンチョビパスタを作る。

10月28日(月)

8:30からシンガポールと電話会議。10:00よりテレビ会議。

10月29日(火)

朝、ワンチャイでミーティングがあるので自宅のマンションからタクシーを拾おうとすると、ちょうど僕と同じタイミングで拾おうとしていた女性が、ちょっとがっかりしたような様子で「どうぞお先に」というように手を振った。
確かに僕は彼女より先に来ていたと思うが、タクシーかこの時間、なかなか捉まらない。気性の激しい香港女性なら割り込んででも僕のタクシーを奪っただろう。だから気の毒になって聞いた。
「どちらまでですか?」
「北角(ノースポイント)です」
「僕はワンチャイですから途中で落としましょうか?」
「地下鉄でお願いします」
 で、乗り込んできた彼女が非常に繊細な美人だということに気づいた。美味い料理を少しだけ食べて、エステしてブランド物で身を固める、そういうタイプ。
 彼女は、北角(ノースポイント)生命保険会社の女性従業員だと言った。英語はうまくない。ということは、ばりばりのキャリアの稼ぎから自力でミド・レベルに住んでいるようにも感じられなかった。どちらかといえば、そこそこ稼いでそれは自分の身なりに投資して、いい男をつかまえる、というタイプだ。
多分、誰かの愛人ではないのかな。
僕は地下鉄駅アドミラルティで彼女を落とし、香港エグジビション・センターに向かい、CASBAA(ケーブル衛生放送協会)のシンポジウムに出席した。社長の英国人Fが出席するからだ。
香港オフィスの男性Fと昼食する。
彼には子供がいる。七歳の女の子と四歳の女の子。そして三歳の男の子。
バイオリン、ピアノを習わせている。
だから彼に、私生活はない。全員が22歳くらいになるまで、私生活はないだろう、という。そして22歳を過ぎれば、それでもただ彼らは巣立っていくだけだ。そうFは笑った。

10月30日(木)

オフィスの皆に昼をご馳走する。
夜、リエが来る。
近くの韓国焼肉で夕食。
ランカイフォーで飲む。店の前の方に座っているとキラキラ赤や青に輝く夜光バッジを売って歩いている人がいるのでいくつか買い上げた。
輝くバッジをつけている通行人は多い。ハロウィンだからだ。
警官が来ると物売りは逃げる。
レスキュー隊も通る。

10月31日(金)

夜にCASBAAボールというケーブル衛生放送協会のパーティーがあった。
司会者はCNNのキャスターで、ゲストとしてロジャー・ムーアが来た。老人である。自分でもそれをネタにジョークを飛ばしていた。
香港のクリスティーズがオークションをした。アリがビートルズと写っている生写真というのが人気だった。アリがサインしている。
ただ酒をしこたま飲んだ。

 
 




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