リエの母がシンガポールの旅行から福岡に帰っていた。電話で話している。毎日雨
だった、とのこと。残念。
部屋を掃除してからセントラルのレインクロフォードBCBGでリエは買い物。が、いい
ものがない。この前買ったワンピースがお気に入りで第二段を探しているのだ。
コーズウェイベイで買い物する。
タイムズ・スクエアに行く。ここは漢字では「時代廣場」と書いてある。アルファ
ベットでないとなると、香港では全てが漢字一色になってしまうのが面白い。
それにしても、外国語表記や擬音のためにカタカナを発明した日本人は偉い。
別のレインクロフォードに寄る。
ベルトとセーターを買った。
餃子屋でビールを飲みながら食事。
タクシーで帰る。
コーズウェイベイはいつも非常に混雑しているが、タクシーを拾えばものの15分で
自宅に帰れるのが、いい。しかもタクシー代も500円以下。
日本のような混雑した電車や道路とは無縁だ、立地的に。
ミドレベル(半山:ぷんさん)はいい。
出勤してから近所の山崎パンを買ってオフィスで紅茶を淹れて朝食。
昼は一人で秘書Mに買ってきてもらったテイクアウトを個室で食べる。
明日のビジネス・ランチの件を、シンガポールで病欠中の英国人Cに指示。
夕方に「ローカロリー」表示のカップヌードルを食べてしまう。
夜はリエと待ち合わせて韓国料理
スターフェリーのロアー・デッキで香港島に渡る。
夜景は綺麗だ。
向こうの埠頭に着くと、タクシーで帰る。
明日の出張の荷造りをする。
昨晩というか今朝午前2時頃まで起きていたので4時間後、朝6時に起きる。今日は
空港からビジネス・ランチに直行するのでスーツに着替えた。
自宅前でタクシーを拾って空港特急の香港駅に向かう。よれよれのまま列車に飛び乗
り、うつらうつらしているうちにもう空港だ。
チェックインしてスーツケースを持ち込もうとしたら入り口でスーツケースを女性係
官に計られて、「これは大き過ぎます」とはねられた。またカウンターに戻ってスー
ツケースをチェックインにする。
預け入れ荷物を待つことなくランチの場所に向かいたかったのだが、駄目だ。
到着予定時刻が11:45で、ランチが12:30である。ぎりぎりの線だろう。
8時半に出発した飛行機の中では眠った。
朝食も断る。
目覚めてからはパワーポイント・プレゼンテーションをいじった。
到着は早く11:30だったが、バゲージがなかなか出てこなかった。
携帯が鳴る。ランチに同行してもらうはずの英国人の上級福社長Cの秘書からだっ
た。「戸田さん、シンガポールにタッチダウンしたところ?」
「そう。今、バゲージのとこ」
「Cはまだ凄く体調が悪くて、でも、大切なビジネス・ランチなので自宅から直行し
て、また家に引き返すと言ってるの。いいかしら?」
「それは全然構わない。僕もスーツケースをがらがら引いてレストランに行くから」
「わかったわ」
いらいらした。結局12時を回ってしまう。
ようやく出てきた荷物を拾ってタクシーでリッツ・カールトンに向かう。
ポーターにスーツケースを預けて1階のレストラン、グリーンハウスに行くと、もう
Vさんが来ていた。時計を見ると12:20。
僕のその動作を見たVさんが言った。「戸田さん、僕がただ早かっただけ」
握手をしてランチ。途中から英国人Cが加わった。彼は本調子ではなかった。
ホテルに荷物を落として風呂に入ってまたスーツに着替える。
ミーティング。彼は香港から来たばかりの人だ。
慣れ親しんだ会社による。
自分の個室もまだ残っている。
電話連絡。PCをLANに繋ぐ。メールと連絡。
夜は一人で昔通った餃子屋で食事。ここは美味しい。
「天津馬記餃子」TIEN CHUEN FONG KEE DUMPLINGS
電話は6220−3318。試してみられたい。
ホテルに帰ってNHK衛星を見た。夏樹静子原作「量刑」。中村雅俊は老けた。もう青
年ぽさはない。話の作りとムードとBGMは完全にフランス映画「死刑台のエレベー
ター」である。監督の趣味だろうか。音楽、ボブ佐久間とある。
インターネットで調べてみると、1949年、兵庫県 宝塚市生まれの作曲家、編曲家、指揮者。京都市立堀川高校音
楽科(現京都市立音楽高校)卒業後、わずか19歳で東京交響楽団第1ヴァイオリン奏
者となり、21歳でジャズ・ピアニストに、23歳で作曲家としてデビュ−後、数多くの
TVドラマ・音楽番組を手掛ける。1977年よりハリウッドに在住。1985年に帰国後は、
壮大かつ多彩な作・編曲力を武器に、国内はもとよりフランス映画まで幅広く無数の
サウンドトラックを手掛け、莫大な数のTV番組、ドラマ、アニメ、コマーシャル、
ミュージカル、ステージ等を担当する傍ら、東京交響楽団、新日フィル、札幌交響楽
団など、全国の主要のオーケストラより招かれ共演、常に大好評を得ている。95年よ
り、名古屋フィルハーモニー交響楽団ポップス部門のミュージックディレクター(音
楽監督、常任指揮者)に就任。その作曲、編曲活動はクラシックからジャズ〜ポップ
ス〜ミュージカル〜演歌〜ジャニーズ系とジャンルを問わない。老若男女、クラシッ
ク派、非クラシック派を問わず「より多くの人々にもっと気楽にオーケストラを楽し
んでもらう事」をライフワークにしている。日本作編曲家協会理事。名古屋芸術大学
客員教授。世界でもあまり例を見ない、作曲・編曲・指揮をすべてパーフェクトにこ
なす、マルチ・アーティストとして注目を浴びている。
とあった。凄い。器用貧乏的な要素もありそうだが。「量刑」の監督が「ねえ、佐久
間さん、死刑台のエレベーターのマイルスの線で一曲書いてよ」と言われれば、さら
さらと書き下ろせる人に違いない。
広告代理店で朝一番にミーティング。相手はシンガポール人なので英語。媒体担当に
して非常に元気な女性である。
オフィスに行き、個室に入り、ラップトップをLANに繋いでメールと電話。
昼に日本のレコード会社一行が到着し、うちの制作部の福社長、ドイツ人とインド人
の混血Mとミーティングし、お昼もする。場所はフラトン・ホテルの近くにある方の
インドチン。目の前が運河で、高層ビルが立ち並んでいる。
エレガントな昼食となった。
レコード会社役員も喜んでくれた。レコード会社のJさんは日本人とアメリカ人の
ハーフで、彼は日本一の通訳Mさんよりも、もっと上手く通訳するのには舌を巻い
た。だから僕は楽だった。
Mと僕は会社に引き返す。また個室に戻り、電話とメール。
夜になってホテルに寄ってスーツを脱ぎ、シャワーを浴びてカジュアルに着替え、イ
ヴェント会場に行く。
ここ一ヶ月余り、このプロジェクトでアジアをずっと回ってきた。
アジアの才能を掘り出して、音楽奨学金を授けるという企画だ。
振り出しは台湾の台北で、次がフィリピンのマニラ、マレーシアのクアラルンプー
ル、韓国のソウル、タイのバンコクだ。ジャカルタはキャンセル。
それぞれの国でのセミ・ファイナルの様子や優勝者がの姿が会場でビデオモニターに
映って感慨深いものがあった。
これで全て終わった。
英国人上級福社長Pと打ち合わせ。中華系女性プロデューサーFも加わる。
これを早目に切り上げてヒルトン・ホテルのバーに向かった。
知人が某国の国民的英雄のスポーツ選手と待っていてくれた。お忍びなので詳しくは
書けない。
バーで飲んでから次の場所に行って飲む。
色々と面白い話はあったが、スターとしての彼の立場があるのでここには書けない。
知人のことも書けない。
更に我々は知人の車で知人の友人の経営しているクラブに行って、僕は踊ったが、そ
の詳細もここには書けない。
書けないことばかりで、HP読者には、すまぬ。
関係者が全て他界した暁には書けるのだろうが、生憎、スターはまだ、21歳なので
ある。
121歳まで生きなければ書けない。
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