戸田光太郎の21世紀的香港日記 2003年

2003年11月1日〜11月24日


2003年
11 月1日(土)

休日。ゆったりする。

11月2日(日)

起きてからウォーキングルートとして有名な貯水池に行く。シティースーパーで弁当を買って。
が、貯水池は阿呆らしい場所だった。
ただの人工的なダムである。
帰りにセコハン屋のミラノで、リエはヴィトンを買う。大喜びだ。
彼女がWEBで商品をチェックしていた。ヴェネチアと呼ばれるなかなかの品物のようだ。良かった。

11月3日(月)

リエと和食を食べる。
ローカル香港人ばかりのパブで飲んだ。
タクシーを拾ってビクトリアピークの夜景を眺めながら赤ワインを飲む。
リエは明日の誕生日で20代最後の年を迎えることにショックを受けている。
彼女が21歳の時に僕と出会って、もうそれだけの月日が流れたのだ。
「わたしの20代は戸田ちゃんに捧げたんだからね」と言われる。応えようがないコメントである。

11月4日(火)

去年の今頃、スウェーデン人のヘッドハンターから最新版のCV(履歴書)を書いて送って欲しいと言われて、すっかり忘れていたら、もう一年も経ってしまった。
彼とは2000年の前半に会ったきりだけど、その後、転職してハワイにいるという。今度の会社はハワイと東京と上海にオフィスがあるのだという。また去年と同じことを言われたので、今度こそCVを書き直してハワイに送った。
16:00の便でシンガポールに飛ぶ。
シンガポールのホテルにチェックインしたのは真夜中。

11月5日(水)

8時に東京から出張してきたN社長と朝食。9時には本社オフィスに行く。11時には記者会見ランチの会場(グランドハイアットのメッツァ)をチェック。記者会見は正午から午後2時まで続く。
夕方、香港に飛ぶ。

11月6日(木)

香港オフィスで忙しく働く。
香港のスタッフは、本日、こちらでの記者会見準備で騒然としている。
タクシーで香港島側のグランドハイアットに移動し、シンガポールのVJ(ヴィデオ・ジョッキー)デニス司会でミッシェル・ブランチを迎えての記者会見が17:30にあった。

11月7日(金)

19:30のCX便で香港から台北に飛ぶ。
ホテルに着いたのは深夜。近所を散策する。

11月8日(土)

朝、元ちとせが台湾の地上波テレビに出ていた。これは先日リエと台北で見た紅楼劇場でのコンサートだった。
何度か客席が映り、そのたびにリエの姿がきっちりあった。
で、それを知らせようと香港のリエに電話をすると「今、ミックと一緒なの」と取り合ってもらえなかった。
14:00には街中の会場に移動する。審査員をブリーフして、14:30にはVJ(ヴィデオ・ジョッキー)のアンディーが来た。愛想のいい可愛い男の子である。
Wan Zhiが歌い、アンディーがインタビューする。中国語なのでわからない。
Wang Wei Deの歌も挟んで、音楽奨学金を狙う10人の候補者が歌う。
去年の台湾での優勝者が歌い、去年のグランドファイナル優勝者も歌う。
イヴェント終了は17:00頃。
そのまま空港に駆けつけ、香港に飛ぶ。
今晩、リエが通訳をしているロンウッドが画廊の打ち上げパーティーをやっていて、そこに呼ばれていたのだが、会場のキークラブはもぬけの殻になっていた。

11月9日(日)

招かれて行ったストーンズのコンサートに感動する。
この顛末についてはこのようなコラムを書いた:

アジアの路上で
「香港:60歳の不良に脱帽」
戸田光太郎
11月8日土曜日の朝、台北のホテルで地元のテレビを見ていたら奄美大島出身の歌手、元ちとせのミニ・コンサートが放映された。ちょうど2週間前に台北の紅楼劇場で収録に立会い、ちとせファンの妻も連れていったのだが、最前列に座った彼女の姿が何回も映ったので携帯に電話して知らせようとした。「元ちとせのコンサートを今、台湾のテレビで放映してるんだけど…」
「ちょっと、御免、今、キー・クラブで、ミックと一緒なの。後で掛けるわ」
元ちとせが吹っ飛んだ。そうだった。ローリング・ストーンズのメンバー、ロン・ウッドは画家でもあり、彼の作品を扱っている日系画廊のM女史が、我が妻を通訳として指名してくれたのだった。今夜、香港のキー・クラブを会場にした展示会があり、ロン・ウッドがやってくるという。そこにミック・ジャガーが現れたのだろう。私は台北でのコンサートの仕事を終えてから香港に飛んでキー・クラブに駆けつけた。
遅かった。誰も居ない。パーティーは終わっていた。携帯が鳴る。妻だった。
「御免なさい、キー・クラブの方は終わっちゃったの。チャイナ・クラブに皆で移動して、今、ストーンズのメンバーとビル・クリントン元大統領が目の前にいるの。すぐ後ろはジャッキー・チェン。横にはチャウ・シンチー。95%が有名人で、クリントンだけじゃなくて皆SPが付いているし、もうセキュリティーが厳しくて入れない状態よ」
「わかった」残念だ。「疲れているから帰って寝る」
ストーンズとクリントンとジャッキーと接近遭遇するとはなかなかあることではない。最近、衛星テレビ業界パーティーに、元ジェームス・ボンドのロジャー・ムーアがやってきたが、それも吹っ飛んだ感じだ。
「実際のミックは小さかった」と翌日妻は言った。「クリントンも思ったより小さかったけど、顔だけは大きくて、ミックと並ぶと1.5倍くらいあったわ」
世紀の顔合わせに立ち会えなかった夫を不憫に思ってか、妻は翌9日夜のバックステージパスをM女史の尽力で入手してくれた。
この日のストーンズのコンサートは、ご覧になった通り、最高だった。特にミックは凄い。60歳でお腹はぺったんこ、ステージの端から端まで走って踊って息も切らせず艶やかな声で歌い上げる。
実は私はビートルズ派だった。ビートルズは哲学者、ストーンズは馬鹿な不良ロッカーという認識。しかし、50年も不良でいるのは偉業だ。ビートルズは革命と平和とか人生の意味とか小難しいことを考え始めた後半からレコーディング・アーティストになってしまい、4人のメンバーのうち2人は死んだ。それに比べてストーンズはシンプルなロックだけを作り続けてコンサート活動もまだバリバリの現役、長い目で見ると、人生は小難しいことは考えずに体を鍛えて長く楽しく生きた方が勝ちなのではないかと思わされた。隣で妻が言った。「ミックは昼間普通のオジサンだけど、ステージだと目が話せない感じね。あれ、どうして泣いてるの?」
私は「サティスファクション」から先はもう滂沱の涙、60歳の不良に脱帽した。

11月10日(月)

朝から延々とシンガポールとテレビ会議。
全く忙しい。
明日は日本からVIPご夫婦が来港する。

11月11日(火)

午後にオフィスを出る。東京からVIPが来る。飛行機は早めの13:30に到着し、VIP夫妻が出てこられたのは14:00、と同時にVIPの顔写真を渡しておいたSP風黒服(イアフォンを耳に入れて互いに連携プレイする)が三名張り付いて荷物をお運びし、大型ベンツ(トヨタでなくて残念です)までご案内し、ミネラルウォーターと手拭いをお出しして、談笑しているうちにホテルが近づくと運転手がレセプションに伝えて黒服係りが挨拶して付ききりでVIPチェックインを済ませた。部屋はスイートのように広くはないが、ビクトリア湾を望む部屋で、ポーターが荷物を届けるところまで確認してから、僕は退出し、オフィスに戻った。15:00以降は日本人女性JAPANデスクが担当となるよう手配。
「リッツは色々なところで宿泊しましたが、この家具などの重厚なテイストが好きです」とのこと。
なかなか素敵なご夫妻であった。

11月12日(水)

16:00にリエと一緒にホテルにお迎えに上がり、昨晩と本日の行動をお尋ねしてからそれとかぶらないように、まずタクシーでビクトリアピークにのぼり、周囲を散策して自然と摩天楼を楽しみ、タクシーで下山してから予定を変えてランカイフォンにある老舗レストラン「ヨンキー」で夕食し、タクシーで埠頭へ移動してスターフェリーで夜景を楽しみながらビクトリア湾を渡って(社長は十数年振り、奥様は初めて、とのこと)九龍半島側からタクシーで女人街へ。奥様はここでお買い物。値切り交渉役は社長と戸田でした。あまりに変な物が売っているので大笑いしながら女人街は端から端まで堪能。タクシーで埠頭へ行き、今度は香港島へ向かってフェリーに乗り、ホテルのバーで戦利品をチェックしてから談笑してお開きとなった。

11月13日(木)

今朝は小生だけがホテルからタクシーで香港島駅にご案内し、構内でのチェックイン(奥様はCX便で東京に戻り、社長はドラゴンエアで北京へ)をお手伝いしてからエアポート・エクスプレスのホームまでお連れして、お役目御免となった。

11月14日(金)

09:05発のCX713便でバンコクへ飛ぶ。
10:50にバンコク着。
そのまま中心にあるリバティースクエアでミーティング。
ホテルにチェックインしてから着替えて会場に。BOOZE BARという郊外ワッタナにある体育館のようなクラブだ。

11月15日(土)

土曜日だというのに朝6時には起きてチェックアウトしてホテルリムジンで空港に向かう。10:00のCX708便でバンコクを離れ、13:40に香港着。

11月16日(日)

疲れてぐったりの休日。

11月17日(月)

朝08:30からシンガポールと延々12:00までテレビ会議。
日本出張の準備。
リエと夕方16:15のCX便で東京に飛ぶ。
到着は21:00なのだけどこの時間帯だと列車が限られており、22:00近くのスカイライナーで上野まで出て、タクシーを拾って汐留に出来たばかりのパークハイアット東京にチャックイン。25階にレセプションがあってその背後の大きなガラス窓からオレンジ色に輝く東京タワーが見える。

11月18日(火)

6:30に起きる。
銀座線で移動して東京のオフィスに行く。近い。
08:00に社内ミーティングして、10:30には最初の社外ミーティング。
14:00に青山でミーティング。

11月19日(水)

一日、東京でミーティング。

11月20日(木)

9時前には湯島オフィスに出てN社長とTさんと車で移動して、やってきたばかりの振り出し、宿泊しているホテルのある汐留で打ち合わせ。
昼は自棄で吉野家。これが激マズ。
13:00は渋谷で打ち合わせ、15:00に銀座で打ち合わせに滑り込み、16:30の神田での打ち合わせで終了、N社長は横浜の中華街での会合に急ぎ、僕はオフィスに戻ってから電話とメールをして新橋に出た。
このHPを作ってくださっている科学者のみやさんと会うためだが、KIMURAYAセレクトショップで待ち合わせ、携帯でどこにいるか確かめながら合流した。
新橋は烏森口にあるカントリーな店「WESTERN」にバーボンのボトルが入っているのでそれを飲んだ。マスターの佐藤さんは前に江ノ島の美味しい魚料理の店を教えてくれて、そこにリエと行ってみたら、非常に旨かった。この辺で旨い和食はありますか、と尋ねると、色々な店に電話してくれたが、何しろ旨くて安い店は混む。席は取れなかった。
みやさんと初めて会ってから20年は経っている。同じ会社に勤務していたからだ。物事は10年経つとかなり変わるが、緩やかに現在と繋がっている。が、25年経つとさすがに断絶するほどに離れてしまう。これはヴェトナムのハノイに行った時に考えたことだ。ヴェトナム戦争は1975年に終結した。それから25年を経た2000年、ヴェトナムには「戦争の傷跡」というようなことを感じることが困難だった。そして思い至ったのが日本だ。1945年から四半世紀経った1970年の日本に太平洋戦争の影はなかった。だからこそ三島由紀夫はその年の11月に割腹自殺したのではないか? 僕は当時小学校6年生だったが、戦争なんて父や祖母の話の中の遠い出来事だったのだ。
一方、みやさんと僕の在籍した会社は20年経つ現在も似たような形で存続している。非常に稀有な現象である。同じ会社出身で最近独立したHさんも葛西からこちらに向かっているという。Hさんと僕はAさんとバンドを組んでいた。佐藤マスターの紹介してくださった向かいの日本料理屋で牡蠣や刺身を食べているとリエから電話が入った。西麻布で、香港で仕事をしたチームと飲んでいるというので合流することになる。いよいよ新橋に来るというHさんを拾ってタクシーに乗り、合計8人で飲んだ。焼酎専門店なので、芋、麦、その他色々とあり、店で最も臭い焼酎、とか、店で最も高い焼酎、などと呼称されるものが次々に運ばれてぐいぐい飲む。焼酎の肴は鰻、鴨鍋、エトセトラと旨い。Hさんは女性に人気だった。が、自分には決まった人がいる、と牽制して立派である。で、もっと飲んでいくというリエを置いて、みやさんとHさんと僕の三人はちょっと早めに切り上げ、タクシーで帰った。

11月21日(金)

明け方、かなり酔っ払ったリエが女性に送られてホテルに戻ってきた。僕は少々寝てからまた起きてオフィスへ。打ち合わせをしてから新幹線こだまで掛川に向かう。
14:00の打ち合わせを終えてからとんぼ返りして東京に着いたのは18:00過ぎ。それから延々と今回の日本出張の総括をしてから帰る。
リエとホテルの地下2階にある蕎麦屋で軽く食事。
リエはオールナイトのクラブか何かに行きたいと言っていたが、僕は疲れているので、まず、ちょっと休憩したい、と部屋に戻ったら、当のリエも、翌日までぐうぐうと眠ってしまった。

11月22日(土)

起きてから準備して都営線で新橋からずっと同じ列車で黄金町まで行く。
僕の両親と会う約束をしていたのだが、30分ほど遅れてしまった。
母が昼食を作ってくれた。
生ハム、チーズ、ピクルスなどのオードブルに、ビール、白ワイン、ボジョレーヌーボー、蓮入りハンバーグ、サーモンのじゃが芋サラダ巻き、トマトとロケットのサラダ、鰯、味噌汁、ご飯など。旨い。
僕はちょっと酔っ払った。リエがもっぱら会話する。
古本屋を覗いき、リエは韓国人経営の店で黒皮のパンツを買ってから東へ東へと向かう。京葉線というのには初めて乗ったが、東京駅でのホームがあまりに遠くにあるのでへとへとになった。
新木場のSTUDIO COASTという所でコンサートがあるので急いでいる。
到着した時にはASUKAが二人の金髪の鬘を被った尻振りダンサーと歌っていた。次は湘南乃風、MINMI、MIGHTY JAM ROCK、MOOMIN、FIRE BALL、MIGHTY CROWNと続く。VIPルームには元安室奈美恵の夫、サムがいた。
全員が身を乗り出して見たのがトリのSEAN PAUL。ショーン・ポールはジャマイカ出身。踊り子たちが猛獣みたいに踊り、非常にパワフルなステージだった。
部屋に帰って荷造りしてから寝る。

11月23日(日)

6:30に起きてチェックアウト。7:05のシャトルバスで成田に向かう。8:30には到着。チェックインすると混んでいるというので僕だけビジネスにアップグレードされてしまった。リエと交換は出来ないというので、そのままにする。
空港レストランでリエは朝から蕎麦と鰻重とビール、僕は御粥を食べる。
本屋とCD屋をチェックしてゲートに向かう。
CXのラウンジでゆっくりし、僕はN社長と携帯で話しているうちに出発の時間となった。
御粥を食べなければ良かった。ビジネスクラスだったのでシャンペンやパテやチーズやフルーツが執拗に供された。
香港に着いてリエと合流し、列車とタクシーを乗り継いで自宅に帰り着く。
疲れた。明日は会社だ。

11月24日(月)

8:30に出社すると上級副社長の英国人Cが香港オフィスに突如現れた。テレビ会議にそのまま二人で出席し、シンガポールとやりとりする。延々と11:00まで。
それから僕は解放される。
シンガポールのIS部門のPが来た。
僕はデスクで仕事をしながらランチ。焼き蕎麦を食べる。
午後にはシンガポール勤務の韓国人女性Pも来た。
今日は随分と香港への来客が多い。
日本は休みなので東京からの連絡は少ない。
夜はリエが焼き蕎麦を作って待っていた。焼き蕎麦な一日だ。




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