戸田光太郎の21世紀的香港日記 2003年

2003年12月1日〜12月31日


2003年
12 月1日(月)

08:30からテレビ会議。お昼まで。

12月5日(金)

早めに出社して準備してからタクシーを拾う。渋滞がひどい。九龍半島から香港島へ向かう海底トンネルが渋滞している。タクシー後部座席から携帯で先方に遅れそうな旨を電話。
ようやく到着したクォリーベイの会社で10:00過ぎに会議。
今までと全く違う分野の業界の話なので面白い。女性に最も身近な業界で働く男性との対話。
12:00にはオフィスに戻る。
17:30には先週知り合った映画会社に勤務するMが招待してくれたIFCの映画館前で理恵と待ち合わせ、IFC内の寿司屋で食事してから映画「Love Actually」を観た。◎。
この新人監督は「ブリジット・ジョーンズ」と「ノッティングヒル」の脚本家だという。
ロバート・アルトマン的に複数の話を同時進行で裁く手腕は大したものだ。CGやカンフーや銃が出てこないこういうウェルメイドな映画は本当に大好きだ。ブレアーを模したヒュー・グランドのイギリス首相が泣かせる。ハートウォーミングなクリスマス必見映画。

12月6日(土)

スーパーで知り合ったシンガポール人Mが映画会社勤務で立て続けに試写会に誘ってくれる。今日はティム・バートンの新作「BIG FISH」だ。同僚の香港チャイニーズ女性Jと彼女の恋人のアメリカ人Sも誘って映画会社オフィスの試写室に向かった。試写は11時から。
この映画には涙してしまった。◎。実は「Love Actually」では何度も泣いてしまった。余りティム・バートン監督のことは知らないが、これを見ると彼はフェデリコ・フェリーニが好きである。僕の父はフェリーニの「アマルコルド」が好きだった。この映画は父と息子の和解の物語でもある。僕の父は彼の父、つまり、僕の祖父のことが無条件に好きだったから、条件的にはちょっとずれるけど、祖父は船乗りで稀代のほら吹き、座談の名手だったようだから、この物語は父にはたまらないだろう。
Mと連れ立って、彼の知り合いのオーストラリア人女性編集者、上海やネパールを渡り歩くカメラマンで、元々はエコロジストのオーストラリア人Bとリエと僕とで飲茶する。
非常に旨い。

12月8日(月)

タクシーを拾い、7:30に出社。
8:30からシンガポールとTV会議。正午まで。
TV会議の後でタクシーを拾って九龍駅まで行き、空港特急へ。
15:20の便で東京に飛ぶ。
20:00に東京に到着し、そのまま東京オフィスで打ち合わせ。

12月9日(火)

朝8時から東京オフィスで打ち合わせ。
N社長の運転で青山へ。10:00にミーティング。
それから東大井に移動して11:30からミーティング。
その後はオフィスに戻って仕事。
17:30からオフィスの近くでミーティング。
汐留に移動してヨーロッパ次代からの知人Tさんと夕食。

12月10日(水)

汐留のホテルから早めに出るとタクシーが一台だけ待っていた。
ハンサムな青年だ。普段は行き先を書いた紙を渡すと老眼鏡を出して見るような人々ばかりなのでこれは珍しい。
彼と道々、少々話した。
「ちょっと若い人なので驚きました」
「そうですか」
「ハンサムだし」
「ははは。お客さんもそうですけど、あそこは穴場でオイシイお客さんが多いんですよ。この前の外人さんは成田まででしたし」
空車が余っている状況の中で工夫しないで基本給だけもらえだいいとサボっている運転手が多い中、新規の汐留のホテルに張って積極的に仕事を取ってくる若い運転手は異色だ。「いつから転がしてるんですか?」
「最近です」
図々しいが、聞いてみた。「それまでは?」
「宅急便です。これは一生懸命やりました。目標がありましたから」
「目標?」
「借金返済です」
「借金?」
「はい。友人とイヴェント会社を運営したんですけど借金抱えて倒産して、僕の負債はだいたい一千万円だったんですけど、これは宅急便の会社で身を粉にして働いて返済しました。だから楽な仕事に鞍替えしたわけです」
「ってことは、タクシー運転手って、宅急便より楽なのか」
逆に言うと、短期で稼ぐにはキツい宅急便がいいのだろう。
僕は自分の仕事がタフだと思っているけど、それも相対的なものかもしれない。何を取って何を捨てるかということなのかもしれない。つまり、精神的な苦痛を捨てて、肉体的な苦痛を受ける、とか。でも、肉体的な苦役は、先端資本主義社会において歩留まりが悪いのは明らかだ。
オフィスに出社してから準備して日本橋の会社で打ち合わせ。
次に某社で打ち合わせしてから成田に向かう。
18:20のCX505便で東京へ。
22:25に香港へ。
くたくた、である。

12月11日(木)

香港で打ち合わせ。
夕方、来客。

12月12日(金)

自宅からタクシーで香港島の空港特急駅へ。10:05のCX723便で、マレーシアの首都クアラルンプール到着は13:55。
ホテルの車が迎えに来ていて、英語が出来るこの国の運転手と話しながらホテルへ向かう。
チェックインして各所に電話。
17:00には会場に向かおうとするが、雨季のKL(クアラルンプール)大雨となる。
歩いて十分の会場が雨だとタクシーで30分もかかった。
スタッフと食事し、レコード会社の重役を迎え、関係者が到着したが、ほとんど敵意のようなものしか感じられない。
もう終焉か。それもいたし方あるまい。
この雨で客足は悪い。
根本的に思考転換しなければこの3年続いた企画はもはや成り立たないだろう。
徒労感が強い。
プロジェクトリーダーは、もう二度とこれをやりたくないと言った。

12月13日(土)

早朝に起きてホテルのタクシーで空港に向かう。
10:00のCXで香港に向かい、到着は14:00である。
香港駅から上のIFCのシティースーパーにあがり、リエと携帯で連絡しながらスーツケースを転がしながら週末の食材の買い物をしてタクシーを拾って帰る。

12月14日(日)

朝から焼酎を飲んで、すきやきを食べた。
旨い。

12月15(月)

朝8:30からシンガポールとTV会議。正午まで三つの会議。
16:00に社内会議。
日本のN社長はロンドンに出張中。

12月16日(火)

香港で11時に打ち合わせ。
14時に社内会議。

12月17日(水)

9時に出社。準備をしてから香港島側で打ち合わせ。

12月18日(木)

2004年の「戦略」立案。予定も組む。

12月19日(金)

結局この日はジャカルタに行かなかった。香港で仕事。

12月20日(土)

読書。

12月21日(日)

夜7時の便でシンガポールに飛ぶ。

12月22日(月)

9時に出社。

ラップトップを繋いでメールしてから10時の会議にTVモニターからではなく直接参加。
会議が終わったのは正午。
14:00に外部で打ち合わせ。
17:00にもう一社と打ち合わせ。
夜は疲れたのでホテルでルームサービス。

12月23日(火)

9時に出社。ホテルに持ち帰っていたラップトップをLANに繋いでメールを取る。
9:30から新人を面接。間に女性プロデューサーと一つの案件を話し合い、11時半からもう一人を面接。12時にボスと話し合い。
午後一時過ぎに同僚のインド系Sの運転するヒュンダイでシンガポール人女性3人一緒にクリスマスディナー会場へ移動。雨が大降りになってきた。シンガポールは雨季なのだ。
住宅地にあるフランス料理屋でなかなかのもの。僕は赤ワインと牛タンのサラダと生牡蠣(カナダから空輸されたもの)を食べる。
15:00には当初予定していた通り、レストランの片隅で英国人EVP(イグゼクティブ・バイス・プレジデント)のPと話し合う。
それが終わってからPの運転するベンツで我々二人だけオフィスに戻る。
僕は秘書の一人に電話してタクシーを呼んでもらい(シンガポールは雨の日にタクシーはつかまらない)、メールをもう一度チェックしてからスーツケースを持ってオフィスを出てタクシーに乗り込んでチャンギ空港に向かった。
シンガポール本社を後にするとほっとする。
CXのラウンジでウィスキーを飲む。これで今年は仕事納めだ。
18:05のCX716便で香港へ向かう。
21:45に香港着。

12月24日(水)

起きてから流しに溜まった皿を洗った。
荷造りをして15:15のCX510便で台北経由、福岡へ。
毎日空を飛んでばかりいる。今年もアジアの国々からヨーロッパまで色々と飛んだが、年年歳歳飛ぶ頻度が多くなっているような気がする。来年はもっと飛んでもいい。
台北空港で約30分あったのでデューティーフリーを眺めたが、ここは大したことがない。
17:15には機内に戻り、福岡に着いたのは予定の20:55よりちょっと早かった。
リエのパパがわざわざ迎えに来てくださっていた。
彼の運転するMAZDAで唐人町へ。
二世帯住宅の下の会に荷物を置いて二階へ行くとリエ・ママがご馳走を作って待っていてくださった。お刺身と馬刺し。ご飯に明太子と味噌汁。旨い。
アマダイにカブ。
クリスマスの贈り物を渡す。

12月25日(木)

目覚めてもなかなかリエが起きてこない。外を散歩した。
家に戻るとようやくリエが起きてきたので二人で二世帯住宅の二階に上がって朝食を食べさせてもらった。魚と明太子とご飯と奈良漬と味噌汁。旨い。
お義父さんはもうとっくに出社したという。
母と娘は連れ立って外出した。
僕は皮の上着を着て散歩した。唐人町から天神まで延々と歩く。
書店ジュンク堂を上から下まで舐めるように眺めていった。これほど楽しい娯楽はない。
ただ、なんとなく前回来た時よりも本のラインナップが散漫になったような気がする。
帰りもまた地下鉄三駅分を歩いて帰った。途中、馴染みの古本屋を覗く。
色々と書籍を購入してしまった。
リエとリエ・ママが夕食を作る。
白眉は牡蠣料理。
牡蠣は大根の汁で洗い、牛乳で灰汁を抜き、衣をつけて揚げるのだという。
これが、さくさくと実に美味しい。

12月26日(金)

のんびりとした一日の夜、タモリの音楽番組を見る。
B‘Zはギターがまた一段と老けたし、ヴォーカルも老けた。相変わらずパワフル。
SPEEDは再結成すべきではなかった。上原だけである、単体で売れているのは。
浜崎あゆみは貫禄の中堅歌手となった。安定感がある。
上戸彩は声が良くない。グラビアで見るほど可愛くない。
BOAは凄い。17歳とは驚きだ。
AIKOは、僕は、いるかが嫌いなのと同じ理由で嫌いな部類なのだが、パフォーマンスが上手いので生き残ってる理由がわかった。
女子十二楽坊は企画した奴の勝利だ。
安室奈美恵は気の毒な運命の人というしかない。1995年頃の彼女は凄かった。
森山直太郎は、良い。目立ち方のツボも知っている。
中島美嘉は上手い。元モデルではなくて、元から歌手だったようにしか聞こえない。
GACKTは老けた。安定感がある。
ゴスペラーズも大物感を漂わせるようになったものだ。
V6も大人になった。
SMAPは、こりゃ、大御所である。皆、30過ぎてきたし。
TUBEは最低。というか、なんだよ、前田、その太り方は? 猪かと思った。もうすぐ韓国でコンサートをするというが、減量できないのか? 醜いぞ。直子は別れて正解だ。
キンキキッズの片方は薬をやっているのではないか?
タッキー&翼は可愛い。
エブリリトルシングは上手い。
ポルノグラフィーも上手い。けど、演歌みたいで好きになれない。
ケミストリーは上手いけど嫌いだ。だって、チャゲ&飛鳥と同じだから。
嵐も大物になったな。
そして、大好きなミスチルがトリだ。メンバーには苦労が滲み出ていたが、桜井くんはそれほどやつれてなくて安心した。なかなかいい歌じゃないか。頑張って欲しい。
鰤を焼いた。塩と胡椒と大蒜。旨いものばかり食べさせていただいている。

12月27日(土)

今夜はすき焼きである。
肉の奪い合いというような下品な展開はここでは無縁で、しっかりといただいた。旨い。
散歩して読書して旨いものを食べる、それだけの日々である。

12月28日(日)

リエ・パパの運転するMAZDAで長崎に向かう。
途中、居酒屋みたいなところで食事。
ハウステンボスには驚いた。それは後述する。
施設内の居酒屋みたいなことろで食事。
僕は居酒屋が好きだ。

12月29日(月)

ハウステンボスで家族四人が泊まった家はアムステルフェーンで僕が実際に住んでいた家に似ている。裏庭の池なんてのも、全くオランダ様式で、これまた驚いた。
皆は気球に乗ったが、僕は長蛇の列に恐れをなして遠慮し、ホテルアムステルダムで読書した。
ハウステンボスを出てからリエ・パパが佐世保に回ってくれた。
佐世保を初めて見た。
村上龍という人はここから出たのだな、と考えた。
展望台で車を出ると雨がひどい。非常に寒くもある。港の景色が寂しいものになる。そうしたものを反映してか、街では寂しそうなアメリカ人の若者を目にした。オフの兵隊に違いない。
居酒屋のような店でカレーライスとおでんを食べる。
魚市場スーパーに寄って、いくら、鯛、貝柱、烏賊などを買う。帰宅してからリエ・パパが牡蠣を炭火で焼いてくれて美味しかったが、煙が出てリエ・パパは大忙しだった。運転していただいた上に、すまぬ。

12月30日(火)

朝からご近所を散歩する。天神まで出てしまった。赤坂から、けやき通りという非常に洒落て閑静な住宅地を歩く。護国神社に出た。4時間ほど歩いたことになる。このご近所は綺麗だし、散歩が楽しい。
リエはパーマ屋へ行く。
僕はハウステンボスの衝撃を文章にしてみた。
アジアの路上で
「日本のオランダ」
戸田光太郎
イタリアからオランダに行った。派手な町並にファッショナブルな人々が行き交うローマから地味なアムステルダムに入ったので同じ欧州でも非常に侘びしい感じがした。私はこのオランダに一年半住んだ。十数年前、会社の先輩が私の住居を決める時に同行してくれ、別れ際に「戸田くん、君はこれから、こんな寂しい国に住むのか」と言い捨てて帰国したことを思い出した。私は南欧か東欧まで出張して留守がちだったし、当時は(一人でも寂しくない)と強がっていたが、こうしてアムステルダムを改めて眺めてみると十数年前の自分に憐憫の情を感じる。  
オランダから香港に帰ってほどなくして長崎のハウステンボスという所に初めて行ったのだが、正直、驚いた。私は本物のオランダに住んでいたわけだし、そんな「張りぼての西洋モドキ」など見ても仕方がないとずっと考えていたのだが、実物は驚異的な、というか、狂気に近い「本物」だった。これはオランダそのもの、である。石畳の微妙な凹み、建築様式と精妙な色合い、ドアのデザインや鋳鉄、街灯、ビルの間の物悲しい空間、運河や跳ね橋、裸の並木、ヨットハーバーの眺めやボードウォークの造りから走っている車まで一種の強迫観念と執念でオランダを再現している。妥協がない。これは断じて張りぼてなどではない。首都アムステルダムと古都ユトレヒトと海の町デンハーグのエッセンスが濃縮されたこの町を丸ごと作るには、建築家のグループが大規模な調査旅行と会議を繰り返し、本場の職人を呼び寄せ、建材を輸入しなければ不可能だ。町を歩いていると我が青春のアムステルダム時代にタイムスリップしたような甘酸っぱい物悲しさに包まれた。オランダ人が目隠しされて拉致されても、この町に軟禁されれば極東の島国まで移送されたとは気付くまい。
例えばディズニーランドはビジネスである。が、ハウステンボスはビジネスを拒絶し、文化の領域に踏み込んでいる。収支なんて本当はどうでも良かったのではないか。だから破綻したのだろう。オランダを日本に、そっくりそのまま細部に至るまで再現することには、ほとんど意味がない。これは高速道路やレインボーブリッジのような社会資本でさえない。しかし、意味のないことにこれほどの大金と情熱を投じてこれだけの規模で実現するのは、もはや「文化」である。バブル時代に大金を手にした日本人はロックフェラーセンタービルを買ったり、印象派の絵画を集めたりしたが、恐らくその中で最も狂気に近い確信犯として文化事業を成し遂げたのはハウステンボスの発起人だろう。それがどんな人かはこれから調べてみたいが、生憎ハウステンボスには本屋がなく土産物屋にも書籍が売っていなかった。だから背景知識はまだない。ひょっとすると現在のハウステンボスには自分の成し遂げた「偉業」に対する自覚がないのかもしれない。残念だ。オランダ駐在経験のある日本人、或いはオランダ旅行をしたことのある日本人には特にハウステンボスを訪れて欲しい。間違いなく感動する。感動して笑いが止まらなくなる。
夜になってリエと福岡ドームのシネマコンプレックスで「LAST SAMURAI」を見た。
意外に丁寧に作られていて、嬉しかった。渡辺謙がカッコ良過ぎる。◎と○の中間ぐらいである。僕はリエと違って「たそがれ清兵」の方が好き。同じ俳優(真田)が片方では全く精彩を欠いているのが興味深い。小雪も好演。

12月31日(水)

一日またのんびり。
紅白歌合戦を見る。
僕は見逃したのだが、リエが言うには、後藤真希が「オリビアを聞きながら」を歌いながらいつのまにか水着姿みたいになって曲と全く合わなく、どうして弦楽四重奏とかにぜずに水着のノリにしたのか謎だと言っていた。
あややも脱いだし、皆脱いだ。なんだか脱がせればいい、というNHKは珍しい。

 
 




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